第135話 そしてまた日常
帝国魔導士隊の朝は早い。
すでに日の出前には、帝都からほど近い隣の村まで遠駈けの訓練が行われている。
構成員は、20代後半から30代前半の古株が7名と、数え15になり兵役を課せられ祈にその素養を見出された新兵から65名の、合計72名だ。
すでに彼らは無属性の中級魔術である<抗魔術防御障壁>だけでなく、それぞれ得意とする系統の中級魔術を最低一つは修めていた。中級魔術のどれかを修めている。これは、魔術士として一人前の証でもある。
魔術という果て無き技術。少年達は、学び始めて半年も満たない僅かな間に、その頂まで駆け登ったのだ。
訓練は更に苛烈に、そして容赦無く過酷になっていた。
自身の体重とほぼ同じ重量を背負うだけでなく、武器や具足を身に纏ってでの早駈けに、今はなっていたのだ。
「今纏っている鎧は、戦場でお前達の身を護ってくれるだろう。でもね、その重さは案外馬鹿にできないし、動きにも制限がかかる。だから、これに慣れていかなきゃね」
具足を纏っての早駈けは、一般兵でも行われる訓練である。だが魔術士隊では、更に自身とほぼ同じ重量の重しを背負わねばならない。
そして、追跡者琥珀の存在がある。
「琥珀に追いつかれた奴は、更にもう一式の具足を付けて、一往復追加だよっ!」
平時においても彼らの視線の先には、常に白虎の獣人である彼女の巨乳があった。
若く熱いエロ心を否定する事なぞ、誰にもできないだろう。それがダイナミックにも、ばるんばるんと揺れる姿をまともに拝める機会は、恐らくこの時しかない。だが、それをほんの一時でも拝む為には、地獄の追加メニューを受け入れるのと同義なのである。
誰がその様な分の悪すぎる賭けにでるであろうか…
いた。
自他共に認める巨乳好きの少年が、彼女の巨乳を拝みつつ地獄の罰ゲームを回避する方法を思い付いたのだ。
(へっへっへ。俺はこのためだけに身体強化を覚えたんだ。きっと上手くいく! いざっ、お姉様の魅惑の揺れるおっぱいっ!)
無属性の魔術は、習得が難しい。火属性魔術ならば火の。水属性魔術ならば水…という様な、単純なものではない。補助系統の術というものは、ぱっと見える様なものではないので、具体的なイメージが沸かない為だ。
身体強化は、中級魔術の中でもその習得難度はかなり高い。だが、彼はやり遂げたのだ。自身のエロ魂を満足させる…その一点の曇り無き目標の為に。
(巨乳のお姉さんに抜かれぬギリギリのスピードを保ちつつ、横目で揺れる巨乳を、俺は思う様堪能してやるっ!)
少年のすぐ後ろに、琥珀が迫ってくる。彼の耳には、揺れる巨乳の波打つ肉の音が、確かに幻聴えていたのだ。
「いくぜっ! 身体強化っ!」
心の中で全小節を唱え、周囲のマナに術の宣言と設定によって、指向性と力を持たせた。魔術は、確かに彼の身体の全ての能力を、詠唱によって込められたマナの力の分だけ強化していた。
身体が軽くなった気がした。
全身に巡る血が、より一層躍動し、身体の奥から沸々と熱が沸き上がる。
心臓が、肺が、今までの負荷から解放され、一気に力が漲る様な高揚感を覚えた。
大地を踏みしめる足の力が、親指の先にまで行き渡るのを、少年は感じた。
イケるっ!
彼は僅かに横へ目を向け、切に望んでいた上下に激しく揺れる巨乳を堪能し、そして彼女の上気した息づかいと、甘い匂いを全身で感じた。
(…これが至福という奴か…俺、今なら死んでも良い…)
「解呪。そして加重」
先程の万能感にも似た魔術の強化が全て消え失せ、少年は自身の背負う重しに足を取られた。それどころか、重しだけでなく身に纏った具足と、自身の重さが急激に身体にのし掛かり、ついには両手両膝をついて動けなくなってしまった。
少年の目の前には、彼ら帝国魔術士隊の面々が愛してやまない”我が麗しの上司様”こと尾噛祈の姿があった。上司様はずっと開始位置に居る筈だ。それが何故、ここに? 少年の口からは、恐怖に引き攣った掠れ声が漏れた。
「うん。身体強化なんて難しい魔術を覚えるとは、お前中々見所あるね。でも、誰がそれを今使って良いと言った? ズルは絶対に赦さないよ」
早朝の遠駈けは、基礎体力の向上を目的に行われる訓練である。魔術を使うのは、当然認められない。
<加重>によって、自身にかかる強烈な重さに耐え跪いたままの少年の視線に合わせるかの様に、祈はしゃがみ少年の顔をのぞき込んだ。
「お前の総重量を倍にした。んで、琥珀に抜かれたから、更にもう一周追加だよ。まぁ、歩くのはこの際大目に見てあげるがら、頑張れっ♡」
血の色よりも深い鮮やかな紅玉の瞳に見つめられ、少年は、その瞳の色に魅入られる様に、ただゆっくりと頷くしか無かった。
「しかし、そんなにおっぱいって良い物なの? こんな危険を冒してまで、さ。今度、その辺じっくりお話聞かせて貰えるかな?」
『そりゃ、お子様体系のアンタにゃ、絶対に解らないだろうさ』なんて、少年は僅かながらにそう思っていたとしても、口が裂けても言える訳が無い。言ったが最後、本当に口が裂けるだろう事が明白だからだ。
そして、そんな彼女に対し、おっぱいの素晴らしさを説明してみろと言われて、困惑と同時に、命の危機を感じずにはいられなかった。世が世なら祈の台詞は”パワハラ・セクハラ”と訴えられてもおかしくはないのだから。
「…ははは…はひ…」
汗だくになりながらも罰ゲームをやり遂げた彼は、結局その日の朝食にありつけなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「しかし、困ったな…」
鳳翔からの書簡を前に、望は唸っていた。
帝都にある尾噛の屋敷が燃え、祈が危篤にまでなったという一件への返答に、月を跨ぎ届けられたのは鳳の手による書ではなく、帝国から正式な謝罪文だった。
それは良い。本音を言えば全く良くは無いのだが、帝国、ひいては帝からの謝罪であれば、臣である以上、当然受け入れねばならぬ。
だが、それの後に続く文が問題だった。
「…何故、帝国に対し何も功績を挙げていない若造の僕が、いきなり四天王に指名されるんだ?」
<四天王>という明確な役職なぞ、帝国の法のどこにもその様な記述は無い。だが、事実的には、帝に次ぐ意思決定機関としてその存在が多くの臣民に知られるものであった。
先代の垰が、その役に就いて数々の武勲を立てたのを望は知っている。
だが、それは垰が帝国からの討伐の要請に応え続けた功績により得たものであった筈だ。
確かに望率いる尾噛家は、牛田家征伐の勅を受けたし、実際にその牛田家を帝国の傘にもう一度引き入れはした。だが、その程度の功績だけで、ここまでの誉があるとは思えない以上、望には困惑しかなかった。
それに、すでにあれから一年以上経過しているのだ。今更である。
(指名に、明確な理由が無い以上は、辞する事も視野にしれた方が良いか…)
また垰の様に、死地に赴けと言われても仕方の無い状況に追い込まれる可能性も充分あり得る。望の両肩には、尾噛の里に住まう全ての領民の命が掛かっている以上、素直に喜ぶ訳にはいかない。ましてや、胡散臭すぎる話のせいで、喜びなぞ一欠片も覚えないのだから。
「望さま、とと様は深く考えていないと思いますよ。あの人、勢いだけで人事決めますし…」
「本当になぁ。お父さん、深う物事ば考えんけん。ここでアタシらが、どげんこげん言うたっちゃ仕方無かばい」
(…本当に、この二人はあの鳳翔の娘なのだろうか?)
娘達のあまりにあまりな父への評価に、望は残念な者を見る様な眼を、かの翼持つおっさんの幻へと向けた。
「つーか、アレだろ。オメーん所が官位低すぎっから、テキトーな役職のっけて箔付けって奴。直接官位を上げるにゃあ、他の貴族や役人達からの反発大きいだろうからな。お手軽な手段って事だろうよ」
頬張った飴ちゃんをガリゴリと噛み砕き、つまらなそうに紋菜は思ったままの言葉を口にした。
牛田家はそれなりに長い歴史を持つ。元々が属領であった頃からの豪族家の一つなのだ。当然、この顔ぶれの中では、恐らくは帝国貴族の考え方を一番承知しているだろう。
「…ああ。そういう理由ならば納得できます。如何にもあのケチンボ大帝ととと様の考えそうな事ですね」
空の不敬過ぎる発言に、家宰の沖が大きく咳払いをした。こんな事を帝国の草に聞かれでもしたら、尾噛の家にどんな厄災が降り注ぐか解ったものではないからだ。
「まぁ、それも憶測でしかないんだけれどね。仕方無い。一度帝都に行くか…」
望の提案に、空、蒼、紋菜…その場に居る全員が頷いた。
「そういや、あたい帝都は久しぶりだなぁ。飴ちゃん買い込んでやるかぁ」
喜色満面の紋菜に、望は『え、あんたも付いてくるつもりなの?』という表情を浮かべるが、空も蒼も残念そうに首を横に振る。
「…では、その様に」
そんな頭首の事なぞ気にすることなく、沖はただ一礼をして部屋を出て行った。
誤字脱字があったらごめんなさい。




