第121話 その後始末的な話8
「光義様、何処におわしまするか? まさか、このかなえを捨てて、どこに…どこへ…」
光義の乳母であり、大林家の裏の支配者でもあるかなえは、部屋の惨状を見て愕然としていた。
襖、畳、壁、欄間…夥しい血痕と血だまりは、部屋一面に及んでいた。ここに流された血の量を見るに、どう考えても光義の命は…
「み、みつよしさまぁ…かなえがわるぅございました…みつよしさまがおらねば、かなえは…かなえは…」
帝家の高貴なる血を持つ光義の乳母として、かなえは人生の全てを費やし彼を育て教育してきた。その自負があった。
子として、そして一人の男性として愛した。身分違いだと分かっていたから、乳母として、母として、無理矢理心を殺してそう接してきた。全ては光義が、至高の存在となる様に。
だが、部屋の惨状を目の当たりにして、かなえはそれが適わぬ願いになったのだと思い知らされた。恐らくは、先日襲ってきたという賊にやられたのだろう。
「あ…あは。あははははははははははははははは…」
かなえはもう、狂うしかなかった。
齢90に届こうかという老婆の、人生の全てをかけた愛しき子が居なくなった。
その事実を受け入れるには、老婆の心は強くなかった。
愛しき我が子のだろう乾いた血だまりの真ん中で、かなえは精神の終わりを迎えた。
「光義様、これをお持ち下さい。斎宮の衛兵に見せれば、必ずや一光様に通じましょう」
祈は、一光に宛てた文と、尾の鱗の一つを光義に差し出した。”魔の森”を共に駈けた戦友である一光ならば、これだけで誰の手による書か分かる筈だ。
「重ね重ねすまぬ。最後まで面倒かけるが、赦して欲しい」
文と鱗を受け取り、光義は深々と頭を垂れた。勢いで捨てたが、皇族の地位に全く未練は無い。
だが、自身の選んだ道によって、幾人もの人生を狂わせてしまったという負い目が光義にはある。凛とその家族。乳母のかなえに、大林の家の者達。そして…
「尾噛の娘よ。麿の犯した過ちの数々、その精算を押しつける形になってしもうて本当にすまぬ。麿の翼とその書があれば、恐らくは其方に類は及ばぬ筈だ」
「え…? 何故…」
「麿が気付かぬと思うたか? そもそも其方を知らぬ者なぞこの帝都におらぬわ、たわけが。竜を操りし、”白銀の竜姫”よ」
竜殺しの英雄である初代駆流から続く、尾噛に流るる血の特徴を知らぬ者はこの国にいない。さらには、祈自身も竜を使役する程の強大な力を持った姫として、帝都で知れ渡っているのだ。
その事を祈が失念していたのは、その事実を受け入れ難く思っている為なのか、はたまた完全に抜けていただけなのか…それは当人にしか解らない事だ。
だが、その事実を光義の口から嫌という程思い知らされた祈は、今までの苦労は一体何だったのかと膝から崩れ落ちた。
「…其方、強かな様で、かなり抜けておるの。その様な為体では、帝都に棲まう魑魅魍魎共に、良い様に翻弄されよう…」
がっくりと項垂れた祈の反応を半眼で暫し眺めた後、光義は呆れ顔で追い打ちをかけた。恐らくは実家に迷惑をかけない様に立ち回ったつもりなのだろうが、この娘は自身の評判に無頓着過ぎた。あまりに世間を知らなさすぎるのも問題だと、光義は思う。人の事は言えないという自覚はあるが。
「き…肝に、銘じます…」
「そも、麿も偉そうに人の事は言えんのだが。名を捨て、家を捨て、そして国を捨てる…世間知らずでなくば、この様な愚かな行為は出来ぬでな…のぉ、凛よ」
「愚か…それで良いではございませぬか。少なくとも、わたしは幸せでございます」
光義の手を握り、凛は幸せそうに微笑み頷いた。帝都から出て行かねばならぬが、凛には山嵐組がいる。すぐ側に愛する者もいる。これ以上何を望むというのか。
「それでは、世話になった。向こうで落ち着いたら、文の一つでも出してやるでの。期待しておれ」
「祈さま、本当に有り難うございました」
「お姫さんや、散々腐してすまんかった。だから、そう殺気立った眼を向けねぇでくれや…」
脂汗を滲ませながら、徹はぺこぺこと頭を下げる。ちんちくりん、幼女、ぺったん…数々の最悪のNGワードを、祈は生涯決して忘れないだろう。だからこそ、徹に向ける視線は絶対零度にならざるを得ないのだ。
「無理。乙女の心を傷つけた罪、絶対許さないかんね。本当に許して欲しかったら、指宿の甘薯を季節になったら送ってきなさい。それで考えてあげなくもないよ?」
「安っ…じゃない、分かった。絶対に送る、送ります。だから本当に、勘弁してくだしあ…」
そういえば、紋菜は甘薯から酒精を作り出せたのだろうか? それも確認できずに、祈は何ヶ月もずっと奔走させられた。多分、今回の後始末の他にも色々と面倒な事が待っているのだろう。そんな想像をするだけで、すでに祈は疲労感でいっぱいになってしまう。できるものなら、のんびりと生きたいものだ。
「ワイらは何処でも生きていけるけん、心配せんでええわいな。落ち着いたら遊びにけぇ」
巌はゴツゴツとした大きな手で祈の頭を撫でた。端から見たらただの児童虐待の図にしか見えないのだが、細心の注意をはらった絶妙な力加減の様だ。船斗は心底心配そうに見ているが、祈はくすぐったそうに首を竦めるのみである。
「では、の。後の事、よろしく頼む」
光義の合図で、山嵐組達は帝都から去って行った。斎宮までの遠い道のりは、恐らく光義と凛の二人には最初の試練となるだろう。それを乗り越える事ができるかは、祈には判らない。
…だけれど、きっと。
新天地に向かう彼らに、幸あらんことを。
愛し合う二人と、その家族達の姿が見えなくなるまで、祈達は見送った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「しかし…こうなるとは。ねぇ、翔ちゃん?」
「だねぇ、光クン。本当に、あの子も無茶をする…」
この国で一番偉い存在と、それに次ぐ存在の翼持つ二人組は、御所の一番奥の部屋で緑茶を啜っていた。お茶請けは、古賀一光の名で送られてきた指宿の甘薯を蒸かしたものだ。
「でもまぁ、最後はこうなるんじゃないかって、実は思ってたんだよねぇ…あの子、頭は良いけどバカだから」
光輝は、血の滲んだ包みを撫でた。この中には、あの子の…光義の紅の翼が在る。この包みの中身は、彼の決意であり、決別の証。もう二度と逢う事の適わぬ、重い重い絶縁状なのだ。
「…それにつきましては、臣からは何も言えませぬ…ってゆうか、いくら此処でも、君の息子さんについての批評をボクができる訳ないじゃないか」
「ごめん、ごめん。でも、これからあの子は大変だろうなぁ…大林の家にいれば何不自由無く過ごせただろうに…ねぇ?」
「彼より古賀のボンの方が苦労しそうだけれどね。でも、上手い事考えたよね。斎宮は帝国にとって聖域だ。あそこに入られては、もうボクらは手が出せない」
斎宮とはもう一つの帝国である。帝国の政の理屈と都合が通用しない地なのだ。いかに帝といえど、力ずくで斎王を動かす事はできない。
「まぁこれで山嵐組っていったっけ? 彼らを死なせずに済んだし、光義を利用してチョーシこいてた大林家を凹ませる口実もできた。今までの犠牲者達には、本当に申し訳無いんだけれどね」
「そこは大林家に償ってもらおうよ。色々と邪な下心に基づいた行動だった臭いしね…」
翔は翼を広げ大きく伸びをした。エンドレスの事務仕事で、身体の節々が凝り固まって痛い。もうそろそろ引退を考えたいお歳頃なのだが、親友の帝が離してくれないというのが、目下の悩みの種である。
「…尾噛の娘、祈ちゃんっていったっけ? 本当に、あの娘には頭が上がらないなぁ…」
「それを態度で示してあげられないのが、ボクらの辛い所だねぇ」
蒸かし芋を一囓り、そして緑茶を啜る。”甘薯”とはよくいったものだ。口の中に広がったねっとりとした甘味を、緑茶の渋味で洗い流す。いくらでもイケてしまう上品な味わいに、翼持つええ歳こいたおっさん共は暫し時を忘れた。
「特に今回の一件は表沙汰にできないから、本当にね。個人的な感想を言っちゃえば、領地を与えてやりたいくらいなんだけどね」
「それ冗談でもヤメて。これ以上貴族を増やされちゃ、ホント困る。本音を言えば、最低でも家を3つ4つ潰したいんだからさぁ」
今回の一件を口実に、大林家を取り潰してやろうかと翔は考えていた。皇家の血を引く光義の失踪と、現場に残された多くの血痕。これだけでも充分過ぎる程だ。
「だよねー? まぁ、折を見て勲章の一つでも…って所かな。本当にあの才能、惜しいなぁ。女の子でなければ…」
「才能で言えば、望クンも凄いんだけれどね。垰クン以上だよ。領地経営にかかりっきりにしてしまっているのが本当に惜しい。あの才能、是非とも帝国に欲しいんだけれどねぇ」
もう一度、蒸かし芋を囓り、緑茶を啜ってほぅっと一息。
「そういや翔ちゃん、祈ちゃんを帝都に呼んだのは何故だい?」
「ああ、そうそう。彼女、魔術士を育てるのが上手いらしいんだ。だから、ウチの魔術士どもを鍛え直して貰おうかと」
「なるほど。じゃ、あの娘、とうぶんは帝都にいるんだ」
「そうなるね…そろそろ本当にボクの命、ヤバいかも…望クンに殺されそうだ」
邪竜の太刀を大上段に構え、こちらに向かって一直線に疾走する望…そんな悪夢をたまに視る様になってきた翔は、その状況を頭に思い浮かべ、ぶるりと身体を震わせた。
もし現実のものになったら、恐らくは抵抗らしき抵抗もできずに、ズンパラリンと綺麗に真っ二つになるだろう。
「うん。その時は、骨は拾ってあげるよ…きっと。うん…」
蒸かし芋を口いっぱいに頬張る事で、翔は親友に怒声を浴びせてしまうのを、何とかギリギリで堪える事に成功した。
誤字脱字があったらごめんなさい。




