第116話 何かを食べたくなって
「お姫さまぁ、こっちです、こっち。こっちから美味しそうな匂いがしますっ!」
「ちょっ、わかった。わかったから引っ張らないでって…待て。琥珀さん待てっ、だよ!」
琥珀が嬉しそうに祈の手を引っ張りながら、辺りに漂う匂いだけを頼りに夜の街を先導する。
「…雪殿、あまり姫様を困らせては…ああっ、もう。すまぬがもう少し落ち着いて下さらんか」
見知らぬ街に独り置いてきぼりを喰らわせてしまった琥珀のご機嫌を取る為に、祈が晩ご飯を外で食べようと提案したのが、事の切っ掛けだった。
今まで閉ざされた集落の中だけで生きてきた琥珀は、街に出るというだけでも今日はじめての経験なのに、さらに外食までときては、流石にはしゃがずにはいられない様だ。
そして、はじめての外食なのだから、なるだけ美味しいものを食べたいという気持ちは、誰もが否定する事はできないだろう。辺りに漂う美味しい匂いは、どれもが甲乙付け難く琥珀を大いに悩ませた。
川魚が焼ける匂い、獣肉の肉汁が焼けた炭に落ちる匂い、これは醤だろうか? タレが焦げる匂い…そのどれもが、歩き疲れた空きっ腹直撃し、若い食欲を刺激した。
「ふあ。これは…たまんないネー」
今日は兎に角大きな事件に巻き込まれてしまったため、ろくに昼餉も摂っていない。誰もがかなりの空腹だった。そこにきて、この食欲中枢を激しく揺さぶる匂いの攻撃である。抵抗なぞできる筈もない。目に付くもの全てが胃を刺激し、涎を誘ってくる。
「ここは、色々な屋台や飯屋、居酒屋が立ち並ぶ通りですから。どの店でも、酒や飲み物を注文すれば持ち込みができますので、目に付いたもの買い込むという手もあります」
どの店でも”自慢の味”というものを持っている訳ではない。だが、生き残りを賭けているのだから、様々な手段を講じるのは当たり前の事だろう。”水商売”という言葉は、酒や飲み物を扱う商売を指す。これらが一番店の利益率が高いのだ。ゆっくりと食事する場所を提供する代わりに、酒や飲み物を売る。これも繁華街での一つの商売の形態といえよう。
「それもいいかなぁ…んじゃ、みんなそれぞれ気になるものを買って、そこの居酒屋さんに持ち込むって事で、いいかな?」
「…駄目です。絶対に琥珀は、お姫さまの側を離れませんっ!」
握った手に力を込め、琥珀は祈の提案を頑なに拒んだ。見知らぬ街での置いてきぼりは、琥珀に相当なトラウマを植え付けてしまった様だ。もう絶対に離れたくないという琥珀の気持ちが、握られた掌から嫌と言う程流れてくる。
「…はぁ、仕方無いなぁ。じゃあ、船斗さん。色々見繕ってきてくれるかな? 私達は先にお店に入っとくから」
「承知。とびきりの一品を探してきましょう」
船斗は祈に一礼してから、屋台の多い通りへと消えていった。考えてみたら、元々帝都は船斗の地元みたいなものだ。彼に任せておけば、少なくと大きなハズレは無いだろう。
「それじゃ、私達は先にお店に入って席を確保しようね。船斗さんが戻ってくるまで、待ってなきゃ、だよ?」
「はぁい」
琥珀は祈の手をもう一度握りなおして、嬉しそうに返事をする。祈の弱味につけ込んだ上で我が儘を言って困らせている自覚はあったのだが、ここまでちゃんと聞いてくれると判ってしまうと、どうしても次へ次へと欲望が加速して止められなかった。
(お姫さま、今日だけは、ごめんなさい。明日からはまた、忠実な従者に戻りますので…)
だから、琥珀は心の中で主に謝罪する。今だけは。琥珀は主の手の温もりを刻み込む様にもう片方の手を添えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「わぁ。どれも美味しそうですぅ…」
「これらは、私が以前よく通っていた屋台の料理です。お二人の口に合えばよろしいのですが」
川魚の塩焼き、鰻の蒲焼き、焼き団子串と、どれも片手で食べられる様な手軽な料理が並ぶ。そして、どうやら目に付いて入ったここの居酒屋は大当たりの店だった様だ。名物料理にかしわ飯、がめ煮があるという。それらを人数分注文する。船斗も琥珀も酒は嗜む程度ではあるが、勿論今はお役目中であり、酒を辞して緑茶を頼んでいた。
「別にお酒、頼んでも良いんだよ?」
「いいえ。いかに姫様のお許しを頂けたとはいえ、ここは我らのけじめですな。この線引きだけは、どうかご容赦を…本来であれば、主と同じ食卓を囲むなどという行為自体、赦されることではございませぬので。これ位は」
「本当に、船斗さんはそういうところ堅いなぁ…私は別に良いって言ってるのに」
「ごめんなさい、お姫さま。酒精は頭を鈍らせてしまいます。私も水面様も、それで万が一があってはならないと考えているんです」
それならば仕方が無いと、祈はここで引くことにした。同じ食卓を囲んでくれるだけでも由としよう。無理強いしても、場の雰囲気を悪くするだけだ。
「それじゃ食べようか。これ、がめ煮って言うんだっけ? 色々入ってて美味しそうだ」
鶏肉と根菜類がゴロゴロと沢山入った煮物は、この辺りの郷土料理だという。この世界では、川魚もそうだが鶏肉というものは、安価に庶民でも口にできる貴重な動物性タンパクだ。そもそも滅多に口にできないどころか、逆に自身が喰われてしまう可能性の方が高い魔物の肉を、力に任せて大量に仕留めて持って帰って来る尾噛軍が普通に考えれば異常過ぎるのだ。
「その煮汁がこれまた美味い。少々品が悪いのですが、飯にたっぷりとかけると…これがもうたまりませぬ」
「わぁ。それ聞いてしまうと、やってみたくなりますねぇ」
「今日はかしわ飯もあるし、それは次かな。琥珀さん、もし足りなかったらご飯頼んでも良いし。今日やっちゃう?」
「…えっとぉ……ああ、ダメダメっ。太っちゃいますっ! 今日はここまでですっ!」
「ホントぉ? ちゃんと足りるのかなぁ? 琥珀さん、いつも結構量食べてるし…」
「そ、そそそそ、そんな事、無い…です…よ。ね、ね、水面様?」
「…そこは、私の口はからは、なんとも…」
丁度蒲焼き串に食らいついた所で、琥珀に話を振られてしまった船斗は、顔を逸らしてノーコメントを貫いた。男の船斗の目から見ても、琥珀の食事量はかなり多く見えた。都合三人前はぺろりと喰う。逆に祈は見た目以下の食事量で、逆に心配になるくらいだ。そのギャップが、更に琥珀の異様さを浮き彫りにする。
「…あえて、私から物申すとすれば、姫様は小食過ぎるということだけですな。いつも身体を大きくしたいと仰っておりまするが、それでは全然足りませぬな。せめて、雪殿の半分は…」
「水面様、ひどいっ! それってまるで私が人様の倍以上食べてるみたいじゃないですかーっ!?」
流石に『いや、その通りだろ』とは言えずに、船斗はまた琥珀から顔を逸らした。見た目通りの年齢であるならば、琥珀も妙齢の乙女なのだ。心ない一言で傷つけてはいけない。船斗は紳士だった。
「親父ぃ! 酒だ、酒持って来いっ!」
怒声に近い野太い声に、店内にいる人間全員の視線が一斉に店の入り口に向くが、声の出所を確認した途端に、皆一様に慌てて視線を逸らした。この様な所でヤクザ者共に絡まれるだけ損だ。
そのヤクザ者達は態と自身を誇示するかの様に、更に大声を挙げながらドカドカと店内を闊歩する。彼らはこの店で酒と料理だけでなく、手頃な生贄をいたぶって楽しもうと考えていた。その為に、殊更に周囲を圧する様に自分達の力を誇示するかの如く大声を上げていたのだ。
(祈殿、山嵐組とか申しましたか、例の若頭が…)
(…だね。面倒だからなるだけ関わらない様にしとこ)
祈は軽く印を結ぶと、自身の周りに軽い認識阻害の結界を張った。あえてこちらを注視しようとしない限りは、誰も祈達の存在には気が付かない筈だ。
「っかー! 相変わらずシケてやがんなぁっ。親父ぃ! 早く酒持って来い」
数名の取り巻きを従え、若頭は態々祈の目の前の卓についた。認識阻害の結界がばっちり効いている様で、山嵐組の連中は全然気付いた様子がない。
「姫様…」
「うん、今は知らんぷりで。でもごめん。ちょっとだけ、様子見よっか」
尾噛の家の事を考えれば、もう関わらない方が得策だ。だが、未だ若頭の言葉が、祈の頭から離れないのだ。
「畜生め。あんの小娘、絶対にただじゃおかねぇ…」
「若頭ぁ、俺らじゃあんな化け物、絶対に無理ですぜぇ」
「射った筈の矢が、それ以上の速度でこっちに返ってきたって、他の連中に言ったら絶対あり得ねーって笑われっちまいましたよ」
「馬鹿野郎! そこを何とかするのがオメエ等の仕事だろうがいっ! 絶対に俺達に楯突いた事を後悔させてやんなきゃ、この商売成り立たねぇんだよっ」
「ってか、目ぇ醒めた時に返ってきて刺さった筈の矢傷も無かったし、もしかして俺ら化かされたんじゃねぇんですかい? あの娘は、幻術使いって可能性も…」
「「「「「それだっ!」」」」」
「なるほどなぁ。おめぇ賢いな! そうでなきゃ俺等があんな小娘一人に良い様に手玉に取られる訳はねぇぜっ!」
「そうと判れば、もう怖くねぇっ。術をかけられる前にふん縛ってやる」
「こ、ここここ今度こそ、あっ、あじっ、味見…い、いいいい良いですよ、ね? ね? ね?」
「…ほんとテメーの趣味にゃドン引きだな。あんなぺったん幼女の何処が良いんだってんだ…ありゃあとせめて7年は要るだろがよ」
「顔は良いんだが、せめてもうちょい背が欲しいかなぁ、見た目が餓鬼過ぎた。あれじゃ勃つもんも勃たねぇ」
「「「「違ぇねぇ!」」」」
背後にその本人が居るというのに、山嵐組の男達は散々祈を腐した。ぺったん、幼女、あと7年、餓鬼…虎の尾ならぬ、竜の尾を徹底的に踏み抜いている事に、彼らは一切気が付かない。
船斗と琥珀は、祈から漏れ出る殺気に中てられ、今にも泡を吹きそうになっていた。
(祈ぃ。言われてっぞぉ? いやぁ、まだ色気づくにゃ早いってなぁ)
ニヤニヤと笑いながら、俊明は祈の頭上で高速回転しだす。お前はまだお子様だ、色恋沙汰は早いんだと身内に嬉しそうに言われると、祈でなくてももムカッ腹が立つというものだ。
(うっさい、とっしー! それ以上言うと、後で髪の毛全部引っこ抜くかんね?)
(ま、ま、ま、ま…祈殿おさえておさえて…ここで癇癪起こしては店に迷惑が…)
(ちょっとあたしも腹立ったから、こいつら呪っても良いかしら? 大丈夫、二日でコロりの良い呪殺技があるのよん)
(((やめてっ!)))
それから船斗と琥珀にとっては、一方的な地獄と忍耐の時間が流れた。
祈も努めて冷静になろうとするのだが、山嵐組の男達は、酒の肴に”クソ生意気な小娘”の悪口を重ね続けたが為に、それは叶う事はなかった。認識阻害結界があっても、ついつい漏れ出でる極寒の冷気にも似た殺気に中てられてしまった客達は、そそくさと一組、二組と店を出ていく。結果として、祈は店に大損害を与えていたのだ。
男達は満足げに腹をさすりながら居酒屋を出た。それに合わせるかの様に、祈達も店をあとにする。もう一度彼らに事情を聞こう。そこからどう動くかを判断しようと祈は決めた。間違っても先程のNGワードの数々への報復ではない。多分…
「はぁ、しんどかったです…お姫さまぁ、お気持ちは分かりますけれど、私達の気持ちも分かって欲しいですぅ」
「ごめんね琥珀さん…ささやかな乙女の誇りが、どうしてもアイツ等を赦すなって…」
ほろ酔いで良い心持ちになっている様子の山嵐組の男達の後ろ姿を、三人は気付かれない様につけていく。夜遅くなってきたとはいえ、ここは歓楽街だ。未だ人の足はある。派手な事をしない限りはバレる事はないだろう。
男達は歓楽街の外れにある賭博場の方に向かっている様だ。帝より認可された賭博場であるならば、そろそろ店じまいの時間だ。その為か、何時しか人の足もまばらになっていた。
山嵐組の男達は、このまま本拠地へ戻るのだろうか? 屋敷の中に入られては、事情を聞くのも面倒になる。そろそろ仕掛けるかと祈は思っていた矢先に異様な殺気を感じた。
(祈殿、気付いておられますか?)
(うん。あちらの人達に用があるっぽいね。数はそれなり…か)
「二人とも、ちょっと隠れて」
祈の指示で、船斗と琥珀は路地裏にさっと隠れ、先の様子を覗った。
「お姫さまもお気付きですかぁ。どうします? あの人達…」
「どうしようかなぁ、ってのが本音かなぁ? …ま、ちょっとだけ様子を見ようか」
黒い装束で全身を包んだ男達が、腰の物を抜きながら山嵐組を取り囲む様に行く手を遮った。その数14人。山嵐組の男達の倍以上だ。
「ンだぁ、テメェら…?」
若頭は内心ビビりながらも、それを表に出す事なく黒装束の集団に向けて誰何した。
表上、帝国はこの認可を与えてはいるが、賭博場や遊郭の辺りは基本的に一切の権力の力が及ぶ事のない苦界だ。当然、この様な刀傷沙汰があっても、どちらも罰せられる事はない。喧嘩で怪我を負ったり死んだりしたら全くの死に損の場所なのだ。
「山嵐組だな、お前等はやり過ぎた。ここで死んで貰わねばならぬ」
「っけ、ざけンな。人様に舐められちまったら、この商売あがったりなんだよっ! おい、野郎ども、やっちまいなっ!」
「「「「「合点っ!」」」」」
山嵐組の男達は若頭の号に応え、腰や懐に隠した短刀を抜き、黒装束の集団に躍りかかる。辺りは一気に血の臭いの支配する混沌と化した。
(黒装束の人達、正規の訓練を受けているのかな? 皆、癖が似ている…)
(ですな。恐らくは同門、もしくは同じ家に仕える者でありましょうか)
(でも、帝国の兵隊さんじゃなさそうだし…何だかキナ臭いなぁ)
「うん、決めた。山嵐組の人達を助ける。琥珀さん、船斗さん、黒装束の人達を殺さない様に無力化。いくよ」
「はっ」
「わかりましたぁ」
三人は路地裏から出て、血生臭い乱闘に飛び込む。
この事によって、後にどういう結末を迎えるか…それはまだわからない。だが、今はこの選択が最良だと信じた。
誤字脱字があったらごめんなさい。




