第107話 満腹には全然足りない
尾噛軍は、大量の飛竜を掲げ、夕刻前には国境の砦に凱旋を果たした。
砦の広場に次々と積み上がる夥しい数の飛竜を眼にした兵士達は、つい感嘆の声を漏らした。
「すげぇ。これだけの飛竜、お前見た事あるか?」
「あるわけねーだろ。こんな数がきたら、俺ら絶対死ぬって…」
「おうおう、こりゃまたド派手な事しでかしやがって。指揮が代替わりしても、尾噛の強さは健在だな」
広場の喧噪で起こされた防衛軍司令の牙狼鋼が、欠伸を噛み締めながらも尾噛軍を出迎えた。
「総司令殿っ! 尾噛軍、無事オカズ確保に成功いたしました!」
祈はドヤ顔のまま、砦で一番偉い人物である鋼の前に立った。無い訳ではない、だけれど、やっぱりそんなにある訳でもない胸をいっぱいに反らし、精一杯の威勢を張って。
『よっしゃー宣言通り、今夜は肉の祭典だっ!』
自信と食欲に満ち溢れた祈のその表情に、鋼の顔も思わず綻ぶ。
(っへ。やっぱり昨日のアレが悔しかった様だな。何だかんだ言っても、こいつは立派な将だってこったな…)
「しっかし、飛竜を獲ってくるたぁな。尾噛軍の強さ、良く解った。砦を預かる者として、感謝する。お前達、ツイてるな! 飛竜の肉なんて、そうそう食えねーぞ?!」
鋼の声で、砦中から大きな歓声が上がった。飛竜の肉は、滅多に手に入らない貴重な食材だ。なのに、それが目の前に大量にあるのだ。
食い放題。
魅力的な四文字が、兵士達それぞれの脳裏にキラキラと輝かしく浮んだ。これを喜ばぬ者はいない筈であろう。それこそ、菜食主義者でない限りは。
「いけませんっ! 今日はなりませぬっ!」
砦の資財一切を預かる”食の軍師”との異名を持ち、鋼の右腕であり弟でもある牙狼鉄が、歓声に沸く砦の兵達全員に聞こえる様に待ったをかけ、冷や水を浴びせかけた。
「鉄、何がいけねぇんだよ?」
「これらは、どう見ても本日落としたばかりの個体。動物の肉というものは、熟成させねば決して美味くはなりませぬ。”肉は、腐りかけが一番美味い”とも世間一般には云います…ま、各部位にバラしてから後、少なくとも3、4日は寝かせねば駄目でしょうなぁ」
「面倒臭ぇなぁ。ンなの、腹に入っちまえば何でも同じだろぉ?」
鋼は腹がいっぱいになればそれで良い、味は二の次派の人間の様だ。美食家にとって、これ以上ない大敵だ。
「全然違います。これほどの立派な食材なのですよ? 粗末に扱っては、折角持ち寄って下さった尾噛の方々への冒涜にもなりましょう。是非とも最高の状態で、美味しくいただかねば。そうは思いませんか、皆さん?」
鉄の問いかけに、砦の兵士達が一斉に深く頷いた。滅多に食べられない貴重な高級食材なのだ。副官殿の言う通り最上の肉を、最高の状態で、最後まで美味しく食べたい。
「でもよ、そうすっと今夜は…」
「ええ。申し訳ございませんが、今夜は沢庵のみです。その代わり、ご飯はおかわり3杯まで許可しましょう」
「…なん、だと…?」
沢庵に罪は無い。それは砦の兵全員が解っている。解ってはいるが、鉄の”今夜は沢庵のみです”宣言によって、砦の士気は地の底まで一気に墜ちた。猛者達は一斉に項垂れ、今を生き抜く気力すら失ってしまったのだ。
ご飯3杯まで許可を貰った所で、全然嬉しくなんかない。ご飯のお供がほぼ無いというあまりな現状を突きつけられて、兵士の腹の虫達が盛大に抗議の声を挙げるのであった。
「…まさか、お肉を美味しく食べる為には、そんな作業が必要だったなんて…」
祈は今まで知らなかった衝撃の事実に打ちのめされ、両膝を落としがっくりと項垂れた。
(うん、知ってた。つーか、まさかお前がこんな初歩的な事も知らんとは、逆に思わんかったわ)
(今回の件、思い返してみれば、当然の結果でござろう。祈殿は、すでに用意された素材からしかまともに調理した経験がござらぬので)
(そうね。イノリちゃんは、やっぱりお姫様だったって事よね)
(だなぁ…こりゃ、生存戦略の術を徹底的に叩き込まにゃ。祈、こんな態じゃ、一人きりになった時生きていけねーぞ?)
(うへぇ、藪蛇だったかも…これ以上履修教科増やされちゃ、ホント身体がもたないよーっ!)
「おひい様、こうなっては、もうアレを出すしかありやせんぜ」
がっくりと項垂れたまま微動だにしない祈に、一馬がそっと耳打ちをした。精強で鳴る尾噛軍ではあるが、実際は祈の指揮でギリギリ体裁を保っていられるだけの、新兵達の寄せ集めが大半を占めているのだ。ここで姫に倒れられては、崩壊の危機なのである。
「…アレっていうと…?」
「アレですよ、アレ。正肉と違って内臓肉ってのは、鮮度が命ですからね。もうここで全部提供しちまいましょう。そうしなきゃ、この砦はそう遠くない内に終わってしまいますよ。食ってのは、残酷なまでに兵の士気に直結しますからね」
そして砦の兵達もそういう意味では、もう限界が近いであろうと一馬は視た。なれば、一刻も早くおかずを提供しなくてはならない。尾噛軍の身内だけでこれらを消費してしまったら、きっと後々深く恨まれるだろう事は容易に想像が付くのだから。
一馬の指示で、氷結の棺によって氷漬けになった、飛竜の心臓、肺、肝を、荷車から取り出した。水の上級魔術を、この様な用途で使用したのは、恐らく祈が帝国では初であろう。帝国の長い歴史の中でも、そもそも上級魔術の遣い手が、両の指で足りる程度にしか存在しないのだ。
「ああ、これね…でもさ、砦の人達全員には…この量じゃ全然足りなくないかな?」
全員に等分したとして、それぞれの部位の二口、三口分が精々の量だろう。ここからどうやってかさ増しをするか? それはとても難問の様な気がする。
「それは今から”これに合う食材を探してこい”と言うしかありませんな。ま、新鮮な内臓肉を美味しく食おうってンですから、皆きっとやる気を出すと思いますぜ?」
あとはそれらを鋼と鉄が了承するか、だ。許可が下りなければ、夕餉の膳は沢庵の横に肉串が1本付くのみという侘しいものとなろう。尾噛軍の副官には、砦の兵に対しそこまで責任は負える訳もない。
「どのみち、皆で食材探ししなきゃ駄目かー」
まったく何て所にトバされたんだっ!
今更で今更な結論に、心が折れてめげそうになるのをぐっと堪え、祈は鋼に飛竜の内臓肉を全て提供する事にした。
砦を守る兵達に、半刻を目処に食材探しの司令が下った。
美味しい食材をより美味しく。足りないおかずに彩りと量を。
皆空腹を抱えての状況であり、この行動如何によって、今夜のおかずの量と質が決まってしまう。当然必死にもなるというものだ。
「ま、これはこれで。良い経験になるな」
「ですなぁ。美味い物、不味い物。食える物、食えない物。絶対に食べてはいかぬモノを教えるには、この時が正に…という奴でござろう」
「ああ、ベアトリス。毒キノコを食べさせちゃってごめんね、ごめんね…」
両腕を掻き抱き、背を丸め蹲ったマグナリアの大きな身体がガタガタと震えだした。
「…ありゃ。トラウマ呼び起こしちまったか」
「あの時のマグナリア殿は、まさに挑戦者にござったなぁ…人の忠告を完全無視で…」
「ドロテアも許して…あたしは平気だっただけで、ちゃんと食べたのよ? ごめんね、本当にごめんね…」
「…ま、ほっとこ。良いか、祈。キノコは基本やめとけ。キノコってなぁ、結構簡単に見つかるし、中には美味い物もある。だが茸類は、全体の7割以上が何かしらの毒を持つという。冒険者の死因でも、腹を下したせいで…なんていう馬鹿馬鹿しいものが結構上位だったりするからな。気をつけるに越した事はないんだ」
この時代の人間の死因では、下痢症状が上位にあったという。今でこそ軽く見られがちな疾病であるが、医療の知識が発達していなかった時代、決して侮れない脅威であったのは間違い無いのだ。
「まぁ、致死毒でなきゃ解毒術で、大体治るんだがな…だけれど、態々危険を冒す必要なんか無いわな」
「そうだね、気をつける。皆が苦しむ顔なんか見たくないしね」
「それで良ぉござる。仲間を危険に曝すのだけは、何があっても絶対に避けるべし。これは鉄則にござるぞ?」
「あああ、セシリアもごめんなさい。その魚が毒持ちだったなんて、あたし全っ然知らなかったの…」
頭を抱え、マグナリアは過去のフラッシュバックに苛まれ身悶えていた。どうやら数々の犠牲者達の顔が、今頃になって脳裏に鮮明に蘇っている様だ。
「…ホント、こいつかなりやらかしたからなぁ…終いにゃソロになっちまうし…」
「拙者らの忠告を、ちゃんと聞いておれば…」
「こわい。私は本当に気をつけよう…」
自分が持ち込んだ食材のせいで、砦内で集団食中毒が起こってしまう。その可能性は十二分にある。緊張感を持って臨まねばならない。丁度祈の目の前に、その注意を怠った実例がいるのだから。
(…? やっぱり、誰かに見られている気がする…)
飛竜の巣からの帰路の時は、武蔵に指摘されて漸く気付いた視線だったが、今回は何となくではあるが祈にも分かった。
その視線に敵意の類いが一切無いせいか、気付いているだろうが武蔵からの警告はない。
(でも、何だか気になるな…)
感じる視線の方向には、林が広がっている。
夕日も半分が姿を隠し、もう辺りは薄暗くなってきている。しかし…
「ごめん。とっし-、さっしー。林の中に入るよ」
祈は、視線の主を知りたかった。
妙にひっかかる、この視線の正体が、何なのかを。
誤字脱字があったらごめんなさい。




