第105話 何故か戦場
帝国と蛮族が支配する領域を隔てるその河は、豊かな恵みを運んでくれる。
雪解けの水が山から染みだし小川から小さな川へ、そして小さな川は合流を繰り返し次第に大きくなり、やがて大河となる。
大河によって肥沃な大地は広がり、安定した生態系が作り出される。付近の住人は、大自然のその恩恵に与るのだ。
「…しかし、だからと言って…流石にこれは、無いんじゃないかなぁー?」
釣り竿を垂らし、ただ水面をゆらゆら揺らす浮きを何とは無しに眺めながら、祈は嘆いた。
何故この様な紛争地域真っ只中という危険な場所で、釣り糸を垂らす羽目になったのだろうか?
(これ…どう考えてもおかしいよね? 何でこんな事になってるの、私…??)
祈は半ば流される様に、この様な所で釣りをさせられている訳だが。その経緯を考えれば考える程に、あり得ないレベルでのおかしな話なのだ。
そもそも祈は宮廷序列において、立派な貴族として列せられし身分だ…下から数えた方が、早いのだけれど。
だが少なくとも、未だ相手国との停戦調停すら結んでいない危険な国境付近なんぞに、祈は居て良い身分ではない。その筈だ。
「…おひい様、もう諦めるしかありませんぜ。我ら尾噛家の魔導士達も、ここでは漁師の仲間入りですわ…」
尾噛のお転婆姫、その臨時お守り役であった八尾一馬も、今では祈の右腕の様な、副官の様な存在となっていた。なれば、主である祈と、同じ状況に陥ってしまっているのは、当然の話といえようか。
「…姫様、”人生諦めが肝心”…などとも申しまする。ここは、流れに身を任せるしか無いかと…」
水面船斗は、盛大に溜息を吐きたい気持ちを堪えながらも、新たに仕えし主に忠告をした。
あの闘技場での決闘で、かつては牛頭側の副将を張っていた船斗は、目の前で竜を使役してみせた姫に仕えるべく、尾噛の門を叩いた。
彼はあの牛頭にも認められた程の強者である。すぐ彼の希望通りに、祈の掌握する魔導士隊の一員として迎え入れられる事となった。
(…やはり世の中というものは、ままならぬものだ。まさか、この様な辺境…いや、最前線か。その様な所に、士官してすぐ飛ばされる羽目になるとは…)
あの時に見た、竜を使役する尾噛の姫の強さに完全に惚れ込んでしまった彼は、彼女の側に仕え、自身の持つ力の全てを存分に振るおう。それを胸に誓い、そう望んだからこその士官であった。
…そしたら、これだ。
まさか、精霊使いとしての力を振るう機会ではなく、釣りスキルを姫に見せなくてはならぬとは。船斗は、かつては胸を熱く焦がした筈の選択を、早くも後悔していた。
「てめぇら、しっかり釣れよー。ボウズなんてカマしやがったら、晩のオカズ無くなっかんなー? 飯は自分達の手で、しっかりと勝ち取れよー」
後ろでのんびり酒を呷りながら、防衛軍司令の牙狼鋼が、臨時の釣り人となった兵士達に、あまりにも慈悲の無い現実を突きつけた。
この所、本国からの補給が滞っているが為に、ここ最前線では、この様に自給自足を強いられる有様となっていたのだ。
『強請るな。勝ち取れ』
何時しかこれが、陽帝国軍国境防衛隊の合い言葉となっていた。現実は、その言葉の前に”美味い飯を腹一杯喰らいたくば”が付くという。何とも恥ずかしいものなのだが。
「…で、一馬さん、船斗さん。釣果はどうかな? 私、今んところボウズ」
「つるっつるですわぁ」
「…申し訳ござりませぬ。私も、八尾殿と同じく…」
どうやら三人揃って、つるピカのボウズの様だ。このままでは、今日の三人の夕飯は米と汁だけの粗末な物となるだろう。せめて、何かしら菜が欲しいところだ。
「他の連中は、しっかり一匹は確保してるみたいですぜ…徴収してやりますか?」
「…ズルは絶対にしちゃ駄目だよ。食べ物の恨みは、本当に恐ろしいってよく聞くかんね。そんなつまんない理由で、私恨まれたくなんかないよ」
Q:反乱を起こした理由はなんですか?
A:俺の晩飯のおかずを姫が強引に奪ったからです。
(…確かに、それはあまりにも馬鹿らしい話だな…)
船斗は思わず吹き出す寸前にまで陥ったが、ギリギリで耐える事に成功した。”冷静沈着””口数少なく物静か”という努めて作り出せたであろう第一印象を、姫様の前では何とかして保ちたいのだ。この様なくだらない事で崩す訳には、絶対にいかない。彼もそういう意味では必死であった。
「ね、船斗さん。水の精霊連れてきているかな?」
「それは勿論。私の相棒ですので、常に肌身離さず、でございますが」
「だったらさ、水の精霊に、河にいるお魚さんを何匹かこっちに飛ばしてって、お願いしてもらえるかな?」
「……ああっ!」
その手があったか! 船斗は祈に言われるまで、全くその様な発想が浮かばなかった自分のガチガチの石頭を恥じた。確かに水の精霊ならば、その様な事は造作も無い。それこそ、魚の種類や大きさの指定だってできる筈だ。
(なるほど。姫様の強さとは、こういう柔軟な思考にあるのだな。ひとつ、姫様の強さの秘訣に近付いたぞ!)
船斗は早速自身の相棒である水の精霊を喚び出し、”大きくて食べ応えのある魚を何匹か捕ってこい”そう命じたのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…どうやら、鳳様の標的が、完全に祈に向いてしまったみたいだな…」
鳳翔の筆による書簡を一読し、望はこめかみを軽く抑えながら独りごちた。
日々領地経営に忙殺されてしまっている今の望では、使える者を、徹底的にコキ使う性分である彼の希望を満足させる事ができない。その為か、この所祈を指名したお願いが多数来ていたのだ。
次期斎王、愛茉の斎宮への護衛と、古賀一光の魔の森掃討作戦の参加要請が、まさにそれであった。
特に魔の森掃討作戦での、祈率いる尾噛軍の活躍と戦果が、帝国上層部にとっては、完全に予想外であった。良い意味での。
その一件以降、帝国が軍を動かす時は必ずと言って良いほどに、祈達出陣の打診があった程だ。
元々、尾噛の家は武門である。軍の強さを評価される事、それは正に家の誉れである。
だが、祈は姫だ。兵ではない。
彼女の魔術の腕、剣術の腕は望の知る限り、太刀打ちできる者は、帝国内にもほぼ存在しないだろう。彼の妹は、それほどの強者なのだが、兵ではないのだ。
「…そう言って断るのも、苦しいよなぁ…文句の付けようのない実績が、もうある訳だし…」
帝位継承権第六位を持つ一光皇子が大絶賛した程の、輝かしい実績が、祈と彼女率いる尾噛軍には、すでにあるのだ。今更、祈は一介の無力で非力な姫に過ぎない…等と言える訳も無かった。”黒曜の姫将軍”、”白銀の竜姫”の評判は、いつの間にやら、遠い斎宮の地から都にまで及んでいたからだ。
「本当に申し訳なかとです。ウチん馬鹿親父んせいで…」
書簡を握りしめたまま微動だにしない望の姿に、蒼はつい身を縮め畏まる。父である翔が、祈を徹底的に安くコキ使おうと考えているのは、当然ながら蒼も見抜いていた。父は根っからそういう人間なのだと、彼女は知っていたからだ。
だから、その事に望は怒っているのではないか。そう蒼は心配したのだ。
「ああ、君は気にしなくていいよ。今僕が動けないのは、事実だからね。そうなれば、祈にお願いする他はないのだから」
事実、望は怒ってはいなかった。正確に言えば、怒りをとうに通り過ぎてしまって、半分菩薩の心境となっていたのだ。今の帝国に、人材はいない。それは望も承知していたからだ。
「確かに、”魔の森”と同じ様な魔物が多数出没しているとなれば、魔物狩りに実績のある祈達に要請が出るのも仕方無し、さ…」
書簡の内容はこうだ。
”『獣の王国』を僭称する”蛮族”との国境を挟む砦付近にて、魔の森に出没する同種の魔物達の目撃例が多数あり。砦に被害が出る前に、速やかに巣を見つけ出し、これを駆除するべし”
そして最後には、本当に小さな文字で書かれた一文があった。
”なるだけ戦費はこちら持ちになる様に頑張ってみるから、ホント最短でお願い。できればそのまま防衛軍の列に加わってくれると、ボクうれしーなー?”
(…最後の下りは絶対に無視しよう…最愛の妹を最前線近くまで送り出すだけでも苦痛なのに、そのまま最前線で死ねと言えるか、この馬鹿野郎)
しかも戦費は”なるだけ頑張ってみる”ときた。絶対に踏み倒すつもりなのは明白だ。帝の名の下の要請ならば仕方無い。魔物退治の軍は出してやる。だが、彼の思惑通りにだけは、絶対にさせない。駆除が終われば早々に撤退させるつもりである。
「…蒼。すまないが、祈を呼んできてくれ」
「本当に、申し訳なかとです…」
蒼はもう一度身を縮めて恐縮してみせた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
晩餉を何とか一汁一菜の体裁を確保できた祈は、砦内に用意された士官用の部屋で、就寝するまでの一時を過ごしていた。
「…しかし、任務である魔物探索をせずに、日がな一日おかず確保の釣りってさ、流石にどうなの?」
「そういや補給が滞っているって、ここの兵共が言ってたな。もうその時点で、戦略上詰みだろ。食えなきゃ士気なんて、絶対に上がらねぇんだからよ」
「ですな。”腹が減っては戦はできぬ”これは真理にござる」
「明日も同じ状況なら、司令官の命令なんか無視してさっさと魔物探索を始めるべきだと思うわ。今回の話、どうにも胡散臭いのよね…」
魔物退治なぞ実はただの口実で、帝国は最前線に祈達を送り込みたかっただけなのではないか? マグナリアはそれを指摘したのだ。
実は、それを望も祈も、一番疑っていた。
だが、帝からの要請をその様な不確定な理由で断る訳には絶対にいかない。そこが帝国に仕える者の辛い所である。
「だな。一応、当初の帝国の要請に従っての行動であれば、その事に文句を付けられはしても、命令で止める事はできない筈だ。魔物がいればそれでよし、見つからなければそう言って撤退すれば良いだけだ」
「…そう簡単にいくかなー? あの牙狼って人、かなり”やる”みたいだよ?」
身のこなしを見た限り、かなりの遣い手だし、言動を聞くに、かなりの胡散臭さだ。こちとら未だ数え13の小娘でしかない。やり込められる可能性大なのである。
「何かしらの時間稼ぎをしている態に、確かに見えましたな。ですが、その何故が解らぬ以上は、何ともでござるが…」
「本当に面倒臭いわね…ムサシ、あんた明日は、周囲の探索しっかりやんなさいよ?」
武蔵の持つ、最強の霊界ソナーを全開にすれば、きっと色々なモノが視えてくる筈だ。下手をしたら、視てはいけないモノすらも…
「承知。拙者も祈殿を、この様な最前線でずっと暮らさせるなんぞ、考えたくもござらんからな」
主に戦場での生き方、生き残り方を積極的に教えてはいても、実際に戦場に赴くのを、武蔵が由とする訳はない。彼は守護霊なのだ。主の危険を回避できるのであれば、そこに全力を傾けるのは当然の事だ。
「…ご飯の内容に不安を抱えて、日々を生きるのは、嫌だなぁ…」
「そっちかよ…お前も図太くなったよなぁ」
「特に不吉な予感はしないから、多分、大丈夫じゃないかなー?」
祈は、気楽に考えていた。
まずは、明日。
それによって、今後の方針を決めよう。
次第に瞼が重くなっていくのを自覚し、祈は部屋の灯りを消した。
誤字脱字があったらごめんなさい。




