桜の想い。
「あぁ~、働きだぐねぇ~」
曇り空の下、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に揺らされながら、ポツリと愚痴が溢れてしまった。
昨日は今までに無いくらいに長い1日に感じた。それほどに色々あった1日だったのだと思う。つまり、今の俺はかなり疲れている。本当に働きたくない。しかし、当然ながらそう簡単に仕事を休む事はできない。
あれから桜とは家に帰ってから夜遅くまで話しあった。何故、桜が家を出ていきたがっていたのか、どういった経緯でそう考えてしまったかも。
結論を申し上げると、桜は家を出ていかないと言ってくれた。高校にも進学すると。つまりは一応丸く収まったのだ。
話は夜の2時過ぎくらいまで行われた。桜も昨日は疲労が貯まっただろうから、今日は大事をとって学校を休んでといいと伝えている。
「はぁ~……学生はいいよなぁ~」
俺はタメ息と共に再び愚痴をこぼし、ドナドナの子牛のように揺らされながら、職場の最寄り駅まで運ばれていく。
しばらくして目的の駅に到着し、俺は電車を降りて改札を通る。すると、「ヨッ!」という声と同時に、後ろから俺の肩を誰かが軽く叩いてきた。
その声は普段からよく聞いている声であり、誰の声なのかを大体予想がつきながらも、俺は後ろを振り返って声の主が誰なのかを確認した。
「湿布なんか貼って大袈裟だなぁ。社会人があまり顔を腫らすなよ?」
「誰のせいだよ?」
「香水のせいだよ?」
「お前のせいだよ。何でもドルガバのせいにするんじゃねぇ」
やはり、声の主は俺の頬を腫らした張本人である健太であった。健太は昨日の激昂した姿とは打って変わって、穏やかな表情で俺に話しかけてきた。
昨日の今日でよくそんな態度をとれるな?まさか……こいつ……。
俺達は並びで歩き、話をしながら会社へと歩を進めた。
「ところで、昨日はあれからどうなった?」
「どうなったって?」
「桜ちゃんとだよ」
ん?健太にはまだ、昨日桜と話しあおうとした事すら話していないと思うのだけど。昨日、健太に思いっきりぶん殴られてからそれっきりだ。
「………公平か誰かから何か聞いたのか?」
「いや、何も。ただ、お前なら動くかな?って思ってさ」
あぁ、やっぱりそうだ。健太は本当に俺の事を怒っていたかどうかは分からないが、俺の頬を思いっきりぶん殴ったのは、あえてした行動だったのだ。
俺の桜に対して間違っていた認識を正す為の、気付けの為に。しかし、だとしてもだ……
「…………口で言えばいいじゃねえか?どうすんだよ。この頬っぺた。会社での言い訳をまだ考えているんだぞ?」
「ハハハ。でも、俺から直接口で言われるより、自分で気付けて良かっただろ?」
確かに、直接健太に口で言われたとしても、あの時の精神状態の俺だったら、否定をしていたのかもしれない。
自分でしっかりと桜の事を考え、たどり着いた答えだからこそ、桜は俺の為に家を出ようとしているという、傲慢な発想を受け入れられたのだ。
しかし、もしあの時怒っていなかったとしたのなら、怒ってもいない相手にあんな全力パンチを打ち込める健太はサイコパスか何かなんだと思う。
「まぁ、あんな下らない事を考えてたお前に怒っていたのは本当だけどな」
あっ、やっぱ怒ってたんすね。怒りの全力パンチだったんですね。サーセン。
「……なぁ健太?」
「ん?何?」
「お前は桜の考えてたいた事を分かっていたの?」
「理解というか、桜ちゃんがお前に対して愛想を尽かすはずがねえだろくらいには思っていたくらいだよ」
「そうか……。はぁ~。俺は義兄失格だな。桜の事を何にもわかっちゃいない」
そう落ち込む俺に健太は、「当事者より端から見てた方が分かる事もあるさ」と言って、励ましてくれた。それはそうかもしれないが、やはり思慮が足りなかっとは思う。
そのせいで俺は他人も巻き込み、桜だけでは無く、安室さんも傷つけてしまったのだから。
「で、昨日はどうなったの?」
ネガティブな考えを巡らせていた俺に、健太は再び昨日の事の顛末を尋ねてきた。
「昨日なぁ……」
家での話し合いの中、俺はしっかりと家を出たいと言う桜の本音を聞けたと思う。そして、それはやはり俺の為に家を出たいと思っていたようだ。
桜が居ては、俺が仮に良いと思える女性が現れたとしても、俺はその女性の事を諦めてしまうと思ったのだと。桜に縛られて、俺の人生を潰してしまうのではないのかと……そう思ってしまったようだ。
俺に好意を抱いてくれている安室さんとの出会いが、そう考えさせてしまうきっかけになったらしい。
桜からその話を聞いた俺は、しっかりと桜に説明をした。まず、公園でも話したように、桜との過ごす日々は俺の生き甲斐なのだと。それ以上に大切な事は無いのだと。
安室さんに関しても、仲の良い同僚以上の感情は無いことを説明した。だから、桜が家を出てまで気を使う必要は無いのだと。
桜は俺の説明に一応は納得をしてくれたようだ。そんな昨日の経緯を健太に説明する。
「……ふ~ん。そっか」
経緯を聞いた健太の表情は、何処か思う所がある事を伺わせるものであった。
「まぁ、そんな感じだよ」
「なぁ、咲太。桜ちゃんとの件はこれで一先ずは一件落着だとしても、安室さんはどうするんだ?」
どうやら安室さんの事を健太は考えていたようだ。確かに、安室さんとの事は何も解決していない。
付き合ってほしいと告白された訳ではないが、望まぬ形で俺への好意を打ち明けさせてしまったのだ。それに対してケジメをつけなければいけない。
それは、昨日桜を探しに家を出る前に、安室さんと約束をした事である。例え、結果として更に彼女を傷つける事になったとしても……。
「今は……今はアイツ以外の女性とどうこうなる事は考えられないなぁ……」
俺は曇った空を見上げて、そう呟く。そんな俺を、健太は少し悲しげな瞳で見つめていた。
アイツとは、当然死んだ嫁の事である。俺と健太が愛した女性だ。4日前に一周忌の法事を終えたばかりである。
彼女と過ごした日々は、昨日のように今でも鮮明に思い出せる程に、濃密でかけがえの無い大切な思い出だ。彼女の存在は、もはや俺という人間を形成している一つパーツのようなもの。
そんな俺が、他の女性とどうこうなるなどと……
「おはようございます!!」
考えを巡らせている中、背後から明るく綺麗な声で、元気な挨拶が聞こえてきた。俺はその声にビクッっとして、声の方に顔を向けた。
すると、その視線の先には丁度話題になっていた人物が、穏やかな笑顔をしながら立っていた。
「桜井さん、田原さん。おはようございます!」
その人物とは、当然安室さんの事である。振り向いて顔が合った俺達に、安室さんは改めて挨拶をしてくれた。俺達も「おはよう」と言って、安室さんに挨拶を返す。
安室さんの表情はいつもと変わらない様子であり、動揺した様子など無かった。対する俺は、少し動揺をしている。
「桜井さん。桜さんとしっかりお話は出来ました?」
公園から家に帰る途中に、安室さんには桜が見付かった事は連絡をしている。話し合いが終わった時間が遅かった為、その後の経緯についてはまだ話していない。
どうやらずっと気にかけていてくれたようだ。
「うん、ありがとう。安室さん。あの後桜と話をして、家を出る事を考え直してくれたよ。高校にも進学すると言ってくれた」
「はぁ~……良かったぁ」
俺の話を聞いて、安室さんは安堵の表情を浮かべてくれた。凄く心配をしてくれたのだろう。本当に申し訳ない……。
「心配かけてごめんね。本当にありがとう。どんな話をしたかは改めてしっかりとまた話させてもらうね」
安室さんはニコっと笑って「はい、お願いします」と
返事を返してくれた。その姿は見目麗しく、こんな綺麗な人が俺に好意を抱いてくれているのが少し信じられないくらいであった。いや、死んだ嫁も安室さんに負けないくらいに美人だったけどね!
「すいません。少し早めに出社して、やっておきたい事があるのでお先に失礼します」
そう言って安室さんは頭を下げて、少し早めのスピードで、俺達の先を歩いていった。俺達は少しの間、その姿を立ち止まって見送る。
「なぁ、少しは考えてみてもいいんじゃないか?」
どうどん遠くなる安室さんの姿を見つめる俺に、健太が真剣な表情でそう言った。
「何を?」
「いや、安室さんとのお付き合いをだよ。綺麗で素敵な人だと思うぞ」
「…………昨日、桜にも同じ様な事を言われたよ……」
「桜ちゃんに?」
「あぁ……」
昨日の桜との話し合いの中で、桜は安室さんの事について言及していた。
―『安室さんは綺麗で本当に素敵な人……もし、私がいる事で遠慮をしているなら……それは絶対辞めてね……。そうなったら…私、本当に出ていくから……』―
昨日の桜の言葉である。綺麗で素敵な女性。桜と健太の人物評には完璧同意である。しかし、くどいようだが、今は死んだ嫁以外の女性と付き合う事は考えられないのだ。嫁以上に素敵な女性を俺は知らない。
そして、今は桜以上に大切な人は存在しない。勿論、実妹の八重も負けないくらいに大切だし、桜と同等に可愛い妹である。
しかし、八重には俺だけではなく、父さんや母さんがいる。血の繋がった家族達が八重を守ってくれている。では、桜は?
桜を守ってくれる血の繋がった家族はこの世にはもういない。そんな桜を守る使命が俺にはあるのだ。八重には悪いが、桜は俺にとっての最優先事項だ。
そんな俺が、他の女性とどうこうなるなど考えれるはずがない。お付き合いをしたとしても、気持ちとして中途半端なものになるし、それは相手に対してとても失礼な事だ。
だから……今は…………。
「行こうか、健太。会社に遅刻する」
「そうだな」
俺達は止めていた足を再び動かし、会社へと再び歩を進める。色々悩みは尽きぬとて我らは企業戦士。
何を抱えていようとも、戦場に足を一歩踏み入れたのならは、ベストを尽くすのが我々も使命なのだ。
プライベートモードからビジネスモードに頭を切り替え、ネクタイという名のふんどしを締め直した。日本社会は、我々一人一人のそういった矜持の元に支えられているのだ。