嫁の法事。②
住職は、仏壇の前で経本を開き、お経を読み始めた。住職の声で聞かされるお経は、小さな頃から聞き慣れたモノであり、生涯ずっと聞いていくモノなんだなと、子供の頃から思っていた。
しかし、それは自分より歳上の人を弔うお経であり、まさか自分の嫁を弔うお経を、まだこの年で聞く事になるとは露程にも思ってはいなかった。
嫁が死ぬ前の自分と、今の自分では、お経を聞いている時の心境が全く違う。それは、最愛の嫁を亡くして悲しいという気持ちもあるが、俺は元々霊魂やら、宗教的な事は信じていない人間だ。
しかも、日本の仏教的な宗教より、信仰心的なモノは無いが、原始仏教やキリスト教の方がどちらかと言えば興味を持っている。
だから、お経を読んで死んだ人が天国に成仏をするだなんて、子供の時から全く信じていなかったのである。お経を聞いている時間は、本当に退屈で憂鬱な時間だった。
しかし、嫁が死んでからは、霊魂を信じている訳でも無いのだが、あると信じたいと思うようになった。もし、そう言ったモノが存在するならば、俺と桜を見守っていてほしい。そして、穏やかに成仏してほしい。
そんな思いを胸に、今はこのお経を聞いて、拝んでいる。
結局は、法事なんて死者の為では無く、残された者の為に行われているのだと思う。少しでも、死んだ人の為に何か出来ているという事実が、自分の心を軽くしてくれる。
こう言った行事は、悲しみを思い起こさせるが、残された人が前に進む為には必要な事なのだ。
住職がお経を読み始めて一時間近くが経過した。
住職は最後にお鈴を鳴らし、経本を閉じてお経を読み終える。そして、こちらの方をふりむき、俺達に読経を終えた事を告げた。
しかし、法事はこれで終わりでは無い。最後にお斎という名の会食が残っている。死者を偲んで楽しく会食をする事で、供養が終われるらしい。
住職はこの後も予定があるらしく、ありがたい法話を俺達にしてくれた後に、スクーターに乗って、雨の中去っていった。
会食に参加する人達は、各家族の車に乗って、予約している店へと向かう。予約した店は、駅近くにある懐石料理が置いてあるお店だ。健太と川瀬は、桜井家のワゴン車に乗り込み、運転は父さんがする。
会食が終わるまでが法事だと言っても、緊張感があるのは住職がお経を読み終えるまでである。車内はリラックスしたムードに包まれていた。
「いやぁ~、いくら年をとっても、お経を正座して聞くのってしんどいぜぇ~」
川瀬が背伸びをしながら、子供みたいな事を言っている。それに健太は「施主の家族の車で言う事ではないだろう。」と、マトモにツッコミを入れた。
「あっ、スミマセン」
「いいのよ!いいのよ!川瀬さんは明るくていいわね!」
川瀬のアホな謝罪に、助手席に乗っている母さんは、寛大な態度で対応をしてくれた。まぁ、川瀬は純粋にこんな奴なのだ。言葉や態度に悪意は無い。
だからこそ、最終的には俺の嫁と気が合って、親友になれたのだろう。性格は正反対のようで、根っこの純粋な部分が嫁と似ている。桜も川瀬に懐いているしな。
「おばさんの言うとおり、本当に明日香ちゃんはいつも元気で面白いね!」
桜は笑顔で川瀬にそう言った。川瀬は「それだけが取り柄だからな!」と、笑顔で答える。
確かに、その取り柄のおかげで、この法事は暗い雰囲気にならずにすんでいるのかもしれない。嫁の初めての法事で、桜の精神状態を心配していた。しかし、川瀬のお陰なのか、桜はずっと笑顔でいてくれている。
唯一にして最後の肉親の法事……。それは、まだ中学生の女の子にとって、どれだけメンタルに負荷がかかる現実なのか、俺には想像もつかない。
桜の笑顔に、俺はホッと胸を撫で下ろす。
そうこう話をしているうちに、予約している店へと到着した。予約している部屋は、中々広い座敷の部屋を用意しており、俺達は靴を脱いで席へと着席した。
桜と八重と綾香ちゃんの中学生トリオは、下座に固まって座った。その他は、桜井家、松本家、健太、川瀬の順番で、上座から座っていった。
しばらくして店員さんがコースの説明を行い、料理が運ばれてきた。ちなみに、アルコールは飲み放題ではあるが、お父さん方達が車を運転している為、アルコールは飲めない。
しかし、公平と綾香ちゃんのお父さんが、俺のグラスにビールを注ごうとしてくる為、俺は最初のグラス一杯だけ、ビールを頂く事にした。
「おい川瀬、あんま飲みすぎんなよ。潰れられても迷惑だからな」
事が大きくなる前に、俺は離れた席に座る川瀬に警告を行った。しかし、川瀬はそれが気に食わなかったらしく、「あんたは私のママか!こちとら酒を飲みながらする商売で飯喰ってんだよ!舐めんなよ!」と、訳の分からない反発をしてきた。いや、潰れなくても普通にこんな昼間から飲み過ぎるなよ?
「大丈夫だよ、明日香ちゃん!明日香ちゃんが潰れても、私が連れて帰ってあげるから!」
「桜ちゃん……なんて良い子!!」
そう言って、川瀬は庇ってくれた桜にガバッと抱きついた。
「桜ちゃん!私の妹になりなさい!あんな口うるさい小姑みたいな義兄なんか、早く見捨ててさ!」
「う~ん……考えておくね!!」
「いや!考えるなよ!!」
俺の間髪空けず入れたツッコミに、皆はクスクスと笑ってくれている。嫁もこの場に居たのなら、大爆笑をしていただろうな。
皆の元に、食事と飲み物が行き渡り、準備が整った。俺はグラスを持ってその場に立ち、挨拶と感謝の弁を述べる。
そして、「献杯」と言ってグラスを上げ、皆も「献杯」と言ってグラスを一斉に上げた。お斎の始まりである。
「乾杯じゃないの?」
桜は首を傾げ、この会食の始まりの合図に疑問を呈した。それに八重が「やっぱり乾杯て言ってなかったよね!献杯て言ってたよね!やっぱりそうだよね!?」と言って、桜と同じ疑問を抱いていた事を告白する。
そして、その疑問に答えてくれたのは、同学年の綾香先生であった。
「『献杯』はね、相手に敬意を持って杯を差し出すという意味があるの。今回のその相手とは、『桜のお姉さん』ね。今しているお斎と言う会食は、桜のお姉さんを偲ぶ会食だから、乾杯じゃなしに献杯をするのよ」
綾香先生の分かりやすい説明に、桜と八重は「へぇ~」と言って、感心したような様子を見せた。学力では桜と八重も、綾香ちゃんに引けを取らない。しかし、こう言った知識を披露出来る能力は、学力と言うよりは教養なのだろうな。
ぶっちゃけ、俺もなんとなく『献杯』と音頭をとったが、しっかりとした意味は知らなかった。
「マジかぁ……私、乾杯て言っちゃったよ……」
子供の説明を聞いて、青ざめている大人が一人いた。マジかよ……川瀬……。
「じゃあ、もう一度私達で献杯しようよ。なんとなく献杯て言えたけど、訳も分からず言っちゃたし、この会食も、お義姉さんの供養に必要なんでしょ?だったらちゃんとやり直そうよ」
八重は桜を見つめてそう提案をし、桜は凄く上機嫌で「そうだね!」と提案に賛成した。綾香ちゃんも「じゃあ、もう一度やろうか」と言って、ジュースの入ったグラスを持ち直す。
「それでは!ケンパーイ!」
「ケンパーイ!」×3
八重の音頭に続いて、桜と綾香ちゃん、そして川瀬も献杯を行った。一人、子供のような大人が混じってはいるが、子供達のそんな光景に、周りの大人達は微笑ましい顔をして眺めていた。
こうして、会食は和やかな雰囲気に包まれて始まった。




