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稲葉は毎度、トイレに現れる。

 桜の家で食事会を行った日から、三日後の月曜日のとある男子トイレにて。


「よっ、松本まつもと!金曜日のデートはどうだったんだ?」


「……」


 稲葉いなばはまた、俺がトイレで用を足している時に、隣の便器で用を足しながら、俺に話しかけてきた。なんなの?こいつはトイレじゃないと、俺に話しかけられない呪いにでもかけられてるの?


「別に、どうって事はないよ。元々デートのつもりじゃ無かったし、観た映画も『クレパスしんすけ』だったからな」


「クレパスしんすけ!?…………いいじゃないか。俺もクレパスしんすけ観に行きたいよ」


「……お前?クレしん好きなの?」


「うん。さすがに映画館へ観に行くまでは、中学生になってからはしてないけど」


 マジかよ。お菓子作りといい、さくらに合わせすぎだろ。確かに、『クレパスしんすけ』はとても素晴らしい作品だったが。

 しかし、稲葉にとって今は、クレパスしんすけの話はどうでもいいみたいで……。


「しかし、せっかく俺が発破をかけたというのに、どうも無いとはどういう事だ?」


 稲葉は少しムスっとした表情をしている。確かに、それは少し申し訳ないと思う所ではあるが、そんな雰囲気になりようが無かったので仕方がない。

 咲太さくた兄ちゃんに対する深い想いを、あの日はまざまざと見せつけられた。そんなモノをみせつけられて、そんな事はどうでもいいと、言わんばかりに動けるメンタルを、俺は持ち合わせていない。

 むしろ、咲太兄ちゃんの話をする時の、桜の幸せとはそうな笑顔を守ってあげたいとまで思ってしまった。

 しかし、稲葉は俺と桜が、どうにかなってほしかったのか?それは、稲葉にとって不都合な話しであるはずなのだけど……。


「お前さぁ。張り合いを求めて俺に発破をかけるのもいいけど、俺と桜がどうにかなっちまったらさ、元も子も無くね?」


 俺がそう質問をするタイミングで、俺達はふと、用を足し終えている事に気付き、自分の自分をパンツの中に閉まった。

 俺の質問に、稲葉は少し「う~ん」と言って考え込むが、すぐに笑顔を作り、俺の質問に答える。


「よく分からないけど、浜崎はまさきの義理のお兄さんにでは無く、松本に目を向けてくれていた方が、俺もやりやすい気がする」


「あぁ~、なるほどな」


 確かに、稲葉からしたら現状は、よく知らない一緒に住んでいる義理の兄に、想い人が恋をしているかもしれないという状況だ。

 なんだか、それだけ聞いたら複雑な家庭環境が絡んでいそうだし……まぁ、実際そこそこ複雑なんだけど。

 いくら、イケイケヒーロー体質の稲葉でも、家庭の問題に入り込むのは、中々難しいだろう。

 それに比べて、万が一にでも、桜が俺を異性として意識してくれる様になれば、稲葉も動きやすくなるはずだ。それは、桜は同学年(・・・)を意識し始めたという事なのだから。年上の同居人に目を向けられているより、自分を見てくれる様になる可能性は増えるだろう。

 なんだよ、結構策士じゃねぇか。稲葉の奴め。


「松本がそんな感じなら、こっちは勝手にやらさせてもらうよ?」


いばらの道だけどな」


「歩まずに後悔するよりマシだ」


 稲葉は真剣な眼差しで、珍しくピリッとした空気を漂わせている。少し怒っているのだろう。ライバルだと認めているのに、全く動こうとしない俺に。

 稲葉は語気を強めて、話を続ける。


「松本。俺は浜崎への恋が、絶対実るだなんて思ってないし、浜崎に対する想いの重さは、お前に負けているのかもしれないとも思っている。浜崎だって、俺なんかより、松本の方が断然身近で大切な人なんだと思う」


 稲葉にしては、少しネガティブな発言のように聞こえて、俺は少しビックリした。

 いつも脳ミソお花畑……とまでは言わないが、ミスターポジティブシンキング。努力をすれば必ず実るを地で行く様な奴だと思っていたからだ。

 桜の事に関しても、絶対的な自信があるのだと思っていた。


「だけどな、浜崎の事を世界で一番幸せに出来るのは、俺だとも思っている。それが、好きな女性ひとに対して尽くすという事だろ?お前はそれを放棄して、それすらもしようとせずに、浜崎の事を諦めるつもりか?」


「……考えの相違だな。俺は、好きな女性ひとに対する尽くし方には、人それぞれあると思っているし、俺がアイツを一番幸せに出来る奴だとも思っていない。しかし、アイツの事を一番考えているのは間違いなく俺だ」


 さすがに俺も、そこまで言われたら心穏やかにはいられない。返す刀で稲葉に反論をする。だが、自分で言っていて虚しい反論ではある。

 結局、どちらの考えが間違いだと言う話では無いのだろう。しかし、どちらの考えが、桜の事を自分の手で幸せに出来るかと言えば、当然、稲葉の考えの方である。

 俺は、自分の手で、桜を幸せにする事を放棄しているだけなのかもしれない。


「……まぁ、それだったら、俺と浜崎の幸せを願っておいてくれよ。絶対、浜崎を不幸にする事はしないからさ」


 そう言って、稲葉は俺の肩をポンと叩き、俺とすれ違ってトイレから出ていこうとした。


「待て!稲葉!」


 俺は凄く強い語気で、トイレから出ていく稲葉を制止した。稲葉も、眉間に少しシワをよせ、「何?」と言って、少し威圧的な態度で振り返った。


「稲葉……お前……」


「なんなの?」


「……また手を洗わずに、俺に触っただろ……」


「………あっ」


 稲葉はすぐさま申し訳無さそうな微笑をして、「すまん、すまん」と言いながら、水道で手を洗いにいった。

 いや、毎度毎度、本当に勘弁してほしい。

 俺は、少し呆れた顔をしながら、稲葉の隣で手を洗う。そして、手を洗い終えた俺達の間には、先程のピリついた空気は無くなっていた。


「なぁ、稲葉?」


「何?」


「お前さぁ、お菓子作りが得意って本当なの?」


「え?」


 俺の突然の質問に、稲葉はポカーンとした表情をしていた。桜曰く、稲葉が自分でお菓子作りが得意と言っていたらしいが……。その反応…まさか、コイツ。


「…………あぁ、浜崎から聞いたのね?そんなの嘘に決まってるじゃん!浜崎に近づく為の口実だよ。今、必死にお菓子作りを勉強中!ハッハッハッハッ!」


 稲葉はとんでもない事を、爽やかに笑いながらサラッと言いやがった。忘れていた、コイツは爽やかでいい奴だけど、騎馬戦の時のように、汚い手を使えるしたたかな奴でもあったんだ。

 まぁ、嘘を本当にするためにお菓子作りを勉強して、しっかりと努力も怠ってもいない所が、コイツのいい所なのだけど。


「じゃあな、松本。授業に遅れるなよ?」


 そう言って、ハンカチで手を拭き終えた稲葉は、トイレから出ていった。俺は、その姿をしばらく見送ってから、トイレを後にする。

 桜の幸せの為に出来る事……。それは、人それぞれなのだろう。健太けんた兄ちゃんの様な、桜との恋愛に無縁の人だって、桜の幸せを願い、動いてくれているだろう。

 稲葉は、稲葉が桜と付き合い、そして人生を共にしていく事が、桜にとって一番の幸せだと信じて疑わない。じゃあ、俺が桜の幸せの為にしてあげられる事とは一体何なのか?

 俺は、まだその答えを見つける事が出来ていない。

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