稲葉は敵に塩を送る。
桜に映画を誘われてから、時は刻々と過ぎていった。今日の授業が全て終わり、特に話す内容が無いホームルームも終わった。俺はバスケ部の練習をする為に、部室へと向かう。
しかし、部室へと向かう途中の廊下で、急に尿意が襲ってくる。俺は近くにトイレを見つけ、そのトイレにダッシュで駆け込んだ。
俺が駆け込んだトイレの近くには、実験室や多目的室など、この時間にあまり使われない教室が並んでいる。必然的にこのトイレも、この時間には余り使われる事が無く、貸し切り状態で俺は用を足していた。
「ふぅわぁ~……」
誰もいないトイレの真ん中の便器で、用を足すという解放感に、俺は声にならない声が自然に涌き出る。トイレで使うべき言葉では無いと思うが、まさに極楽だ。
しかし、その極楽の一時を邪魔してくる、不粋な奴が現れた……。
「わっ!!!!」
「ギャッ!!!」
無防備に用を足している俺の後ろで、大声を出して誰かが俺を脅かしてきた。俺は慌てふためき、出している途中だった尿が四散する。そして、最悪な事に、四散した尿が手に引っ掛かってしまった。
俺は「何をする!!」と言いながら、怒りの露にして、後ろを振り向く。振り向いた先に居たのは、学校の人気者である稲葉 良太であった。
稲葉は俺の剣幕に少し押されているのか、少し身を引きながら、「悪い、悪い」と、少し申し訳なさそうな笑顔で謝ってきた。
「いきなり何なんだよ!?手が小便まみれになったじゃねぇか!?」
俺はそう言いながら稲葉に詰め寄る。
「悪かったて!そんなにビックリするとは思わなかったんだって!だからその手で俺に触れようとしないでくれ!」
「駄目だ。お前には刑を執行する」
「や、やめろ~!!!」
俺は小便まみれになった手で、ガシガシと稲葉の頭に頭皮マッサージをしてやった。稲葉の「ぎゃぁぁぁぁ!!!」という断末魔が、トイレを通り越して廊下中に響き渡る。
俺は刑の執行を終え、不浄の水で汚した手を、水道場で洗いに行った。稲葉も水道場の石鹸をシャンプー替わりにして、頭を入念にゴシゴシと洗う。
「謝ったのに……。何もここまでする事ないだろ?」
頭を洗い終えた稲葉は、タオルで頭を拭きながら、恨めしそうな顔をして、刑の執行について抗議をしてきた。しかし、その抗議は到底受け入れられない。
「うるせえ。こっちはいい気分で小便をしてたんだよ。お前のせいで気分が台無しじゃねぇか。当然の罰だ」
「ふぅ~ん。いい気分ねぇ」
いい気分という言葉に何か引っ掛かったのか、恨めしそうな顔から一転、稲葉は何か含みを持たせた感じで、ニヤニヤしながら俺の方を見てくる。
一体なんなの?まぁ、なんとなく想像は出来るが……
「浜崎にデートに誘われて、いい気分だったのに、ぶち壊してしまってすまんなぁ」
やっぱり桜に映画を誘われていた事が、稲葉にバレていた。まぁ、クラスの教室で誘われていたからな。同じクラスの稲葉に、そのやり取りを見られていても仕方がない。
「なんだよ?嫉妬して俺の小便を邪魔しに来たのか?」
「違う違う。寧ろ逆だ!俺は喜んでいるんだよ!」
「はぁ?」
何を言ってるんだ、こいつ?稲葉は桜の事が好きなはずだ。そんな桜が、俺と二人きりで映画に行くだなんて、稲葉にとってファ◯ク案件以外の何物でもないはずだ。
それを喜んでいる?……頭にウジでも沸いちゃったのかな?
俺は意味が分からず、怪訝な表情をしながら稲葉の顔を見つめた。稲葉はそれを意に介さず、話を続ける。
「お前は体育祭前、トイレで話していた時に、『浜崎との恋は実らない』とか言ってたくせに、結局デートに誘われて喜んでいるんだろ?なんだなんだ?とうとうお前も本気を出すのか?ライバルとして俺は嬉しいぞ!」
どうやら稲葉は、俺が桜と付き合うために動き出したと勘違いしているしらしい。それがライバルとして嬉しいだなんて、どんだけこいつはお人好しなんだ?
しかし、それは稲葉の憐れな勘違いだ。
「ちげぇよ。今だって、俺は桜と付き合えるだなんて思っちゃいねぇよ。嬉しかったのは否定はしないけどな」
デートに誘われて嬉しかったのと、それで桜と付き合う為に動き始めるのは、また別の話である。しかも、当の桜に、これがデートだという認識は無い。
しかし、稲葉は俺の返答に納得がいっていない様子だった。
「なんでお前はいつもそうなんだ?動いてみないと結果は分からないじゃないか?」
いつもヘラヘラした表情をしている稲葉が、真剣な表情でそう言ってくる。
う~ん……余り桜の事をペラペラと喋りたくは無いんだがなぁ……まぁ、稲葉にならいいか。
「あんまり、こう言う事は言いたくは無いんだけど、桜は俺の事を大切に思ってくれているし、俺の事をよく見ていてくれている」
「うわぁ……」
稲葉は「惚気やがって」とでも言いたそうな顔をして、俺の事を見てきた。いや、だから俺も言いたくは無かったんだって。俺は取り敢えずそんな稲葉を無視して、話を進める。
「でもさ、そんな俺の事をよく見ている桜は、俺が桜の事を好きだなんて、これっぽっちも思わないんだ。よく一緒にいる綾香や桑田。それにお前だって、俺が桜の事が好きだって気づいているのに……。なんでだと思う?」
「……」
俺の問いかけに、稲葉は返答をせずに黙っている。待っていても返答は無いみたいなので、俺は更に話を進めた。
「それはさ、桜は俺に恋愛感情を持っていてほしくないんだよ。多分、潜在的にな」
「それは、なんでなんだ?」
しばらく黙っていた稲葉だったが、ようやく口を開いた。理由を言うのは、俺の精神衛生上、余り好ましくは無いが、ここまで言って途中で話を辞める事も出来ない。
「理由は二つあるよ。一つは、俺と桜と綾香の三人の関係を潰したくないからだ。だから、無意識に俺が桜の事を好きだという可能性を排除しているんだよ」
俺達三人は、只の幼馴染みでは無い。桜の悲しみを共有する事で作り上げられた、擬似家族みたいな関係だ。桜の悲劇を一緒に悲しみ、一緒に傷つき、一緒に癒していった。その関係に恋愛感情は、只の不純物でしか無い。
俺の恋愛感情が、桜に悟られてしまった時は、今までの俺達三人の関係が潰れてしまう時だ。
「もう一つは……多分これも、本人には自覚が無いのだと思うんだけど、 桜には好きな人がいるんだよ」
「どうして分かるんだ?」
「見てたら分かるよ」
そう……見ていたら分かるんだ。時折、桜があの人を見つめる表情は、只の義兄を見つめる表情では無い時がある。それはほんの一瞬。ちょっとした一瞬の話だ。
一瞬桜の顔が、恋する女の子の顔に見える時がある。
それは、桜の少しの仕草でも見落としたくないという、恋する男子の気持ち悪さがなせる技だ。俺は、桜の一瞬の機微も見落としたくない。
しかし、桜もその気持ちを自覚するのは難しいだろう。義兄妹の関係は、二人が一緒にいる事ができる唯一の大義名分だ。自覚をすれば、義兄妹では居られなくなってしまう。
そして、自分を犠牲にしてでも守ってくれていた、最愛の姉への背信行為にもなってしまう。
だから、桜はその恋心を気付かないように、無意識に自分の気持ちに蓋をしているのだろう。今はあの人との義兄妹という関係が、桜にとっては何より大事なのだ。それは、あの人にとっても同じだ。
あの二人の関係に、俺が割って入れる余地は無い。
俺は、この事をかいつまんで稲葉に説明をした。それを説明する俺の心境は、まさしく悲痛である。
しかし、当の稲葉は「ふ~ん」と興味無さそうに返事をしてきた。なんだよ?お前から聞いてきたんだろ?なんだか、さっきも同じような事があった気がする。
しかし、興味が無さそうな顔をしていた稲葉は、今度は呆れたような顔をしていた。そして……
「松本……お前って馬鹿だな?」
「はぁ!?」
いきなり稲葉が俺を誹謗中傷してきた。これがSNS上でのやり取りだったら、弁護士を雇って情報開示請求を行い、名誉毀損で訴訟を起こす所である。
当然、俺はイラだった反応をするが、稲葉はそれを意に返さず、話を続ける。
「だってそうだろ?浜崎がその人が好きだって自覚が無いなら、自覚をする前に、自分の事を好きにさせたらいいじゃん?寧ろ今がチャンス?諦める意味が本当にわからん」
「うっ」
確かに、そう言われればそんな気がしてくる……。いや、でも……
戸惑う俺に、稲葉は更に言葉を畳みかけてきた。
「松本は浜崎の事情を詳しく知っているから、考えすぎているだけなんだよ。その浜崎が好きだという人より、自分が浜崎を幸せにしてみせる!それで全て解決じゃん?何を遠慮しているの?」
うわぁ……反論できねぇ。確かに、二人の関係に少し遠慮をしすぎていたのかもしれない……。
「何処ぞの馬の骨に浜崎を取られるくらいなら、松本。お前と浜崎が付き合った方がまだマシだ!」
「いや、何処ぞの馬の骨じゃなくて、桜の義理の兄なんだけど……」
「俺はその人の事を知らん!!だから、何処ぞの馬の骨だ!」
稲葉はニコッと白い歯を見せながら、そう豪語した。やっぱりこいつは悔しいけど男前だなぁ……。顔では無く、心がだ。
「まぁ、だからさ。金曜日のデートは少しでも浜崎の意識を変えれるように頑張れよ?じゃないと張り合いがないぜ?ライバル?」
稲葉はそう言って、俺の胸を拳でコツンと軽く叩き、トイレを後にしていった。
何?アイツ、俺に発破をかける為に、わざわざトイレにやってきたの?男前にも程があるだろ?
稲葉は自然にそういう事が出来る奴である。普段の会話では、場の空気を呼んで取り繕った話もするだろう。しかし、肝心な話をする時は裏表が無い奴だ。
そんな奴だから、俺は桜の恋が実らなかった時、稲葉になら桜を任せられるんじゃないかと思ったんだ。
まぁ、そんな稲葉にライバル認定をされているんだ。少しは俺も頑張ってみるか?
静寂とアンモニア臭が包みこむ男子トイレで、俺は稲葉の発破により心持ちを新たにした。




