私とお義兄ちゃん。
あぁ~、もうすぐクラス対抗リレーが始まってしまう。結局お義兄ちゃんも負けてしまい、義兄妹揃って宇多田家に負けてしまうのだろう……
私は食堂裏で大好物のイチゴ・オレをストローで飲みながら、校舎の壁に持たれかけて一人黄昏ていた。
クラスの女子の中で一番足が速いという理由で、私は惨めな役を押し付けられている……
まぁ、普通に考えたら断れば良かっただけの話しなのかもだけど……結局私はメスライオン宇多田の言うとおり、八方美人なのだろう。クラスの顔色を伺い、断れないだけなのだ。
まぁ、たかが体育祭のリレーだ。大丈夫、リレーが終わった時、惨めな気持ちを一瞬我慢すればいいだけ……なんて事は無い。皆、私が負けた事などすぐ忘れる……私にガッカリする気持ちも……私の事など……
「はぁはぁ、見つけた!」
「!?お義兄ちゃん?」
息を切らし、汗だくになっているお義兄ちゃんが私の目の前に現れてきた。先程のレースも汗を沢山かいていたが、今はそれ以上だ。
嫌だ、今の私は誰にも見られたくない醜い私。笑顔を取り繕えない醜い私。早く……早く笑顔を作らなきゃ。
「どうしたのお義兄ちゃん?凄い汗だよ」
私は出来る限りの笑顔を作り、ハンカチでお義兄ちゃんの汗を拭ってあげる。お義兄ちゃんは前々から私が何かに悩んでいる事に多分気づいている。その事で私のところに来てくれたのかもしれない。綾香が私の事でも言ったのかな?
でも、お義兄ちゃんには余計な心配をかけたくない。しかも、たかが体育祭のリレーの事で思い詰めているなんて……内容がしょうもなすぎる。
恥ずかしいし、これ以上お義兄ちゃんの人生のお荷物にはなりたくない。
笑うんだ。必死に笑うんだ。
「もう、その取り繕った笑顔は見飽きたよ」
お義兄ちゃんは私を突き放すかのような冷たい口調で、私の笑顔を否定した。表情も今までに見たことが無いくらいに怖い顔をしている。それは、もう私の幼稚な誤魔化しには付き合わない事を意味しているのだ。
笑顔の化けの皮が剥がれれば、出てくるのは私の悲痛な心。一番見られたくない人に、醜い私を見せてしまう。
「どうして…どうしてなの?私の気持ちをわかっているのでしょ?こんな私は他の人に……特にお義兄ちゃんには見られたくないって!」
自然と涙と鼻水が流れでてくる。心だけでは無く、見た目も不細工な私をお義兄ちゃんにさらけ出してしまう。この人の前では、甘えたな可愛い義妹でいたいのに…こんな姿は見せてはいけないのに……
「見せたくないって言われても。この前、その顔をスーツにつけられて鼻水まみれにされたんだけどなぁ」
お義兄ちゃんは少し笑みを浮かべながら言う。さっきまで怖い顔をしていたのに、私のこんな顔で笑わないでよ。
「本当は、この前泣きついてきた時にもっとちゃんと話しを聞くべきだったんだろうな」
優しい顔へと変わっていくお義兄ちゃんの顔は、私に悩みを喋るようにと暗に伝えてくる。見た目とは裏腹に、私が逃げる事を許さない厳しい表情。こんなお義兄ちゃんは初めてだ。
「公平がな……桜のところに行ってくれと言ってくれたんだ」
「公平が……?」
なんで公平が?綾香では無く?
「つまりは、今ちゃんと話を聞かないといけないって事だよな。俺より桜と長い時間を過ごしているんだ。アイツは桜の事をよくわかっているよ……アイツがどんな顔をして俺を送り出したかわかるか?」
公平の顔?公平が私の事をよくわかってくれている?一体お義兄ちゃんは何の話をしているの?
「……桜、お前は優しい子だよ。明るく、時に軽い悪戯をしておどけるお転婆なところもお前の素ではあるだろうが、周りが自分の事に気を使わせない為でもあるんだろう。それは人として大事な事だよ?でも、それでお前の苦しみを全部覆い隠してしまったら、お前の事を大切に想っている人はとても辛い」
「……」
私は知らないうちに大切な人を傷つけてしまっていたの?綾香を……お義兄ちゃんを……公平も?
「でも……本当にしょうもない話しなの……他の人が聞いたから、なんでそんな事に悩むの?って言うような」
「しょうもないかどうかは他人が決める事じゃない。そんな顔して悩むくらいだ。桜にとっては大変な悩みなんだろ?桜、話してくれないか?俺はお前にとってそんな頼りない存在か?」
私はうつむきながら首を全力で左右に振る。もう観念するしかないみたいだ。
私達は校舎の壁にもたれながらしゃがみ、お義兄ちゃんに私のリレーに対する悩みを全部打ち明けた。宇多田には絶対負けてしまう事。クラスの皆にガッカリされる事。惨めな気持ちをになってしまう事……
お義兄ちゃんは柔らかい表情で、ずっと私の顔を見て黙って聞いてくれている。時には相づちを打ちながら。
私が話をいい終えると、お義兄ちゃんは「そうか」と言い、空を見上げて少し考え込んでいる素振りを見せる。私の話を頭の中で整理してくれているのだろう。
しばらくしてお義兄ちゃんは整理が終わったのか、見上げていた顔を私の方にゆっくりと向け、口を開いた。
「なぁ、桜?俺は今日リレーで宇多田さんに負けてしまったけど、お前はそんな俺にガッカリしたかい?惨めだと思ったかい?」
「そ、そんな事ない!」
思わぬ質問に、私は動揺しながら否定した。私がお義兄ちゃんに対してはそんな事を思うはずが無い!お義兄ちゃんはこの世で一番大切な人だ!もし仮にあのレースを観てお義兄ちゃんを馬鹿にする奴がいたら、私はそいつを許さない!
「桜も俺の事をそういう風に思わないよな?俺も桜の事を絶対そういう風には思わないよ?桜はクラスの皆にガッカリされるて言うけど、その中に公平と綾香ちゃんも含まれるのかい?」
「……公平と綾香が私にそんな事思うはずがない」
「そうだよな。俺もそう思うよ。そりゃあ、クラスの中には桜に対して自然とそう思ってしまう子はいるかもしれない。中にはそういう子だっているだろう……悪気はなくな」
少し遠い目をするお義兄ちゃん。それは遠い昔を思い浮かべているかのようだった。お義兄ちゃんにも私と同じような気持ちになった事があったのだろうか?お義兄ちゃんだって、私と同じ中学三年生だった時が当然あったはずだ。
「でも、きっと皆が皆そんな事を思う子じゃ無いよ。桜にとって大切な人程、桜の事をそういう風に思わないさ。クラスの為に走る桜にガッカリする奴なんて、桜の人生にとって必要のない奴さ。これまでも、多分これからもな」
お義兄ちゃんの言うとおりだ。何もクラスの皆が私にそんな目を向けるはずは無い。むしろ、そんな私に皆興味があるのか?という話しだ。学年順位を一位をクラスの皆が狙っているのだって、たかがジュース一本の話し。皆がそんな本気になってるはずもない。まぁ、西川君はどうか分からないけど。
しかし、それでもわざわざ負ける戦いを公衆の面前に見せつけにいく事実は変わらない。私はこれから皆の前で恥をかきにいくのだ。
「……ねぇ、お義兄ちゃん……」
「ん?なんだ?」
優しい顔で私の話を聞いてくれようとしているお義兄ちゃん。私は一呼吸を置いて、ゆっくりと口を開き始める。
「お義兄ちゃんは、どうしてわざわざ負けるとわかっているレースにそんな張り切れるの?」
「え?桜さん少し酷くない?」
お義兄ちゃんは少しおどけた顔をして返す。確かに少し酷い質問だけど、わざわざ負けを晒しに公衆の面前でレースに向えるお義兄ちゃんの気持ちは分からない。負ければ恥ずかしい、悔しい。
そんなレースに張り切って挑めるのはなんでなの?私は赤く腫らした目で真剣にお義兄ちゃんを見つめる。
「まぁ、只のお祭り競技だし、桜と違ってクラスを背負ってる訳でもない。だから、そんな深く思い詰める事もないってのもあるけど……俺は挑戦できる事に理由をつけて諦めたりはしないって決めているんだ」
お義兄ちゃんは顔を少し上に向けて、再び遠い目をしながら話を続ける。
「桜は俺が中学までバスケをしていたのを知っているよな?」
私は肯定の意思表示で二回首を縦に振った。それは遠い昔の記憶。物心がつき始めた時の記憶だ。
お義兄ちゃん……その時はお姉ちゃんと仲のいい近所のお兄ちゃん。お姉ちゃんにつれられて、咲太お兄ちゃんと健太お兄ちゃんが出場していた試合を観に行った記憶がある。
確か、勝てば全国大会に出られる試合だったと思うが、その試合は負けてしまい、咲太お兄ちゃんは試合中に怪我をしていたはずだ。そんな記憶が朧気にある。
「中学でバスケを辞めた理由なんだがな、まぁ怪我をした事も理由の一つなんだけど、一番の理由は身長なんだ。健太と違って俺は身長が無い。プロの選手になるのが夢だったんだけど、俺はレベルの高い試合に挑むにつれて身長の壁を痛感してな。それでバスケを辞めたんだ」
お義兄ちゃんの身長は決して低いわけでは無い。むしろ、成人男性の平均身長より少し高いはずだ。それだけバスケは身長の高さが求められる競技なのだろう。お義兄ちゃんは少し憂いた顔をしている。
「でも、日本人初のNBAプレーヤーが今の俺と同じ身長なんだよなぁ。日本人初の年簿一億円プレーヤーなんか、俺より全然身長が低いんだぜ?あの新藤も、俺と身長がそう変わらないのに、大学で全国区の選手にまでになった。アイツ、普段はあんな感じだけど、仕事とかいつも全力で頑張る努力家なんだぜ?」
「あの新藤さんが?」
「あぁ。そんな人達を見てるとさ、自分が身長を理由にバスケを辞めた事が恥ずかしくなってさ、後になって凄く後悔したのさ」
初めて聞くお義兄ちゃんのお話。それはお義兄ちゃんの遠い昔の苦い記憶。お義兄ちゃんは私の為にその苦い記憶を話してくれているのだ。本来なら話さなくてもいい話しを、私の為に……
「それで、俺は何か理由をつけて挑める事に対して諦めるのは辞めようと思ったんだ。まぁ、今でも全ての事に対してそういう風には出来てないとは思うし、今回はそれこそお祭り競技の父兄参加リレーだ。そんな大それた話しでも無いんだけどな」
そう言いながらお義兄ちゃんは立ち上がり、私を見下げて微笑んでくれた。そして、右手を私の前に差し出す。
「まぁ、要するに気楽やればいいて話しさ。今日の俺のレースのように、何かアクシデントが起きて桜に追い風が吹いて勝つかもしれない」
「……今日のレースて…。今日お義兄ちゃん結局負けてるじゃん」
私は少し皮肉を言った後、差し出してくれた右手を両手で掴んだ。お義兄ちゃんは「確かに」と笑いながら言って、私を引っ張り立ち上がらせてくれた。
お義兄ちゃんの言ってくれた事は、結局のところ気休めなのだろう。現実問題として現状は何も変わらない。
しかし、お義兄ちゃんに私の悩みを聞いてくれた事によって、少しは気が楽になった気がする。お義兄ちゃんや大切な人達が見守ってくれていると思えば、負けた惨めさも少しはマシになるのかもしれない。
「いくか。もうすぐリレーが始まるんだろ?」
「うん」
私はお義兄ちゃんの手を離し、クラスのテントの方へとゆっくり歩いていく。
もう大丈夫。お義兄ちゃんが私の事を見ていてくれている。健太お兄ちゃんも、綾香も公平も。そして…天国のお父さん、お母さん。お姉ちゃんに向日葵ちゃんも…。
青い空にまばらにかかる白い雲。その下で行われる白熱の体育祭。十人十色の思いが交錯するグラウンドで、私はお義兄ちゃんの言葉を胸に、クラスの命運を掛けたリレーへと挑みに行く。