訓練開始
ベアノンに訓練をお願いしてから割とすぐに、具体的に言うなら日が僅かに傾き始める頃には私は後悔していた。
この男、本気で加減をしない。最初は体力と筋力作りと言われてひたすら運動させられたのだ。
勿論私が遠慮せずに、だとか令嬢という事は忘れて、だとか言ったのだから当然といえば当然だが、それにしても幼女にいきなりやらせる訓練量ではないのではないだろうか。
そもそもつい二カ月くらいまで前には”ヴァレーリア”が気に入らない相手をガンガン解雇していた筈なのだが、そういう噂に委縮したりだとかしないのだろうか。そんな益体もない事を考えて現実逃避してしまう程ベアノンの基礎訓練は厳しかった。
日が沈むまで続いたベアノンの訓練で私は吐くほど……いや、吐いたほど疲労し、部屋に戻った。
私のかつてない酷い様相にメイドの誰かが悲鳴を上げたのは覚えているが、次に気が付いた時には日が昇っていた。
服もいつものネグリジェっぽいものを着ており、身体も綺麗になっていたことからメイド達が何とかしてくれたのだろう。
ベアノンの訓練が如何に地獄のようだろうと、自信満々に啖呵を切ってしまった手前一日で辞めるなんて真似が出来るはずがない。
意地でも続けてやると意気込んでいたのだが、そもそもそれ以前にベッドから起き上がる事すら困難だった。
前世から通して考えてもこんな酷い全身筋肉痛になったのは初めてだ。
無理に起き上がるだけで小さく悲鳴を上げてしまう有様に、厳しいリッサですら心配そうな目を向けてきた。
私はリッサに泣く泣く午前のダンスを別の座学と変えてもらう事と、ベアノンに明日には必ず行くから今日の訓練は無しにと伝言を伝えてもらうようお願いした。
しばらくしてさっと音もなく戻ってきたリッサによると、ベアノンはどうやら私が動けなくなる事は想定していたらしく、むしろ明日には必ず行くという言葉に驚いていたらしい。
一日で音を上げて来なくなると思われていたなんてと私は内心むっとしたが、ベアノンが手配していてくれたらしい体の痛みを和らげる軟膏でかなり楽になったので溜飲は下がった。
次の日にはなんとかかなりぎこちないながらもダンスの授業が出来るくらいには回復していた。
リッサもおかしな動きをする私に注意はしていたが、昨日の私を見ているためかいつもの気迫はなかった。
午後にベアノンの所へと向かうと、ベアノンは明らかに本当に来たのか、という驚いた顔をした。
ニコリと笑った私の姿にベアノンもさっといつもの笑顔に戻っていたが、やはり私は一日で音を上げると思われていたようだ。
「ベアノン、昨日は来ることが出来ずごめんなさいね、今日からまたよろしくお願いします」
「あぁ、こちらこそお嬢様、どうかよろしく」
人懐っこい笑顔を浮かべたまま更ににっとベアノンが笑う。
「いやぁそれしても、私はお嬢様じゃてっきり厳しい訓練にゃ耐えられないと、一回でお止めになるかと思ってたんですが、こうしてまた来てくださった事にびっくりしてますよ」
ぴしりと私の笑顔が固まった気がした。確かにそうだろうとは思っていたが、本人に対して口に出して言ってしまうのか。
「えぇ、私から厳しくして欲しいとお願いしたのですから、途中で投げ出すような情けない真似をするわけがないでしょう?」
「いやぁ、すみません、レイノルド様のお孫様ですもんね、安心致しました」
豪快に笑うベアノンは大してすまないと思ってなさそうにそう言う。
レイノルドはおそらく祖父の名前だろう、ヴァレーリアは覚えていないが。
「それじゃあ、今日の訓練を始めましょうか」
「えぇ、お願いします」
売り言葉に買い言葉で墓穴を掘った気がするなとちょっと憂鬱になりながらも笑顔で答え、その日の訓練も始まった。
◇
訓練を初めて最初の二十日くらいは二日に一回の訓練にせざるを得ないありさまだったが、
徐々に慣れて毎日の訓練に耐えられるようになり、秋が深まり冬支度を始める頃には何とか表情だけは崩さずに訓練を受けられる程度には慣れてきていた。
ベアノンから出される内容も徐々に過酷になっている気がするが、彼の口振りからすると本人がヴァレーリアの祖父から受けていた訓練を元にしているようだ。
恨みつらみからその厳しい訓練を押し付けているわけではなく、むしろ恩返しが出来て喜んでいるようなので、ほっとするべきなのかお爺様を恨むべきなのか悩むところだ。
勉強も文学以外は順調に進んでいる感覚があり、先生も癇癪を起さなくなった私の事を可愛がってくれている。ただ、最近は本当にこれを他の6歳も学んでいるのかと私は若干疑問に思っている。
公爵の娘ならば他の貴族よりも優れていなければ恥を掻くことになると(主にリッサに)言われているので、そういうものなのかも知れない。
そういえばリッサは男爵の娘らしい。どういう経緯があってメイドをしているのかは知らないが、二十歳くらいにしか見えないのに指示を出し慣れているのは出自の関係があったようだ。
お小言を言っていない時は金髪碧眼なのもあり綺麗なビスクドールのように見える。お小言を言っていない時は。
ちらちらと雪が舞う日が増え、ベッドから起きるのが以前とは別の意味で辛くなってきた頃、ベアノンからようやく練習用の剣を扱わせてもらえるようになった。
前世でも本物の剣を持ったことはあるが振り回したことは無い、舞台で扱うのは当然ながら軽いレプリカの剣だ。
初日に剣を振った時はそれだけでよろよろと倒れそうになった。
それを見て笑ったベアノンを思わずキッと睨んだが、最近はベアノンもそれくらいでは構わず笑い続けるようになってしまった。
◇
「今日は流石に外に出られないわね」
昼食を終えた私は、自室から外の猛吹雪を見てため息を吐きながら温かい紅茶を飲んでいた。
今日までは二、三日に一度雪が降る程度だったのだが、老メイドのケーテに聞いた所、毎年一回か二回は吹雪の日があるらしい。
”ヴァレーリア”は今まで冬に外の景色なんて気にした事がなかったようで、私は知らなかったのだ。
「お嬢様、今日はルーペアト様が来られる日ですよ、そろそろお支度をなさいませんと」
ケーテの声に私は思わず眉を顰めた。
「ケーテ、この吹雪の中馬車を走らせるなんて無理でしょう? ……それともルーペアト先生は昨日泊まっていらしたのかしら、私は何も聞いていないけれど」
ルーペアトは私の魔術実技について教えてくれる予定の先生だ。今まで座学で魔術についてはなんとなく習っていたものの、ルーペアトの都合がつかないという理由で魔術実技に関しては保留となっていた。
教師の中にはリッサを含めレーヴェレンツ公爵の家に別の仕事をしながら住み込んでいる者も多いが、ルーペアトはそうではなかったはずだ。
「いいえ、お嬢様。ルーペアト様はまだ到着しておられません。ですが午前中の授業に間に合うように来られるとの事でしたのでおそらくそろそろ到着なされるかと」
「……わかったわ。着替えることにします」
いまいち納得は出来ないが、ケーテが当然のように言うのであればおそらくルーペアトは来るのだろう。
準備を終えた私は、本当に来るのかしらと思いながら来るまでの暇つぶしに本を開いた。
数ページ読み終えた辺りでメイドから声がかかった、どうやらルーペアトは本当にこの吹雪の中来たらしい。
魔術を使う関係で今日のお供はリッサだ。屋敷の裏手に向かう道すがら、私はいったいルーペアトとはどんな人物なのかと首をひねっていた。
我が家の魔術訓練場は兵士の訓練場の地下にある、代々火を使う家系である関係から燃えるものがない場所でないといけないのだとか。
広さは小学校の体育館の半分程はあるようで、窒息しない為にか換気は十分にされているらしく、地下への階段を降りながらも風の音がビュウビュウと聞こえる。
私は最初にこの訓練場の存在を知った時、そんなものがあるなら剣の訓練もそこですればいいのではと思った。しかし今、訓練場に辿り着く前にそれがなされない理由を思い知っている。
寒いのだ。外は猛吹雪、換気はばっちり、上は訓練場で建物も何もない場所の地下。冷えるための条件が揃い過ぎている。
縮こまりそうな身体を押さえつけ、なんとか優雅さを保ちながら階段を下りる。
何せリッサが一緒に居るのだ、寒いからと言って腕をこすったりすればお小言が飛んでくるに違いない。
ちらりとリッサを見ると真っ赤な鼻と頬をしながらもおすまし顔である、見習わなくてはならない。
しかし、訓練場まで下りて中を見た私はそんな事も頭から吹き飛んで、
私は令嬢にあるまじき叫び声をあげてしまった。
そこで待っていた人間は、今まさに立ったまま火達磨になっていたのだ。
ベアノンは46歳、リッサは22歳です。
リッサさんは有能だからって仕事増やされて可哀そう。ベアノンさんは午前中やヴァレーリアの基礎訓練中にも鍛錬してます。