公爵令嬢の奮闘
お父様の部屋から自室まで戻ると身体から力がすっと抜けた、どうやら自分で思っていた以上に緊張していたらしい。
”ヴァレーリア”の記憶ではお父様はお願いすれば何でもしてくれる人、という印象しかなかったが 実際に見てみると持っていたイメージより随分冷たいように思えた。
……なんていうか、馬鹿な娘に呆れ返ってるって風にしか見えなかったよね。
ヴァレーリア自身が数えるほどしかまともにお父様と話していない上に、いつもお兄様の事ばかり気にしていたせいで何か間違った印象を持っていたのだろうか。
何はともあれ勉強とお稽古事をしっかりやれば訓練を受けても良いとの言質は取った。後は真面目にそれに取り組むだけだ。
「だけ、なんだけど……私も勉強よりは身体動かす方が好きなんだよね……はぁ」
大学を卒業時、もう受験勉強に悩む事は二度とないのだと祝杯を挙げた私としては、勉強のやりなおしなんて非常に不本意なのだが、自分で条件として出した以上どうしようもない。
そういえば演劇部は文化部に分類上入るが、あれは実質運動部といっても良いと思う。その意味では吹奏楽部と似ているかもしれない。
ベッドに腰掛けながらアンニュイな気分で深窓の令嬢を気取っているとメイドに呼ばれた、どうやらお願いした通りに先生を連れてきてくれたらしい。
入室の許可をすると、ヴァレーリアの数学教師がおっかなびっくり入ってきた。
その青い顔には、追い出されることはあっても呼ばれるなんてあり得ない、もしかしてクビになるのでは? とはっきり書いてあった。
余りにも分かりやすい教師に対しつい苦笑いを溢しながら、私は机に座った。
◇
教師に勉強をしたいと伝えてこれでもかという程仰天させてから二カ月程はずっと勉強詰めだった。
今までの遅れを取り戻したと認めて貰えるよう、私は必至で頑張った。
ずっと我が儘でまともに勉強なんてしようとしなかった私の宣言に、最初こそ驚いたり訝しんでいた教師陣だが、お兄様の死がそれ程の衝撃だったのだろうと理解したようで、すぐに私に合わせたスパルタペースで手伝ってくれた。
まず数学と音楽は中身が25歳なだけあって教師から大喜びされる出来だった。
数学、というより算数は当然問題にならなかったし、音楽はピアノを昔少し習った程度だったがそれで充分事足りた。楽譜のルールは違ったが使う楽器がオルガンのようなものだったのが幸いした。
魔術、歴史、地理、礼儀作法、ダンスに関しては予備知識が無かったのでそこそこ苦労した。それでも優秀だと褒められたが、教師が言うのは6歳にしては、の話だ。浮かれる事なんて出来るわけがない。
そして、何より苦労したのが語学と文学だった。語学は日本で言うところの国語と言えるが、文学は詩などの美しい文に関する教養的な学問だ。文学が特に壊滅的だった。
そもそもここの言葉自体が変に扱いにくいのだ、英語のようにアルファベットっぽいもので単語を作るのに、文法はほぼ日本のまま。
悩み悩んで作った詩で教師の笑顔を固めた日の夜は、なんでわざわざ絶妙に似せて混乱させるような言語になっているのかと誰に向けることも出来ない怒りを枕にぶつけた。
苦手だった英語が無かった代わりに国語に裏切られるなんて思いもしなかった。
勉強詰めの二カ月の半分以上は語学と文学に使っていたような気すらする。その甲斐もあって終わり頃にはなんとか語学の方はまともになっていた。
文学に関しては、明確な正解が付くものでもないのでゆっくり進めていけばいいですよという先生からの慰めの言葉を貰い、私は年甲斐もなくさめざめと泣いた。
外見年齢的には合っていたのはせめてもの救いだが、前世で小学生低学年の頃どうしても給食の納豆が食べられず、昼休み終わりのチャイムが鳴るまで泣き通した挙句、次は頑張ろうねと先生に声を掛けられた事を思い出し、この上ない恥辱を味わった。
そんな屈辱的な経験を乗り越え、私はとうとう毎日午前中にしっかり勉強すれば午後は自由にしても問題ないとの言葉を引き出したのだった。
◇
「お嬢様、少々落ち着きがありませんよ」
礼儀作法とダンスの教師を兼ねている若いメイドのリッサが顔を顰めて注意する。
昼食中にも関わらずそわそわしていたり目線が外に向かっていたのを見咎められてしまったようだ。
しかし今日の午後はやっと特訓が始められるのだ。少しくらいそわそわしてしまうのも仕方がないと心の中で自己弁護をするが、もしそんな事を口に出して言おうものならリッサお得意のお小言がつらつらと出てきてご飯が美味しくなくなる。
「ごめんなさい、気を付けるわ」
そんなわけで私はにっこり令嬢スマイルを決めて謝り、優雅に、可能な範囲で急いで、昼食を続けた。
昼食を終えると私はすぐに動きやすい服装に着替えて外に出る。
裏手の訓練場に行くと事前に伝えていた通り兵士長のベアノンが人懐っこそうな笑顔で待ってくれていた。
ベアノンはヴァレーリアの祖父の代から仕えてくれている非常に優秀な兵士で、うちにいる他の兵とは練度がまるで違うそうだ。なんでも以前は王の近衛騎士団からも声がかかったとかかかってないとか。とにかくそれくらいの腕らしい。
がっしりとした体格と伸ばしたい放題のクリーム色の髭からまるで白い熊のようだと私は思った。
「ベアノン、前もって伝えていましたが、今日から訓練をお願いしますね。訓練中はレーヴェレンツ公爵令嬢だという事は忘れても構いませんので、遠慮せずにお願いします」
そう私が言うと、少し困ったような、眩しいものをみるような顔でベアノンは口を開いた。
「そらぁ勿論私は構わないんですが、もしかしてそらぁジギスムント様と同じくらいに厳しくってぇ事でしょうか、ジギスムント様の訓練は公爵様の希望もあってかなり厳しくしてたもんですから……」
ベアノンのクリーム色の目をまっすぐに見ながら私は答えた。
「いいえ、ベアノン。お兄様と同じくらいではないわ。お兄様よりも厳しい訓練をして欲しいの」
ジギスムントはお兄様の名前だ。お兄様が私を守ってくれた以上、私はお兄様以上の価値を示さなくてはならない。
何より今の公爵家には私しか継ぐ事の出来る者がいない。誰かを守るにしてもお兄様のように自らと引き換えにするわけにはいかないのだ。
私の答えを聞いたベアノンが笑顔を引っ込めて、一瞬すっと見定めるように目を細めたが、一度瞬きをするとまた元の人懐っこそうな笑顔に戻っていた。
「わかりぁした、ですが一度決めたからにゃ泣き言は聞きやせんからね?」
「えぇ、もちろん。望むところです」
自信たっぷりの笑顔で私はそう答えたが、その笑顔が消えて泣きべそを堪えた顔に変わるまで半刻もかからなかった。
ヴァレーリアが当然のようにスパルタ授業をこなすので教師の要求もガンガン高くなり、いつしか年相応とは遠く離れたところに……そんな中唯一年相応なレベルの文学を見て教師は勝手に失望してヴァレーリアはショックを受ける。可哀そうなヴァレーリア。
まぁ、教師の年相応って感覚が崩れたのはヴァレーリアがさぼってたせいだから因果応報と言えなくもないのかな。