もっと更なるリラックスタイムの為に
正式にラインハートが婚約者になった後、お父様は折を見て公表すると言っていた。
それがいつになるのか私にはわからないが、そう遠くないうちにアルドリック様にも知られてしまうのだろうと思うと少し気が重い。
婚約を結んだ日の別れ際、ラインハートから表面上婚約者として仲が悪くはないよう振舞って欲しいと言われていたので、それ以来私は彼と文通をしている。
しかしラインハートとの文通はとても難しい。彼は手紙だとかなり優し目な言い方をしてくれるのだが、詩的な表現が多い上に、非常に婉曲な言い回しばかりなのだ。
私一人ではとても解読も返信も行えず、リッサや文学の教師に教えて貰いながらなんとか書いている有様だ。
ちなみに文学の教師はラインハートからの手紙を見てとても感心した後、私の方を見て絶望するような目をしていた。心に来るので本当にやめて欲しい。
ラインハートとの文通は授業の延長のような気持で書くことになってしまっているが、一応内容は仲の良い友人に宛てた世間話だ。
ラインハートは私についてこまで詳しく知っていたわけでは無いらしく、剣を嗜む程度に習っていると書くと結構驚いているようだった。
この分だとアルドリック様と勉強をしているだとか、剣の試合をしているだとかの話をすればもっと驚くだろう、途中で人に見られる危険性を考えると書くわけにはいかないのが残念だ。
そして冬が始まる頃、そのアルドリック様の元にも私の婚約の話が届いてしまったのだろう、あくる日レーヴェレンツ邸にきた彼はいつもと様子が違っていた。
私の方を見て、何か言い出したいような思いつめた顔を何度も見せながらも、私と目が合うと口を噤んでしまうというのを何度もしていた。
私の事を気遣って何か言ってくれようとしているのだろうが、ここまで躊躇いを見せるという事はきっと城での噂までも耳にしてしまったのではないかと思う。
私がアルドリック様の妃の座を狙っていたなんて噂を、アルドリック様本人にに聞かれたと思うととても恥ずかしい。
そしてその上で私がラインハートと婚約したと聞いてアルドリック様は今どう思っているのか、彼が口に出そうとしている言葉を聞くのは怖い。
その日は結局最後まで何も尋ねたりはせずギクシャクしていたアルドリック様だったが、次に来た時にはその様子がさっぱり消えていた。
何があったのかはわからないが、きっと彼も私のどうしようもない事情を理解したのだろうと思う。
少し、いや、とても寂しいが、私はもう選んでしまったのだ。彼もまた、私と同じように選んだ。たったそれだけの筈だ。
一方、温泉事業の方はだいぶ上手くいっているようだ。行楽地なので飲食店や宿はわりとぼったくり価格に設定してあるが、おかげで結構な収入になっている。
温泉の注意だけは絶対に忘れないようにして貰っているおかげか、トラブルの話も特にない。
同じくぼったくり価格な温泉の素も、もうすぐ予定していた量の準備が出来る。余裕があればこちらは現地だけでなく商店に卸して売りさばきたいものだ。
温泉事業に関しては私が主導になっている為、アイデアを出すだけで少しずつ私の懐にお金が入るし、試作品や試供品が格安で手に入る。
その代わり働いている者達は公爵令嬢の名のもとに、他のライバルに潰されたり商店に吹っ掛けられたり、貴族の度を越した我が儘を受けるといった理不尽な目にあうことが無い。お互いにWin-Winな関係だ。
◇
季節が冬に入り雪の降る日が増えて来た頃、私は温泉の素をお風呂に入れて楽しめるようになっていた。
ケルツェ温泉でもとてもいい売り上げを出しているとして、お礼代わりに結構な量が送られてきたのだ。
折角売れているのだから私にただでくれるよりもそのまま売るか、もしくは私にだって割引価格で販売にすればいいのにと思ったが、折角の厚意なので素直に受け取って楽しむ事にした。
温泉の素は一回分を個包装として小さな革の袋に入っており、それが十袋分綺麗な木の箱に詰められていた。
これでエルン金貨……一番価値の低い金貨一枚分だ。貴族相手に買い占められても困るという事で値段設定をしたのは私とリッサだが、それにしたってぼったくりだ。なにせ原材料は山に大量にあるのだ。
エルン金貨の価値は、貧民であれば一枚で半年以上暮らせる額といえば良いだろうか。酷い額だと私も思う。
「それでも……やっぱり身体が楽になる気がするもの、もしかしたら硫黄以外にも色々入っているのかしら」
私は一人で温泉の素を入れたお風呂に浸かりリラックスしていた。有効成分によって温泉は色々と効果が変わる筈だが私には調べ方も調べた結果何が何に効くのかもわからない。
何にしてもいい結果になっているようだからそれでいい、という感じだ。温泉の素にしたって、前世で実際の作り方を知っていたわけでは無いので、ちゃんとお湯に溶かして効果が出るようでよかった。おかげでリラックスタイムの幅が更に増えた。
「でも、こうなると余計に残りが気になるのよね……」
私は濡れた髪を弄りながら呟く。そう、シャンプーやリンスが無い事だ。そうはいっても私にはシャンプーの作り方なんてわからない。
グリセリンとかシリコンとかを使っている事は知っているし、あとはヒアルロン酸だとかビタミンだとかが含まれているのだろう。しかしそれだけ分かっていてもどうしようもない。
「でも石鹸で洗っている割にはぼさぼさになってないのも不思議ね……」
そう、前世でもし石鹸で洗い続けようものなら当然の如く櫛が通らない絡まった髪になってしまう。しかし今の私や他のメイド達も、それ程ばりばりの髪にはなっていない。
石鹸と人とのどちらか或いは両方が前世と違うのだろう。もちろん、それでも前世のように髪につやが出ている人もいないのだが。
「あー……それなら髪を洗うというより艶出しって目的で、ケアオイルを使ってみるだけでもいいかも。うん、そうね。ちょっと考えてみましょう」
日本でも昔は椿オイルを使って髪を手入れしていたなんて話があった筈だ。
どういったオイルが髪に特に良いは分からないが、おそらく今まで私がお風呂に入れたことがあるハーブや果実類であれば、害にはならないだろう。
そう思いついた私は、お風呂から出て部屋に戻った後早速オイルの手配をしようとして、ふと気が付いた。
……この世界にエッセンシャルオイルってあるのかしら。
香油を使ったマッサージなんて、イメージ的には昔からあってもおかしくないような気がするし、少なくとも料理には油が使われていると思う。
少し不安に思った私はリッサに聞いてみる事にした。
「ねぇリッサ、植物から取れた油って売っているものかしら。その、花や果実から取れた良い香りのする油が欲しいのだけれど」
私がそう尋ねると、水差しを入れ替えていたリッサは少し下を向いて考えた後、静かに答えた。
「申し訳ございません。植物から取れた油といいますと料理に使うズィレ油くらいしか存じ上げません」
ズィレ油は何となくわかる、多分香ばしくてごま油に似た風味の油の事だ。
「いいえ、構わないわ。……リッサ、今度ピューズの皮をたくさん使ってやりたい事があるの。少し多めにピューズを仕入れて貰えるかしら」
「かしこまりました」
エッセンシャルオイルが売っていなかったのは残念だが、それなら作るところから始めればいい。幸い今は冬で、ピューズが多く取れる時期だ。
柑橘類っぽいあの果物ならきっと皮を絞るだけでもオイルが取れると思う。
……でも、折角だから他のオイルも欲しいのだけれど。
布団に入りながら考える。私はもちろん前世でエッセンシャルオイルを採るなんてしたことが無い。ただ、何となく絞るか蒸発させて集めるかだろうというのは想像がつく。
私の知っている限りアロマオイルは水よりも蒸発しやすかった。恐らくは温めるか何かして蒸発させて、それから冷やして液体に戻すのだろう。
こちらの方法を取る為にはそれように入れ物を用意しないといけないだろう。
……明日にでもリッサにお願いしましょう。
ふわふわと設計図を頭の中に浮かべながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。
ピューズって何かまた注釈つけた方がよかったでしょうか。
ちょっと前に出して、お風呂に入れたりしてた柑橘系の甘い果実です。
 




