温かな場所
アルドリック様が来る日も朝のうちは薄く靄がかかったような頭で手紙を書いていたのだが、たまには到着した知らせを聞いてから玄関ホールに向かうのではなく、外で来るのを待とうかと思いつき、早めに切り上げる事にした。
もしかするとメイドに淑女としてよろしくないと止められるかな、とも考えていたのだが割と最近入った若いメイドであるミーナは、まぁ! と華やいだ声を上げて付いて来てくれた。
ミーナは恐らく十代半ばくらいで、薄い黄色の髪と目をした明るい子だ。普段私に一人だけでつく事は無かった筈なので、もしかするとお葬式の準備で色々と忙しいのかも知れない。
正面の門が見える日陰で立っていると、ミーナが椅子と小さなテーブルと紅茶を用意してくれた。これなら本を持ってきても良かったかも知れないな、と思いながら紅茶に口をつけた。
まだ初夏とはいってももう避暑に行く貴族も多い季節だ。外に出たのは失敗だったかも知れない。紅茶が普通に熱いものだったのも災いした。私の我が儘に付き合って椅子と机と一緒に持ってきてくれたのだから文句をいうつもりはないが、暑いものは暑い。日本とは違って蒸していないだけラッキーと考えるべきだろうか。
そのまま何だか少し視界がフワフワするような状態で半刻程が過ぎた頃、門が開く音がして私は顔を上げた。どうやらアルドリック様が着いたようだ。
立ち上がって屋敷の前に到着した馬車に少し近づくと、アルドリック様が驚いた様子で馬車から降りて私を見る。
「ご機嫌よう、アルドリック様」
私が微笑んで礼をとると、アルドリック様は目を険しくして早足で近づいてきた。
「ヴァレーリア、いったいどうした。何があったのだ」
馬車を外で待っていたのは私が思っていたより良くない行動だったのだろうか。
ここの本でもたまに見るのでてっきりそこそこあるものと思っていたのだが、失敗してしまったかも知れない。アルドリック様の距離がやたらと近いのもあってつい目を逸らしてしまう。
「申し訳ございません。たまにはと思ってこちらで出迎えさせて頂いたのですが、次回からはこれまで通り玄関ホールで待つことに致します」
「そんな事を言っているのではない、自分で気付いていないのか?」
私の答えにアルドリック様は唸るように苦々しくそう言った。
とても不機嫌そうなアルドリック様の声にビクリと震えてしまう。何か他に不作法があっただろうか、自分の服装を見下ろしても何か問題があるようには思えない。私は何を見落としていたのだろうかと、泣きたい気持ちで口を開いた。
「申し訳ございません、アルドリック様、私の考えが至らないばかりに不作法を――」
「違う、そうではない。そうではないんだ、ヴァレーリア」
いきなりアルドリック様の手が肩に置かれ、驚いた私はつい後ずさって手から逃げてしまった。はっとしてアルドリック様の顔を見ると傷ついたような顔をしている。やってしまった、と慌てて私は謝る。
「申し訳ございま――」
「ヴァレーリア、お願いだから謝らないでくれ。私はそんな事を求めているわけでは無い」
それではどうしたらいいのだろうか、アルドリック様の求めている事が分からず途方に暮れてしまう。
「……まずは屋敷に入るとしよう、ここにいてはヴァレーリアが倒れそうだ」
気まずそうにそう言ったアルドリック様は、殊更ゆっくりと私の左手を取り、こちらを気遣いながらエスコートしてくれる。
エスコートなど礼儀作法の授業でされただけの私は少し困惑しながら、応接室までアルドリック様の後をついていった。
「其方らは扉の前で待機だ、何かあれば呼ぶ」
アルドリック様はそう従者達に有無を言わせない口調で言って背を向けると、私をソファーまで連れて行き座らせ、自身もその隣に座った。
「その、アルドリック様? 何故人払いをされたのですか?」
「ヴァレーリアと話をする為に決まっているだろう、あまり大っぴらには言えない話かも知れないからな」
王子の従者にも言えないなんて、アルドリック様は一体なんの話を話をするつもりなのかと私は緊張して身構えた。
行儀作法について私が説明する事は多少あったが、アルドリック様から指摘された事は無かった。ここ数日は何もかも上手くいかないなとますます落ち込んでしまいそうだ。
「それで、何があったのだ?」
「え?」
私に話を振られるとは思わなかった。てっきりアルドリック様から何か話されると思っていた私は間の抜けた返事をしてしまうが、それを大して気にした素振りもなくアルドリック様は言葉を続けた。
「そのように疲れた顔をして様子もおかしいのに何もないという事はないだろう。訓練場を何十周もした後にも笑顔で話していた者と同一人物とはとても思えないぞ」
そんなに酷い顔をしているのだろうか、こちらではまだ化粧に手を出していなかったが、それならアルドリック様に会う前に誤魔化せるようにするべきだった。それと訓練場は何十周もしていない。十何周かだ。
「申し訳ありません、自らの体調管理も出来ないばかりにアルドリック様にお見苦しい姿を見せてしまいました。次までには整えますので、どうかお目汚しをした事をお許し下さいませ」
「ヴァレーリア……」
次に会う時にはお葬式も終わっているはずだ、だから今回だけはと思っての回答だったが、アルドリック様はその答えでは満足していただけなかったようで、唇を噛んでいた。
「ヴァレーリア、私は其方に対して怒るつもりも、王子に対して不敬だなどと言うつもりも全くないのだ。作法に関してはそもそもヴァレーリア程詳しく無いし、私は王子としてではなく、ただヴァレーリアの……その、友人のアルドリックとして、何があってそれほどまでに其方が弱っているのか話して欲しいと思っている。無理にとは言わないが、私に話してはくれないか?」
弱り切ったようにそう言うアルドリック様に私は目を瞬いた。
アルドリック様がそこまで思ってくれているとは思わなかった、ゲームでの関係よりはずっと良好だと思っていたが、初対面の時に相当脅してしまったし、それからも私が勝負で勝ち続けているのでそれほど良く思われていないのではないかと思っていたのだ。
「アルドリック様……」
私が少し感動していると、少し表情を明るくしたアルドリック様は悪戯っぽく笑った。
「そうだな、なんなら言葉遣いも崩していい。いや崩してくれ、他に誰もいないのだ、私が言わなければ誰にも怒られないだろう?」
良い事を思いついた、という自慢げで子供らしい顔に思わず私もくすりと笑ってしまう。
「ありがとうございます、アルドリック様」
「む、そうではないだろう。せっかくなのだ、ほら」
「そうですね、いえ。そうね、ありがとう、アルドリック」
私の答えにアルドリックは満足げに笑った後、少し真剣な顔に戻って再び私に尋ねた。
「それで、ヴァレーリア。何があったのか聞いても構わないか?」
「ありがとうございます。そう面白い話でもないのだけれど……」
そう前置いてから、私はぽつぽつと話し始めた。
お兄様とお母様のお葬式がある事、これまで忙しさを言い訳にお兄様の死と向き合ってこなかった事、いざ手紙を書くとなるとなんて書けばいいのかまるで分からない事、手紙を書き始めてから毎日まともに眠れていない事、私の事を嫌っていたお母様になんて送ればいいか分からなかった事、お兄様にはなんて送れば正しいのか分からなくなってしまった事など、時間をかけて、少しまごつきながらも話した。
ゆっくりと急かさず相槌を打ちながら真剣に聞いてくれるアルドリックに、つい話過ぎた気もするが、話していると少し気が楽になった。
「――それで、お父様からもお母様からも望まれていたお兄様の代わりに私が犠牲になっていた方が良かったんじゃないかって思ったら、何も書けなくなってしまって……」
「ヴァレーリア……」
私が一人で悩み続けていた多くを告白すると、アルドリックは酷く辛そうな顔をした。
思いの外聞き上手だったアルドリックについつい話過ぎてしまったかも知れない。 そのような表情をさせたかったわけでは無いのだ。
「けれど、これまで一年間逃げ続けて来たせいだから、結局は私の責任ね」
私がそういって少し自嘲気味に微笑むと、こちらを痛ましげに見ていたアルドリックは溜息を吐いた。
「そうか、ヴァレーリアはいつも笑顔でいるように思っていたのだが、感情を押し殺す事に長けていただけだったのだな」
「アルドリック?」
いつになく真剣な顔をしたアルドリックは私の目を見て、ゆっくりと言い聞かせるように話し始めた。
「私は王子として感情を出し過ぎると言われるほどだが、ヴァレーリアは感情を押し殺し過ぎる。悲しい時、辛い時には泣いても良いのだ、ヴァレーリア」
王子の金色の月のような目が私の心を見透かすような落ち着いた眼差しを向けてくる。少し息が詰まるような真剣さに驚いてしまった私に、より一層優しい声でアルドリックは続けた。
「感情を開けたままでは愚か者と言われるが、蓋をしたままではいずれ感情が腐り果ててしまう、感情に蓋をしたままに自分と向き合うも何もないだろう? だから泣け、私が許そう」
少し王子らしくない言葉は、もしかしたら誰かからの受け売りだったのかもしれない。
しかし王子の優し気な許すという言葉に、精神がぐらついて決壊寸前だった私の涙腺は容易く崩壊した。
そして泣き始めてからようやく、あぁそうか私はお兄様を悼んで思い切り泣きたかったんだと気付かされた。
思えば立木英理として泣いたり、死を悲しんで泣いたことはあったが、お兄様を思い遣って泣いたことは無かったのだ。
一度流れ出始めてしまった涙は直ぐに量を増し、私はみっともなく嗚咽交じりに泣いた。
ぼろぼろと涙を流し始める私にアルドリックは驚いたような表情を見せたが、直後何を思ったのか私を抱きしめて来た。ぎゅっと優しく胸に当てられ、私は激しく動揺した。
まだ少年とは言っても今は一歳違いの男の子で、しかもただの少年ではなく美少年なのだ。私は突然の事に頭が真っ白になった。
「あ、あの、アルドリック?」
「女性が泣いている時には胸で泣かせるようにするものだと母上から教わったのだ」
自慢げにそう言ったアルドリックに一瞬あっけにとられた後、笑みを溢してしまう。それを言わなければきっと完璧だったのに、アルドリックらしいなとも思って安心した。
抱きしめられている身体は暖かく、少し早いリズムで聞こえる心音は心地よくて、私は少し眠くなってきてしまっていた。
そんな中アルドリックが穏やかに口を開いた、少し上と胸の両方からゆっくりと響く優しい声だ。
「ヴァレーリア、其方は先ほど兄君の代わりに犠牲になっていればなどと言っていたが、そんな恐ろしい事はどうかもう言わないでくれ。私はヴァレーリアがいなければきっとまだ何も知らずに操られるままの王子であったし、私には、これからもヴァレーリアが必要なのだ」
私の居場所を与えるような言葉を聞いて安心してしまったからなのか、そのまま私は緩やかに意識を手放した。
4日連続で寝てないみたいな状況じゃなければいくら諭されてもこの時のヴァレーリアは人前で泣いたりしなかったと思います。