更なるリラックスタイムの為に
アルドリック様に先触れを送ってもらう約束をした私は、またすぐに来るのではないかと身構えていたが、次に王子が来たのは半月ほど経ってからだった。
それからも不定期的に来ては試験で私に負けて勉強をしていく王子だったが、徐々にレベルが上がっているような気がしている。この調子で成績があがるようなら何よりである。
季節は春の半ばとなり、私は七歳の誕生日を迎えた。
この世界では身内で少し祝う程度でプレゼントのような習慣もないが、料理が少しだけ豪華でメイド達も祝ってくれた。両親にこれといって祝って貰えた記憶も無いのでお父様と全く顔を合せなかったのは気にならなかったが、お兄様にもう祝って貰えることは無いんだなと気付いて、私は自分の部屋で少しだけ泣いた。
◇
今日はベアノンがレーヴェレンツ邸を離れているとの事で、午後の訓練はお休みとなった。
授業を入れてもよかったのだが、少しやりたいことがあって、私は一人でいくつかの袋と火を持ってお風呂に来ている。お風呂は沸かしていないが、湯船には水が張ってある。濡れるといけないので靴下だけは脱いで、準備は万端だ。
「これがフォルピッシュでしょう? これがメルジソーラ、これは……なんだっけ、フィ? ヒュ? フェ……あ、そう! フェアフュース!」
今私が持っているのは三つともハーブだ。この世界のハーブは私の全く知らない名前ばかりだが、前世でもハーブやスパイスに手を出すほど料理に詳しくはなかったのであちらにある物も混ざっているのかもしれない。
ピューズの季節が終わりかけているので、他にお風呂に入れられそうなものを探そうと思ったのだ。
本当はもう少し早く試したかったのだが、ドライハーブを作るのに思いのほか時間がかかってしまったのだ。
そう、なんとこの国にはドライハーブが存在しないのだ。
紅茶があるのだから当然あるものと思って尋ねたらまるで通じなくて非常に焦った。そしてフレッシュハーブと調味料だけで一年間毎食美味しく作れる料理人に私は改めて感謝した。
「えぇと、まずは試しに……」
私は木の盥に水を汲み、手元に浮かせていた火を水に入れた。既についている火であれば、私が消そうと思わない限り水の中でも燃やし続けることが出来る。
盥を燃やさないように考えながら、水全体に火が行き届くように広げ、苦手だがなるべく温度も上げる。
私の場合火を別で調達しないといけないが、こうすると普通にお湯を熱するよりもずっと早く温度が上げられる。
「そろそろいいかな?」
火を引き上げて中空に浮かせ、ちょっとだけ盥の中に指を入れた。
「あっつい!!」
何がそろそろだ、完全にやり過ぎだった。私の思っていた以上に火の温度が高かったのか、沸騰こそしていないものの相当熱くなっていた。私は涙目で手桶に水を汲み、熱い思いをした指を入れた。
仕切り直して、熱くなり過ぎた盥に水を足し、ちょっと熱いかもくらいの温度にすると、フェアフュースが入った袋を入れた。少し揉むとスパイシーな甘い香りがお風呂場に広がった。
十分かな、と思ったタイミングで桶にタオルを敷いた上で座り、スカートを濡れないように少し上げて足を入れてみる。要は足湯である。
お嬢様にあるまじき格好ではあるが、今ここには私しかいないので咎められることは無い。
今はまだ肌寒さが残っているのでとても気持ちが良い。今日は足湯を堪能するのと同時に、今出来ているハーブを使ってみても痛みが出たりしないかを試そうと思ったのだ。
元々食用の物しか持ってきていないので毒性は恐らく無いと思うが、ショウガのようにピリピリするものは存在するかもしれない。いきなり全身で試すのは少し怖かったのだ。
熱めのお湯が気持ちよくフェアフュースの香りもリラックス出来るものだ。イランイランに少し似ているだろうか、あれよりももう少し甘みが薄い気がするが。
気持ちよく楽しんでいたのだが、段々と香りが強すぎてクラクラして来てしまった。
「フェアフュースはもっと量が少なくても良いかも……お湯が少ないのも理由かも知れないけど」
頭の中にメモ書きしつつ、少しお湯が冷えてきたので中身を入れ替えて別のハーブを試そう、と思ったところで気付いた。火がない。集中を切らしたときに消えてしまったようだ。恐らく熱湯に指を突っ込んでしまった時だろう。
「また火を取ってこないとね……」
私は仕方がないと溜息を吐いて足を拭き、靴下を履いた。お風呂場を出て一度厨房に向かわなければならない。こういう時、火を生み出す方が使えれば便利なのにと残念に思う。
廊下に出たらまたお嬢様としての仮面を被る。礼儀作法の授業で最初にリッサに教えられたことだ、人前でみっともない姿を見せるわけにはいかない。
そういう意味で考えるとアルドリック様はあれで大丈夫なのだろうか。礼儀作法も試験の方法を考えて実施するべきかもしれない。私もアルドリック様の前でリッサにぼろぼろに言われそうで気が進まないけれど、王子には貴族的な一般常識がまるで足りていない気がする。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、すれ違う執事やメイドが皆、私とすれ違った後に振り返っている事に気付いた。何か乱れた格好をしているだろうか。濡れないように十分気を付けていたつもりだが、実は変に濡れているのかもしれない。焦った私は踵を返して自室に向かう。このまま厨房に向かうわけにはいかない。
部屋につく直前にクララを見つけた。自分では見つけにくい部分が濡れているのかも知れないしちょうどいい。
「クララ、今少しいいかしら」
私が声をかけるとビクリと震えて頷いた。若干挙動不審だが、これはクララの平常運転だ、怪しいわけではない。私は部屋までついてきて貰うとクララの前で全身を見せるようにくるりと回って尋ねた。
「クララ、私何かおかしなところあるかしら。さっきから妙に人の視線を感じるのだけれど、心当たりがなくて困っていたの。少しお湯を使っていたし、濡れているようなら着替える必要があるわ」
クララはじっと私の服や全身を見た後におどおどと口を開いた。
「濡れていたり、変なところはありません」
ほっと息を吐くが、それならどうしてやたらと注目を受けていたのだろうか。私が疑問に思うとクララが、ただ、と続けた。
「今日のお嬢様からは何か、不思議な甘い香りがします。いつもお嬢様は近づくとピューズの香りがふんわりとします。けど、今日はお嬢様が動くたびに、果物とは違う甘い香りがするので、それのせいかも知れません」
理由を聞いて納得した。
どうやら先程のちょっと濃いフェアフュース湯が私に強く香りづけしていたらしい。
「わかったわ、ありがとう。クララ」
香りについての良し悪しをクララに尋ねようかとも思ったが、それはリッサかケーテに聞いた方がいいだろう。私はクララを解放すると厨房に向かう事にした。良く無い香りならあまり行動しない方がいいが、甘い香りというのだし、厨房と往復するくらいなら大丈夫だろう。
厨房に着くと料理人達が忙しなく動き回っていた。すぐにこちらに気付いた料理長がにこやかに大きなお腹をゆさゆさ揺らしながら向かってくる。
「お嬢様、何かご用でしょうか」
「忙しい中ごめんなさいね。すこし火を頂けるかしら、さっきの火は誤って消してしまったの」
そう言うとすぐに竈に火を入れてくれた。私は十分な大きさに燃え広がるのを見てから火を操り、人に当たらないように天井近くを飛ばしながら入口まで移動させる。
料理長にお礼を言うと、そのまま厨房を後にしてお風呂へと戻ってきた。
帰りもすれ違った人に立ち止まられて気付いたが、そういえば厨房ではまるで私の香りに反応した様子がなかった。忙しくしているせいもあるのだろうが、やはり他の匂いがたくさんする中では目立たないのだろう。
それにしてもやはり毎回厨房まで行くのはとても手間だ。部屋にも暖炉があるのでそちらを燃やしてもいいのだが、私はどうにも火打石が上手く使えない。点きにくいマッチもあるにはあるが、輸入品らしく普段使いするにはあまりにも高い。
「ライターの便利さを今になって思い知ったよね……いっそライターを作って貰う、とか」
先ほどよりもずっと低い温度の火でなるべくゆっくり水を温めながら考える。
私は前世で煙草を吸っていなかったので詳しくないが、確かそんなに複雑な構造ではなかった筈だ。
小さな火打石に歯車上の打ち金をこすらせて火花を散らし、燃料に火を灯すだけだと思う。
問題は火打石がここにある点け難いものと本当に同じ品質なのか、歯車上の打ち金がここの技術で作れるのかという事だが。
「今度リッサに聞いてみましょうか」
今の私では考えても答えが出ないと断じて、いい温度になったお湯にフォルピッシュ入りの袋を入れた。
「う……これは」
フォルピッシュはメンソールを入れたラベンダーのような香りがするハーブである。
キャベツのような見た目で、中心部は匂いを消して食べ、その周りをハーブとして活用するちょっと変わった食べ物だ。
私が特に好きな香りなので期待していたのだが……
「絶対、フェアフュースと混ざってる……」
今のお風呂に高性能な換気扇なんてものはついていない、小さな空気窓が上の方にあるだけだ。加えて先ほどフェアフュースを濃く出し過ぎてから半刻も経っていないのだ、私自身に香りが付きすぎていて気付いていなかったが、まだ相当に強く残っていたようだ。
ひたすらに甘ったるさが強調された上で、オリエンタルなスパイシーさと本来爽やかなミントのような部分が見事に不協和音を奏で、私は頭痛に見舞われた。
せっかく貰った火を消し、お湯を捨てながら、屋内で強い香りがするものを連続で使ってはならないと強く強く心に戒めた。