プロローグ とある終わりのはじまり
そこはひんやりとした部屋だった。
神聖という雰囲気の、とても静かで、そしてそこは彼にとってとても優しかった。
「ねえ、本当に死んじゃうの?」
彼は優しい理由に聞いた。
優しい理由は答えた。
「悲しむ必要はないわ。私は、死ぬわけじゃないのよ」
言い聞かせるように、それでいてすべてを包み込むかのように、彼女はそう答えた。
だがそれでも彼は泣いた。まだ彼は幼い子供だった。
「死ぬわけじゃなくても、消えてしまうようなものじゃないか。消えないでよ、お願いだよ」
「……」
しばらく無言の時間が流れた。まるで時が止まったかのようだったが、幼い彼がすすり泣く音だけは、止むことなく静寂の部屋に響き続ける。
やがて、彼女は笑った。彼にとってその微笑みは聖女が優しく語りかけてくるかのような意味を持っていた。
彼にとって、彼女はすべてだったのかもしれない。
そしてそれは依存というには足りないほどの、執着といってもいいほどの感情だったのだ。
だがその存在は、いま、奪われようとしていた。
彼女の背後には光を放つ大きな水晶があったが、彼はそれを子供がするとは到底思えない程の恐ろしい表情で見た。
純粋にそれは、恨みだった。
だが、彼にはどうすることもできない。なにせ、彼はとても幼い子供なのだ。
二人の会話による音しかなかった部屋に、はっきりと聞こえる水晶の放つ光と、そしてキィンという甲高い音が流れ始めた。それはその彼にとって来てはならない時間がゆっくりと差し迫ってきていることを指している。
「大丈夫だよ。とても優しい光でしょう。私たちの希望、そして私たちの世界の……」
彼女はそこまでいってから口をつぐんだ。
子供の表情がどうしてもその光を許していなかったからだ。
どんな理由を並べても、どんな優しい言葉をかけても、彼は納得しないのだと。
彼女はそんなことにはとっくに気がついていた。そして彼女が心に気にしていることはそのことだけだった。
彼らには他に身寄りがなかった。彼らはとても孤独だった。友達さえも、近所付き合いと呼べるようなものさえもなかった。彼らはひどく避けられる存在だった。
その理由は二人の両眼にあった。
光と闇の両目。オッドアイ。
右目に光色の眼球。左目に闇色の眼球。その二つを兼ね揃えている両眼を持つものはその多くが病気であり、そしてそのほとんどが人間としての形を失っていった。そういう病気だった。災いといってもいい。
だが彼らは病気ではなかった。その姿も紛れもなく人そのものであった。
そのことが異常だったのである。彼らがひどく避けられる要因は、そこにあった。
だがどんな異常にも理由というものがある。
どうして彼らは病気にならないのか。どうして彼らは人として生きているのか。
その理由が、結果として彼らをこの神聖なる部屋に導き、そして別れさせるのだ。
一人ではなかった。
二人だった。
しかし一人になってしまう。
ここで二人は別れなくてはならない。
光輝く水晶がさらに光を強めてきた時、幼い子供は彼女の手を強く握った。どうしても別れが惜しい。だが、彼女は薄く微笑んだだけで、その子犬のような手を一度だけぎゅっと握り締め、そして手放した。
子供は慟哭する。
「やつらは取り返しのつかないことをしようとしている! 許されないよ! こんなことをなんで世界は許すっていうんだ。僕から、僕からすべてを奪うなんて!」
彼女は水晶へと体を向けて、そして歩を進める。
「どうか、許して。あなたを置いていく私を。……そして、世界を」
「ちくしょう、ちくしょう!」
「約束だよ」
「……」
彼女は水晶へとたどり着く。そして手を伸ばした。
彼女は、頭からゆっくりと、溶けていくかのように消えていく。
やがてすべてが消えた。水晶の輝きと子供だけが取り残されるかのように残った。
彼はその光景を眺めながら、いつも、その『約束だよ』という子供を言い聞かせるための謳い文句を言われたことを、一瞬、いつものように心に留めようと思った。
だがそれは間違いだとすぐに気がついた。
彼は大好物のじゃがいもをつまみ食いした時にも、うっかり家の家具を傷つけた時も、なにかひどいいたずらをした時にも、叱られた後にある約束という言葉を大切にしてきた。そして彼は約束を守ってきた。それが絆の一つだったから。
だが、彼は最後の約束を今、破ろうとしていた。
許せるものか。
彼は何度もそう呟いた。
そしてやがて静かになった部屋で、彼はまるで彼女のように微笑んだ。
「世界は壊すよ、姉さん。僕の手で、必ず、全てを恐れさせてやるんだ」
彼はゆっくりと部屋から出ると、大きく深呼吸して、部屋の外に大勢いる人間たちを高いところから見下ろした。
彼らは一様にとても明るい顔をしていた。
そして彼らは、彼にとっても見知らぬ大人たちは、次々にいった。
「これで世界は救われる。君の姉さんは、とても偉大だ」
大きな拍手が巻き起こった。
そしてやがて歓声さえも湧き、まるで先ほどの静けさが嘘のように、喧騒まみれとなった。
彼は静かに歩き始めた。まるで喧騒など気にもしないかのように。
一歩ずつ踏みしめて、拍手と歓声を背にし、その場所を出て行った。
「ちっ。俺たちをまるで無視しやがって。呪われた子の癖に、調子に乗るな」
そんなことをいう大人もいた。
どんなことがあっても、呪われた両眼を持つものは快くは思われない。
たとえ世界を救った者の弟だとしても。
彼にその言葉は届いていた。だが彼はまるでその言葉を辛いものだとは思わなかった。以前はとても辛いことだったのに、まるで言葉に色がないかのように、透明な、彼にとってまるで意味を持たない悪口だった。
彼はやがて高い崖にたどり着いた。
子供と姉が住んでいたスラム街とはうって違う機械じかけの大都市、その眺望を立ち止まって数分程眺めていた。
「さようなら、姉さん」
彼は最後の挨拶を告げると、その崖の尖端から、跳んだ。
どこまでも鳥のように飛んでいけるなら、そのまま落っこちていくこともなかっただろう。
重力に引っ張られて、彼は地面に叩きつけられる寸前、悪魔のように微笑んだ。
「世界よ。恐れおののけ、この僕に」
鮮血が舞い散る。
血が流れ出て、都市のほうへとゆっくり下っていく。
やがてその光と闇の両眼から、輝きが失われて、虚ろに空を眺めた。
世界は救われたのか。それは誰の眼にも明らかだ。世界は救われたのだ。
だが世界は知らなかった。
彼のあまりに大きな絶望と、その孤独を。
そして、その恐怖を。
大きなニュースが機械じかけの大都市に伝わり、人々は歓喜し、外に飛び出てはそのニュースを口々に語り合った。誰もが手を取り合って踊りだすのではないかという勢いさえあった。事実、夜には宴会が開かれるだろう。とても明るく楽しい、たくさんの料理と歌が飛び交う、祝いの宴だ。
祝事に踊るその世界はまだ、本当の恐怖を知らない。
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