プロローグ ―嚆矢濫觴の音―
――パリィン。割れる音がした。
瞳に映る世界が割れ、流れる時が割れ、落ちた瓶が割れた。
そして、徐々に近づいてくるバスが――。
◆
「ゲッソー、この後遊びに行かない?」
「え、……ちょっと待って」
授業中、財布を取り出し中身を確認する。しかしその中にあったのは小銭のみ。それも残り二十三円である。
(えー……)
今を駆ける女子高生にしてこの所持金。いつの間にこんなに使ったのかと、浪費癖のある自身の行動を省みる。……結論、かなり使っていた。
「あー、ごめん。お金の中、財布しか入ってない」
「なんて? ……うん、『財布の中、これしか入ってない』か。あまりの少なさにおかしくなっちゃったんだな」
せっかくのお誘いも、これでは受けること叶わず。お金を借りれば良いのでは、と思うだろうが、この年頃の女子というのは複雑で、微妙なしこりが原因で友情に亀裂が入るなぞ日常茶飯事なのである。
少なくとも今週はお金のあてが無いため、すぐに返せない。そうなると次第にかけられる圧力は大きくなり、しまいには、
「○○ちゃーん、遊びに行こー?」
「ごめーん。今日パスだわー。アイツまだ金返してくれなくてさー」
「わー最悪。普通次の日には返すよねー」
「大丈夫だよ、今日は貸してあげるから」
「ありがとう! ホントごめんね、アイツのせいで!」
と、聞こえるようにわざと大きな声で囁かれる。
ちなみに、パスと言った女子は当然のようにお金を持っている。この後は奢られることなく、対等な関係を保ったまま仲良く遊び呆けるのだ。ただ脅すためだけの、嘘。
そういった都合もあって、ここでは断るしかない。
「ホントごめんね。来週になればお金あるから、一緒に遊びに行こう?」
断れば断ったで、めんどくさいケースに発展することもある。しかし、お金の問題に比べればまだ幾分かマシ。でもやはり危険なものは危険なので、できれば避けたい行為だ。
「来週って……いやウチは構わないけど、アンタ今週どうすんの。まだ水曜だけど」
「は、はははー……」
やはり問題は自身の浪費癖。早々に直さねばと思うも、事あるごとに、どうでもいいことにお金を使ってしまう。将来が不安になってくる。
と、いうか。
(この子はそんな酷い子じゃないし、借りるくらい、断るくらいなら全然問題ないんだろうなぁ)
そう思っても、最悪を想定してしまうとどうしてもそれができない。取る必要のない安全策なのだが、それに縋ってしまうのだ。
「なんならお金貸そうか?」
「いいい、いいいいえいえいえいえ、全然、そういうの全然、良いからッ!」
「……そ、そう」
思わず全力で断ってしまった。これも良くない行為だ。まるで一緒に遊びたくない、と公言しているかのようである。ほら見ろ、ドン引きされているではないか。
なんてやり取りをしている内に、
「何が良いのか、説明してもらえますか?」
いつの間にか、二人の間に落ちていた影。ギ、ギ、ギと顔を上げるとそこには、本当にいつからいたのだろう。仁王立ちする教師の姿があった。
「げっ、なんてテンプレな……」
「あわわわわわわ」
「授業中に財布を取り出しチャラチャラ言わせていれば、そりゃあ目立つってものでしょう。ただでさえ午後の授業、みんな眠くてとても静かなのですから。それで視線を向けてみれば、何やら小声で話している。あなたたち、授業は聞いていましたか?」
「き、聞いてましたとも!?」
「そう。では質問します。神理学において用いられる『i』とは何でしょう」
「…………、……わかりません」
「はい?」
「ああああ、嘘です、嘘! ええええっと答えは……そう、『愛』です! 『愛』!」
「なるほど。まったく聞いていなかったというのがわかりました」
「そんなッ!?」
教師はため息を一つつき、その場を立ち去ろうとする。その際に振り返り、
「ちなみに、『i』が何なのかはまだわかっていません。なので授業では扱っていないということ、覚えておいてください」
「うわ、引掛けとか……」
「こんなの酷いよ……」
「下草さん、何か反論があれば聞きますが」
「反論とか滅相もない! ないですよそんなの!」
「そうですか。では授業を進めます」
そうして解放された二人だったが、よくよく見れば、教室中の生徒が机に伏しているではないか。どうして自分達だけが怒られなくてはならないのか、と疑問に思っていると、
「ちなみに、私の授業で寝るなとは言いません。それよりも小声でぴーちくぱーちく言われる方が目障り、耳障りです。授業を受けたくないと言うのであれば寝るか、端末を弄るか、とにかく静かにしていてください」
「それで良いんですか先生……」
「別に。寝ている生徒相手の授業は楽なので、むしろ推奨します」
「それで良いんですか先生!?」
◆
授業が終わり、放課後になれば教室はにわかに活気づく。やれ部活だ、やれカラオケだ、放課後という時間ほど生徒が元気な時間もない。
しかしそれは、心に余裕のある生徒に限る。
「はぁああああ~……お金、どうしよ」
お金の余裕は心の余裕と深く結びついている。財布の中が寒いと心もまた寒くなり、このままでは何もかもがダメだという強迫観念に駆られる。あればいいというものでもないが、無いよりはあった方が、当然いいに決まっている。
端的に言えば、現在の彼女の心境は、一寸先は闇とでも言うべきものである。
(もしも喉が乾いたらどうしよう? もしも間食したくなったらどうしよう? もしも四色ボールペンの赤色だけ切れて新しい四色ボールペンを買いたくなったらどうしよう? 好きなドラマのグッズを見かけて手が伸びちゃったらどうしよう? ああ、もう、どうしよう!?)
その他浮かんでくる数々の『どうしよう』。これまでに何度も所持金が少なくなったが、いつもいつもこうなってしまう。それがわかっていながら浪費癖を直せないのは、やはりそれが癖だからか。
「それじゃあゲッソー。ウチらカラオケ行ってくるけど……」
「えっ、ああ、うん! わたしのことは気にしないで、楽しんでね!」
「や、それはかえって気にしちゃうっていうか……まあ、来週はお金あるんでしょ? ならその時に」
「今度はお誘いを断るなんてこと、絶対しないから!」
「あはは……そんな力いっぱい言わなくても。そりゃあ一緒に遊びたいけど、だからって無理しないでね。じゃあまた明日」
「うん! また明日!」
取り繕った笑顔で見送り、姿が見えなくなった頃に再度項垂れる。
「お母さんに相談……ううん、お母さんもお金無いって言ってたしなあ。来週には返してくれるって言ってたけど、本当かな。こうなったら決死の覚悟でお父さんに……いや、うん、嫌だ。お父さんに頼るのだけは絶対に嫌だ……」
「悩み事ですか」
「ええ、まあ……うん?」
「私でよければ、相談に乗りますが」
「せせせせ先生!? あれ!? 授業終わったんじゃ!?」
「ええ、授業は終わりましたが。あなたが号令をかけたんじゃありませんか、今さっきのことをもう忘れたのですか?」
「そうじゃなくてですね、あれ? わたしがおかしいの? なんでまだ教室にいるんですか……?」
混乱しつつの問い。またもやいつの間に傍まで来ていたのか、先程まで授業を行っていた教師は腕を組み、
「それはもちろん、この後に控えた職員会議の準備をサボるためですが」
「ええ……」
「知らないのですか? 終業のチャイムが鳴ろうと、数分程度ならば『授業が伸びた』、『資料を片付けていた』、はたまた『生徒の質問に答えていた』など、いくらでも言い訳が効くのです。だからこうして、ギリギリまで教室で時間を潰し、職員室に戻る。そうすれば不思議なことに、会議の準備は整っているのです」
「それでいいんですか、先生……」
「私のことならば構いません。それよりも、あなたです」
教師は眼鏡をくいと持ち上げ、感情が見えない無表情で続ける。
「お金が無くて困っている。それで違いありませんね?」
「え? はあ、まあ、そうですけど」
「ちなみに、お小遣い日はいつなのでしょうか」
「それは月末……でも、来週になればお母さんがお金を返してくれるので」
「ほお、母親にお金を貸していたのですか」
「たまーにあるんです。わたしがバイト始めてからは特に多くなりました……」
「ふむ。まあそれは家庭の事情。私が深く立ち入れる問題ではありませんね。……さて、そろそろ限界でしょうか。すみません、あなたの悩み、私にできることは無さそうです」
「え? あの、え?」
「言えることがあるとすれば、金銭感覚はなるべく早めに矯正するのが望ましい、ということくらいでしょうか。では、ありがとうございました。これで『生徒の相談に乗っていた』という言い訳ができます。強く生きてください、下草さん。また明日」
「ちょ、ん? あれ!? 先生!?」
言うが早し、教師はスタスタと教室を出て行ってしまった。
「も、もしかして……わたし、利用された? 先生が? 生徒を利用する? 相談に乗るっていう口実で?」
それで良いんですか、先生。
◆
その後、数人が固まって駄弁っていたり、何人かが一人で時間を潰したりしている居心地の悪い空間となった教室を出た。
(バイトまでまだ時間あるなー……でもお金無いしなー)
二十三円では暇を潰すことすらできやしない。どこか公園でブランコでも漕いでいようか。
「夕暮れの公園で一人さみしくブランコを漕ぐ女子高生。……酷い絵面だ」
悲しくなり視線を落とした。するとそこに、風で飛んできたのだろうか、何かの広告がパサ、と。
それは塾の広告のようで、
『〈神様〉について学んで、クラスのみんなより一歩リードしよう!』
なんて宗教めいたキャッチコピーと共に、モデルがアップに写っている。
――『神理学』。かつて、天才が打ち立てた常識はずれの理論を扱った学問。それはたったひとつの数式で神様の存在を証明したというもの。
凡庸な頭脳では理解不能、されど見る人が見ればわかるというソレは、いつしか高校の必修科目となり、あっという間に『神様は存在する』という常識にまで至った。
だが未だにわからないところの多い数式だ。神様は本当に存在するのか、と考える人間は一定数いるはずなのだ。だが否定派とされる人間の数は少ない。なぜか?
いない、と声を大にして叫べば、それはおまえがこの数式を理解できていないだけだ、と反論されてしまうからだ。プライドの高い人間、正面切ってバカだ、などと言われて怒らないはずがない。しかしその数式がデタラメだと証明する術もない。常識となってしまった時点で、否定派は詰んでいるのだ。
そんな経緯もあり、今では『神様なんていない』という人はほとんど見なくなった。
それでも、
「……神様なんていないよ。もしいるんだとしても、その神様はきっと意地悪だ」
ふと、目を閉じ、再度開く。そこには――、
「こんな、何の約にも立たない力を押し付けるんだから」
緑色のスライムのような奇妙な生き物が、中空に無数に浮かんでいた。
見ただけでわかるぶよぶよとした質感。その背にあたる部分からは羽根が生え、虫のようにも見える。
しかしその大きさは様々。手のひらサイズもいれば、犬や猫のような大きさ、路上を走る車のようなものもいる。外見も一様ではなく、ところどころに差異が見られる。
この異形を映す瞳は、生まれつきのものではない。後天的に、神様から授かったものだ。
……これこそが、否定派の数を劇的に減らした、大きな理由。
ポケットから取り出したのは、中に小さな紙切れの入った青い瓶だ。これが届けられた人間は、神様の祝福を授かったとして不思議な力を手にする。
例えば、異常な聴覚を手に入れたり、存在感を自在に操れたり。
誰も彼もが力を有しているわけではないが、それでも不思議な力が存在するのは確かだ。そしてそれこそが、神様は存在するという常識を生み出した最大の要因。
だが、これはなんだ。
(変な生き物を見ることができて、ついでに、)
手が生き物に触れる。するとその生き物は、質量を持ち、
(実体化させられるだけ。それだって数秒と保たないし)
しばらくぶにぶにと遊んでいたが、実体化はすぐに解ける。通行人が驚いていたが、彼らからすれば、何もない空間から奇妙な生き物が現れたという感覚だろう。
(あー、どうせならもう少しわかりやすい力が欲しかったなー)
ため息をつく。その瞬間後ろから通行人にぶつかられ、瓶を落としてしまった。
「あっ」
瓶はコロコロと転がり、車道に出てしまう。ちょうど車通りが少なかったためそれを拾いに車道に出て、
「……ん?」
車道を挟んで反対側に、先に教室を出たはずのクラスメイトたちがいた。喫茶店にでも寄っていたのだろうか。
「おーい、みんなー!」
「あれ、ゲッソー?」
腕を振り呼びかけると、ようやく気づいたようで視線をこちらに向けた。しかしその表情は怪訝なものである。何か間違えたか、それとも鬱陶しいとでも思われたか。そんな逡巡は、怒鳴り声にかき消される。
「アンタ、道路に出て何やってんの! 危ないから早く戻――」
「え?」
別に大丈夫だろう。車が走っていないことは確認したし、血相変えて怒鳴るほどのことでも。そう思っていたのに。
なぜか、不思議なことに。
「え、」
どこから現れたのだろうか。おそらく市内を循環している定期バスだろう。それがすぐそこまで迫っていた。
硬直する四肢。釘付けになる視線。唯一自由が効いた耳が拾う音。
――パリィン。割れる音がした。
瞳に映る世界が割れ、流れる時が割れ、落ちた瓶がバスに踏まれ割れた。
そして、徐々に近づいてくるバスが、今度は少女の人生を割ろうとする。
そんな時でも、彼らは瞳に映り続け、
そんな時でも、神様は助けてくれない。
だから少女は――下草助は笑った。
「やっぱり、神様は意地悪だ」