高校デビュー、失敗?
真新しい制服に腕を通してボタンを留め、首もとのリボンを綺麗に結ぶ。少し乱れてしまった髪をとかし、ブラシをドレッサーの上に置いて、最終確認をした。
肩口までのミディアムストレートヘアは、昨日とっておきのトリートメントで入念にケアし、丁寧にブロウしたおかげでツヤツヤで、天使の輪っかができている。普段あまりメイクはしないけれど、今日は特別にまつ毛にマスカラを乗せた。リップクリームを塗って少し微笑んで鏡を覗くと、そこには控えめで、いかにも女の子らしい可愛い顔をしたわたしがいた。
「よし!」
いざ、高校の入学式へ。今日からわたしの新生活が始まるのだ。
「川原瑛奈です。中学を卒業するまでは○○県に住んでいましたが、両親の都合で四月からこちらに引っ越してきました。早く高校にも、この町にも慣れたいと思っています。よろしくお願いします」
本当は生まれてから小一の途中までこの県に住んでいて、数年ぶりに帰ってきた訳なのだけれど、あえてそれは言わない。同県とは言え住んでいた所は、こことは随分離れていたし、あの頃のわたしを知っている人なんていないだろう。と言うか、いたら困る。
それはともかく、自己紹介はこれで終わり。我ながらまあまあだったんじゃないかな。転校生とまでは行かなくても、他県出身者となれば男女問わずわたしに興味津々で、こちらから動かなくてもどんどん話しかけられるに違いない。
鏡の前で何度も何度も練習した控えめな笑顔を浮かべながらそっと席に座って、後は他の人たちの自己紹介を静かに聞こう。
――としたのだが。
「かわはら……? かわはら、あきなって、お前もしかしてアキオか?」
な、何故その呼び名を……。
今のわたしがもっとも聞きたくない名前で呼ばれ、後ろを振り返るにも怖くてできなかった。
「そこ、私語はやめなさい。今は雑談の時間ではないですよ」
担任の天の声により、謎の人物にそれ以上追求される事なく自己紹介は再開されたのだが、わたしはずっと生きた心地がしなかった。
「アキオ、やっぱりお前アキオだろ! 最初わかんなかったけど、よく見ると変わってないなアキオ」
「そ、その呼び方やめてもらえませんか?」
LHRが終わり、今日は後帰るだけと言う時間になって、わたしは件の人物に絡まれてしまった。なるべく顔を俯けてやり過ごそうとしたのだが、なかなかしつこい。
「何だよ、よそよそしくないか? アキオ。それにしても久しぶりだよなー、何年ぶり? 最後は確か小一だったから……二、三、四……」
八年だ馬鹿。
指折り数えて計算している人物の、あまりの馬鹿っぷりに腹の底にふつふつと怒りが湧き、わたしはそこでやっとその顔をじっくりと見た。
背はそれ程高くない。百六十センチ弱のわたしと同じか少し高いくらいだから、男子としては低いほうだろう。凛々しい眉毛と通った鼻筋の、なかなか整った顔立ちだけれど見惚れるほどではない。
見惚れるほどではないが、どこか惹きつけられるその顔にはうっすらと見覚えがある。
「……七、八。八年だ! なっつかしいなー、俺の事覚えてるだろ?」
豪快な笑顔はまるで太陽のように輝いていて、記憶の底にある顔と合致した。
「もしかして、カイト……いえ、櫂都君ですか?」
「なんだよー、アキオ。もしかして忘れてたのか? あと、君付けきもいからやめろよ」
幼い頃は、大なり小なり誰でもそうだったと思うが、特に保育園の頃のわたしは自分が一番で、自分にできないことは何もないと考えていた。
わたしが一番可愛い、わたしが一番カッコいい、わたしが一番すごい。わたしがわたしがわたしが、と他の子よりも自己顕示欲の強い子どもだったと今では思う。
そしてカイト、上野櫂都は、保育園時代からわたしが勝手にライバル認定していた男の子だった。
顔立ちはそこそこ整っているけれど、特別格好良いかと言われればそこまでではない、運動はできるけど飛びぬけている訳でもない。評価するなら中の上。それでも櫂都の周りはいつも人でいっぱいだった。
例えば、わたしが「みんな、遊ぼう!」と声を上げても、集まるのはせいぜい二、三人。ところが、櫂都が声をかけると、十人以上、下手をすれば園児の半数位が集まる事もある。
「どうして、アキナよりカイト君のほうが人気があるの?」
そう質問して、親を困らせた事もたびたびあった。
カリスマ性、そんな言葉をたかが保育園児に上手く説明できる親がいるだろうか。わたしの親はもちろんできなかった。説明されない事に納得いく訳がなく、わたしは櫂都に無駄に挑んで無駄に惨敗した。
かけっこ、鬼ごっこ、かくれんぼその他諸々。櫂都と競い遊ぶうち、勝敗は別として、わたしの中にとある優越感が湧き上がってきた。
――女の子なのに、男の子に混じって同等に遊ぶわたしってすごくない?
虫だって蛙だって平気で触れる。秘密基地も一緒に作った。近所の庭に落ちている栗を勝手に拾って、生で食べておなかを壊したり、別の近所の飼い犬に悪戯して、それがばれていかついおじさんに追い掛け回されたり。
いつしかアキナでなくアキオと呼ばれるようになっていたけれど、馬鹿なわたしはそれを誇りに思っていて、他県に引っ越した後も自らアキオ呼びを周りに要求したほどだ。
周りから見た小さい頃のわたしは、お転婆で男勝りな女の子。あの頃のわたしは、「女の子なんだから、もっと静かに」とか、「女の子なんだからスカートはいたら?」とか言う周りの大人の言葉を毛嫌いしていた。男とか女とか、そんな邪魔くさい垣根はいらない。女の子より、男の子達とする遊びのほうが楽しいし、むしろ男になりたい、そう思っていた。
でもそういうのは、小学校中学年から高学年の自意識が高まる頃、自然と治まり、段々女の子らしくなっていくらしいのだが、わたしの場合それはほんの二年前、中学二年まで続いた。
給食のお代わり争奪戦には我先に参戦し、制服のスカートの下には常にジャージを着用、大股を広げて座り、ハンカチ、ティッシュなどは当然持たない。
極めつけは、一人称「俺」。あの頃の自分を埋めてしまいたい。
わたしの痛い過去を誰も知らない場所で、一からやり直したい。そんなささやかな願いも、思わぬ旧友との出会いで叶わぬものとなってしまったようだ。
「な、何で? 櫂都君って――」
「だから、きもいから君付け止めろって」
「……櫂都、××市に住んでたよね? 何でここにいるの?」
わたしが生まれたのは県庁所在地に次ぐ第二の都市と呼ばれる所で、そこに住んでいる者が、遠く離れたこんな辺鄙な(と言っては失礼だが)田舎町の、しかも全く有名ではないこの高校を受験するわけがない。
だから、わたしは期待感を抱きながらこの高校の入学式に臨んだのに。
「親が離婚して、母ちゃんの実家に戻ってきたんだ」
「へ、へえ。そうなんだ……」
思いもよらぬヘビーな理由を、櫂都はあっけらかんと語った。
「それより、アキオ。お前今どこに住んでんの?」
なんだか、とてつもなく嫌な予感がするのだが、周りの目もある状況で、聞かれた以上無視するわけにはいかない。
「北新田だけど……」
「マジで? 俺南新田! 近所じゃん、一緒に帰ろうぜ」
嫌だ、一緒に帰りたくない。大体わたしはアキオを封印したのに、アキオ生誕に立ち会ったと言っても過言ではない櫂都と、何故帰らなくてはいけないのか。
友達と約束があるから、は引っ越してきたばかりのわたしには無理がある。親にお遣いを頼まれて、どこ? 案内してやるよ、そんな図が想像できる。どうしよう、どう断ろう。
当然の事ながら、悩むわたしに櫂都が気付くはずもない。
「積もる話もあるしさー。アキオ憶えてる? 噂話を検証しようとして皆でミミズにし……」
「わあああ! わ、わ、分かった! よし、帰ろう! 一緒に帰ろう! 今すぐ帰ろう!」
これ以上変な話を掘り起こされない前に、わたしは櫂都の背中をぐいぐい押して教室から出る事にした。
「とりあえず、アキオって呼ばないでくれませんかね……」
家に帰る道すがら、話す事と言ったら昔の話で、当時はなたれのコウタが、入学する前から剣道部期待のエースだとか、小さな顔に大きな眼鏡の、デメキンと言うあだ名のユウイチが県内トップクラスの進学校に首席で入学したとか。櫂都は中学二年の時にこの町に越してきたらしいが、今でも彼らと連絡を取り合っているらしい。
とても懐かしく楽しい話だったのだけれど、アキオアキオと話の節目節目に連呼される事に耐え切れず、なるべく下手に出てお願いした。
「は? 何言ってんの。アキオはアキオだろ?」
ですよねー。君の空気読めない感は、始めから何となく気付いてました。
「いや、わたしももう高校生だし、いい加減アキオ呼びは恥ずかしいので」
「え、じゃあなんて呼ぶんだよ? 川原? それとも、あ、瑛奈、とか」
呼び捨て前提なのは気になるが、古い友達だしいいか。変なあだ名とか付けられなくて良かった。あの頃は、今となってはとても口に出せないようなあだ名の子とかいたし。当時のわたしは平気で呼んでいたのだけれども。
「アキオじゃなかったらどっちでもいいよ」
ふうん、と少し黙り込んだ後、櫂都はしみじみと言った。
「それにしてもお前が一番変わったよなー。なんか女みたいになってさ」
「昔から女だったんですけど……。まあでも気持ちは分かるよ。二年前のわたしが今のわたしを見たらひっくり返るんじゃないかな」
「えっ何だよ。この二年の間にアキオに一体何があったって言うんだよ!」
大げさなくらい驚く櫂都を見て、わたしは溜め息をついた。
「何そのリアクション。別に大したことじゃないし、言うと笑うから絶対に言わない」
そう言うと、櫂都はバシッと肩を叩いてきた。痛い。
「笑うわけないだろ」
「……」
中学二年生になってわたしに遅めの春が訪れた。とは言ってもただ見ているだけの恋。相手は当時の生徒会長だった。ノンフレームの眼鏡が似合うとても素敵な人で、生徒総会での生徒会に対する追求にも淡々と答える姿に、わたしはただひたすら見入るだけだった。
ただそんな素敵な人の隣には当然、それに見合う可愛い彼女の姿があって、それはもう「女の子」を体現したような人だった。
小柄で可愛らしくて守ってあげたくなるような、清潔感溢れる姿。
対する自分はどうだろう。その時になって、わたしは初めて冷静かつ客観的に己の姿を見た。
アイロンをあてた事のないブラウスはしわしわのよれよれで、スカートのプリーツは伸びまくっている。その下のジャージの中に隠された擦り傷の絶えない膝小僧。ろくに櫛を入れたことのないぼさぼさのショートヘア。伸びた爪の間には汚れが溜まっていて、清潔感の欠片もない。それに加えて「俺女」。まるで救いようがない。
猿みたい。いや、身繕いするだけ猿のほうがまだましかも。わたしは自分自身に心底失望した。
それからのわたしは、がさつさをなるべく抑え、乱暴な言葉遣いを止め、髪の毛を伸ばし、女の子らしく振舞うようにしたのだが、これまでの行いのせいか「アキオがオカマ化した!」と、周りに不気味がられるだけで、一向に女の子扱いされる事はなかった。
と言うような事を、わたしが真面目に語っている途中で、櫂都は堪え切れないといった感じで、ぶふっと噴出した。
「ちょっ、おい! お前、マジでふざけんなよ! ……っあ」
やってしまった。思わず男口調で櫂都を罵ったあと、わたしは慌てて口を閉ざすが、後の祭り。
「アキオ、三つ子の魂百までって知ってるか? 知らないんなら後で調べたほうがいいぞ」
肩を震わせながら櫂都は言う。
「う、うるさいうるさい! それからアキオって呼ばないで!」
帰宅後、櫂都の言っていたことわざの意味を調べて、わたしは臍をかんだ。
あの野郎……! いつか絶対見返してやる。
☆
「川原さんって、見た目真面目そうだし大人しいと思ってたけど、話してみると意外とノリ良いし、面白いんだよな。可愛いし、俺本気で狙っちゃおうかな」
男同士の他愛もない会話の中、そう発言した男子の肩に、ぽん、と手が置かれた。
「やめとけ。あいつ、俺のだから」
えー! マジかよ、いつの間に。と言うクラスメイトのどよめきの中、上野櫂都は不敵にニヤリと笑って見せた。
「アキオー、昨日思い出したんだけど、たしかお前保育園の頃……」
「ぎゃー! やめてやめてやめて」
川原瑛奈は、上野櫂都の口を塞ごうとするのに必死で、彼女のその耳に、お前らいちゃついてんじゃねえよー、と言う周りの声が入る余裕など、もちろんない。
瑛奈が再び客観的に己の姿を見るのは、夏も終わり、二学期が大分過ぎた文化祭。櫂都と共に、ベストカップルコンテストと言う訳の分からないコンテストに、知らないうちにエントリーされ、特別賞を受け取った時で、いつの間にかクラスのみならず、学年いや校内公認の名物カップルという、後戻りのできない状況に陥っているのであった。