声だけオンナの大暴走
二人の姿がドアの向こうに消えると、先ほどの声が背中から聞こえてきた。
「ねえ、早くこっちを向いてよ」
やれやれ、
僕は思わずためいきをついた。
ずいぶんこらえ性がない女の子らしい。だとすれば、僕の一番苦手なタイプの女性だ。
振り返ろうとしたところで、僕は迷った。
最初で、このことを告げた方がいいのかもしれない。でもそうすると、いきなり彼女を傷つけてしまう。
僕の気持ちは十秒ほどで決まった。
流れに任せることにした僕は、部屋の中を見回しながら言った。
「どこに隠れているの?」
返事はすぐ来た。でもなぜか、足もとからだった。
「隠れてなんかいないわよ。ここよ、ここ」
僕は床に目を凝らした。
「まさか、透明人間じゃないよね」
冗談ではなく、ほんとうにそう思った。
「そんなわけないでしょ」
今度は、部屋全体から聞こえた。
僕はあわてて顔を上げて、あたりをきょろきよろ見回した。
「首の運動?」
明らかに笑いを含んだ声。
むかっときた。
ここまでおいでと言われたような気がした。
相手から僕は丸見えらしい。ということは、この部屋のどこかに隠しカメラがある。モニター画面を見ているのだ。
だったら、隠れている本人を見つけ出してやる。
一番怪しいのはエレベーター。
そっと近づいて開けた。
空っぽだった。
「そんなところにいるわけないでしょう」
はしゃいだような声は右側の壁。
ばかにしやがって。
僕は壁を睨んだ。しかし、いくら目を凝らしても、その辺りに、いや、部屋のどこにも人の気配はなかった。
それならこっちにも考えがある。
僕は椅子に腰掛けて目を閉じた。そして大きな深呼吸を繰り返した。気持ちを落ちつかせて、どこから声が聞こえてくるのか突き止めてやろうと思ったからだ。
「一方的にからかうのは反則なんじゃないの。そろそろ、顔を出してもいいんじゃないかな」
ゆっくりした口調で言って、耳を澄ます。
「だから、ここにいるって言っているでしょ」
おもしろがっている声は、左後方から。
理由は分からない。でも僕をからかっているのは明らか。
ふーっ、
僕は胸の中に溜まっていた息を吐きだした。
僕は我慢強い方だと思う。でも、同じことをくどくど言われ続けると、相手が誰であれ、ぷつんと切れることがある。
そんなとき僕は怒鳴り声は立てない。低い声で、結論だけを言う。
「もう、帰る」
僕は目を開けて、さっと立ち上がった。
「急用?」
相変わらずのからかい口調は、右前方から。
僕は視線を動かさずに適当な返事をした。
「レンタルDVDを返しにいかなきゃならないんだ」
「どんなのを借りたの。AV?」
堪忍袋の緒が切れた。
「もういい」
僕は拳を握りしめた。
「ねえ、こんなことわざを知っている?」
今度はすぐ後ろからだった。僕の苛立ちを感じとったのか、少し落ちついた声だった。 どんな女の子なのかしらないが、こんどこそ、捕まえてやる。
僕はタイミングを見計らって振り向いた。
誰もいなかった。
声だけが聞こえてきた。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
目の前三十センチくらいの空間からだった。
近くで聞く声は、とても透きとおっていた。明るいというより、無邪気。暖かい日差しの中で、はしゃぎまわる可憐な女の子。そんな感じ。
僕の気持ちが切り替わった。
彼女に悪気はない。からかっているわけでもない。天真爛漫な性格なのだ。もしかすると、お婆さんの血筋を引いているのかもしれない。
だとすれば、とことん相手をしてやろう。そのうち自分から姿を現すはず。
僕は少し軽めの声で言った。
「つまり、君の声があっちこっちから聞こえるのは、科学的根拠にもとづいているってことなんだね」
「そのとおり」
音声が空中から聞こえてくるのも、業務秘密なのだろうか。だったら、それを突き止めてやる。
僕はそれまで考えていたことを口にした。
「部屋中に平面スピーカーが取り付けてあると思うんだけど、どう?」
「違う」
「じゃあ、指向性の強い超小型スピーカーかな」
「それも違う」
二つを否定されると、もう何も思い浮かばない。だが、ここで黙り込むと相手の反撃が始まる。
その前にこっちから攻めてやろう。相手がぽろりと秘密を漏らすかもしれない。そこにつけ込んで、つまらない問答を終わらせてやる。
僕はわざと大きなため息をついてから言った。
「こんなことわざを知っている?」
「どんな?」
僕は頭に浮かんだでたらめな造語を口にした。
「卑怯者、姿を隠す卑怯者、どこにいるのか卑怯者」
しばらく間があって答が返ってきた。
「私、卑怯者じゃないと思うけどな」
ひょっとすると、口を尖らせて言ったのかもしれない。言葉の中に反省の色が見えたような気がした。案外素直で可愛い女の子なのかもしれない。
「だったら、ほんのちょっとでいいから、顔を見せてよ」
「どうして、ほんのちょっとなの?」
「百聞は一見にしかず、って言うだろう。可愛い声のイメージと、顔が一致するかどうか見て見たいんだよ。一秒もあれば、充分なんだけどな」
「いやです、駄目です。お断り」
友人を通じて強い個性をもった女の子を何人か見てきた。
じゃじゃ馬、わがまま、自分勝手。
たぶんこの、声だけオンナも、その範疇に入るのだろう。そのような性格の女の子に、逆らうのは禁物だと、友人は言っていた。
「だったら無理しなくてもいいんだよ。僕が諦めれば、それで済むわけだからね」
のんびりとした口調で言うと、どこかで、吐息のような声が聞こえた。
軟化の兆しだとすれば、ありがたい。
だが期待は裏切られた。ヒステリックな声が返ってきた。
「今さら諦めるなんて、ばかなことを言わないでよ。迎えに来るって言ったから、今まで待っていたのよ」
僕はその言葉を頭の中で繰り返した。
言葉としての意味はわかった。でも、なぜ彼女がそんなことを、僕に対して言ったのかは分からなかった。
自慢じゃないが、僕は女の子と本格的に付き合ったことがない。デートの約束さえしたことがない。
どうやら彼女は、大きな勘違いをしているようだ。
僕は諭すように言った。
「他の誰かと間違えているんじゃないのかな」
「間違ってなんかいないわ」
「でもね、僕の方には、そんな記憶はないんだ。ざんねんながらね」
「最初からだますつもりだったのね」
鼓膜に突き刺さるような声。冗談にしては気迫がこもりすぎていた。
だが僕には覚えがない。ここで怯むわけにはいかない。
身に覚えのないことを言われたら、警察に訴えるか、こう言うしかないだろう。
「証拠があるのなら見せてよ」
「証拠?」
案の定彼女は言葉を詰まらせた。
僕はしばらくしてから助け船を出すことにした。これで彼女も自分の勘違いに気づいてくれるだろう。
「君が誰かさんと約束した時の録音とか、誓約書とか、そういったものだよ。そのときのやりとりを見ていた人の証言でもいいらしいよ」
「あるはずないでしょ。どうしてそんなものが必要なの? 私とあなたの間に」
急に金属音になった。声が大き過ぎてスピーカーがひずんでしまったのだろう。
何だか体の力が抜けたような気がしてきた。
軽い言葉遊びのつもりだったのに、たちの悪い酔っ払いに絡まれているような気分。
彼女の目的はどこにあるのだろう。
思いついたのはひとつだけだった。でもたぶんこれだろう。
僕を怒らせて、性格の奥底に潜むものを覗こうという魂胆なのだ。
だが、ここが初対面のかなしさ。彼女は僕の性格を知らない。
僕は人を試すような人間は信用しない。そんな人間とは付き合わない。
しかし、かたちはどうであれ、これは、僕にとって初めてのお見合いなのだ。僕としては最後までしっかり見届けたかった。
でも、それを一方的に壊されてしまった。残念だが、変則式見合いはここで打ち切ろう。
結論が出た。
断りの知らせは、早いほうがいい。相手に与えるダメージが少なくなる。
僕はトラックの後ろで、集荷係と立ち話をしているお婆さんに手を振った。
「すみません。ちょっとお話があるんですが…」