汎用性の高い言葉
僕としては、冗談を交えて言ったつもりだった。
だが、とつぜんPの表情が固まった。
でも僕は別にあわてなかった。こういうことは、たまにある。
反射的に部屋の中を見回した。
Pは物事に動じないタイプの人間なのだが、あることに対しては、それは当てはまらない。
彼と仲良くなったきっかけは、ゴキブリ。
入学式のその日、彼の部屋の天井に張り付いていたゴキブリを、僕が退治してやったのだ。彼は、今でも茶色いかたまりを見ただけで、体をビクンと震わせる。
男子寮は八畳のワンルーム。僕は部屋の中にものを置かない主義。
部屋の真ん中に、背の低いテーブルと、座椅子が二脚。壁際にテレビ。ノートパソコンとウォークマンは、ベッド横のテーブルの上。
ついでに、天井と壁にも視線を走らせた。
もしいたら、スリッパでひっぱたいてやろうと身構えていたのだが、幸いに、ゴキブリはいなかった。たぶん、Pには何かが、ゴキブリに見えたのだろう。
Pに視線を戻した僕は、皮肉を込めて言った。
「どこにも、いないぞ、お前の大好物は」
いつもなら、Pはそこで安堵の笑みを浮かべる。
だが、呆然とした表情のままだった。
僕は彼の肩をポンと叩いた。
「いったい、どうしたんだよ」
Pは我に返ったように、二度、三度と瞬きをくりかえした。そして、信じられないものを見たような顔で言った。
「お前は、俺の心の中が読めるのか?」
予想もしていない言葉。
これまでPが、そんなことを言ったことはなかった。もちろん、僕には、人の心を読む能力なんてものはない。読もうと思ったことさえない。
「まさかだろう」僕は彼をじっと見て言った。「どうして、そう思うんだ」
「だってさ」Pは少し照れたような表情を浮かべた。「今、お前、マドンナって言ったよな」
マドンナ?
僕は、そのことについて少し考えてみた。
確かに言った。でも、脳サーチのほうに重きを置いて言った。しかし彼には、マドンナのほうが耳に残ったらしい。
「ああ、言ったよ。でも、それがどうしたって言うんだ」
Pは頭の後ろを指で掻いた。
「俺、ひと言も、マドンナのことは言っていないぞ」
僕はそこで、わざと間を置いてから、思ったことをそのまま口にした。
「お前のこと、バカだと言っていいか?」
Pは怪訝そうな表情を浮かべた。そして、わけがわからないというような顔をして、
「ああ、いいよ。お前だったら許す」
と言った。
どうやら彼の記憶の中から、おさらいのコピー用紙の中身がすっぽり抜け落ちているらしい。
いつもの彼らしくないことに気づいた僕は、バカという代わりに、コピー用紙を彼の目の前でひらひらさせた。
「これを印刷したのは誰? キーボードを叩いたのは誰なんだよ」
Pはしばらくしてから、小さな声で言った。
「俺だけど……」
彼の目は、どこか虚ろだった。
僕は、男女の機微に疎い。その時すでにPが、マドンナの虜になっていたなんて気づきもしなかった。したがって僕は、ごくまともな接し方をした。
「ほら、ここんとこ、よく見て見ろよ」
僕は、マドンナ様の大ばかやろうを、爪の先でぱちんとはじいた。
「あ」
Pは一瞬、ぽかんとした表情になった。
「ま、いいから、座れよ」
僕は座椅子を勧めた。
Pが口を開いたのは、それから三分ほどしてからだった。
彼は天井付近に目をやったまま、独り言のように言った。
「どうしたんだろうな、俺の脳は」
セリフの中に「脳」という言葉が出てきた。
でも、それは、僕が聞きたい脳サーチとは関係がなさそうだった。
もしここで、その言葉の意味を訊ねると、話の流れは、脳サーチからどんどん遠ざかって行くだろう。
でも、訊ねないわけにはいかなかった。
「お前の脳が、どうしたっていうんだ」
「あのな」
Pは僕を見た。
「どうやっても、あいつの顔が浮かんでくるんだ。目を開けても、つぶっても同じなんだ」
考えてみれば、Pのペンギン発言から約八時間、Pとマドンナは、互いに反目し続けた。
二人は、まったく逆の立場で、やりあっていた。
Pが、右と言えば、マドンナは左。マドンナが上と言えば、Pは下。
「ここはビルからの俯瞰で、決まりよ」
「いや、ローアングルだろう。カメラを地面に置けば空まで映る。ワンカットで、その日の天気まで映せるじゃないか」
「レンズは広角。被写体に思い切り近づくの。そうすれば、主役の息づかいも捉えることができるわ」
「ここで望遠を使わなければ、どこで使うんだ。背景をぼかして、主役だけを浮かび上がらせる。常識中の常識だぞ」
「常識を打ち破る影像を撮るのが、私たちの目指すところよ」
「それには、きちんと基本を学ぶところから始めなきゃだめだろう。オリジナルを出すのは、もっと後の話だよ、ばか」
「ばかとは、何よ」
「じゃあ、言い直すよ。このアホ」
確かにあれだけやり合えば、にくい相手の顔が、脳裏に刻み込まれていてもおかしくない。
僕はテーブルのコーラを、あごでしゃくった。
「ま、腹も立つだろうけど、それでも飲んで、気を落ちつかせろよ」
僕はPの網膜の裏だか、脳裏のどこかに、映っているのは、眉を吊り上げて彼を睨んでいるマドンナの顔だろうと思っていた。
だが、そうではなかった。
Pは、とろけたような表情を浮かべながら言った。
「どうして、こんな優しい顔で俺を見つめてくれるんだろう。まるで、観音菩薩様を拝んでいるみたいだよ」
結局彼は、それから数時間、マドンナに関することばかりしゃべり続けた。
彼女に睨みつけられた瞬間、胸の中に湧き上がったゾクゾクとした奇妙な快感。
帰りの電車の中で、彼女の尖った声が鼓膜の中で鳴り響いていたこと。
怒りのこもった声ほど、彼の胸の快感が増すことなど。
「ところで、さあ」
午前三時が過ぎたころ、僕は彼の話を強引に遮った。
「脳サーチの話は、いつ出てくるんだ」
そこでやっと彼は、今夜の目的が何であったか思い出したようだ。
「ああ、あれな」
Pは眠たそうな目を僕に向けた。
「気合いを入れても、だめなこともあれば、だらだらやったのに、うまくいくこともあるだろう」
僕の質問に対する答ではなさそうだった。彼の頭の中にあるのは、マドンナだけらしい。
「それと、脳サーチがどんな関係があるんだ」
言葉と一緒に、僕はP目がけて、柿の種を一粒放り投げた。
右手でなんなく受け止めたPは、それを口の中に入れた。
ぽりぽりぽり。
物音一つ聞こえてこない部屋の中で、軽快な音が響いた。
「それが大ありなんだ」
Pは、長いあくびをしてから、汎用性の高い言葉を授けてくれた。
「何ごともやってみなけりゃ、分からないってことだよ」