表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/107

汎用性の高い言葉

 僕としては、冗談を交えて言ったつもりだった。

 だが、とつぜんPの表情が固まった。

 でも僕は別にあわてなかった。こういうことは、たまにある。

 反射的に部屋の中を見回した。

 Pは物事に動じないタイプの人間なのだが、あることに対しては、それは当てはまらない。

 彼と仲良くなったきっかけは、ゴキブリ。

 入学式のその日、彼の部屋の天井に張り付いていたゴキブリを、僕が退治してやったのだ。彼は、今でも茶色いかたまりを見ただけで、体をビクンと震わせる。

 男子寮は八畳のワンルーム。僕は部屋の中にものを置かない主義。

 部屋の真ん中に、背の低いテーブルと、座椅子が二脚。壁際にテレビ。ノートパソコンとウォークマンは、ベッド横のテーブルの上。

 ついでに、天井と壁にも視線を走らせた。

 もしいたら、スリッパでひっぱたいてやろうと身構えていたのだが、幸いに、ゴキブリはいなかった。たぶん、Pには何かが、ゴキブリに見えたのだろう。

 Pに視線を戻した僕は、皮肉を込めて言った。

「どこにも、いないぞ、お前の大好物は」

 いつもなら、Pはそこで安堵の笑みを浮かべる。

 だが、呆然とした表情のままだった。

 僕は彼の肩をポンと叩いた。

「いったい、どうしたんだよ」

 Pは我に返ったように、二度、三度と瞬きをくりかえした。そして、信じられないものを見たような顔で言った。

「お前は、俺の心の中が読めるのか?」

 予想もしていない言葉。

 これまでPが、そんなことを言ったことはなかった。もちろん、僕には、人の心を読む能力なんてものはない。読もうと思ったことさえない。

「まさかだろう」僕は彼をじっと見て言った。「どうして、そう思うんだ」

「だってさ」Pは少し照れたような表情を浮かべた。「今、お前、マドンナって言ったよな」

 マドンナ?

 僕は、そのことについて少し考えてみた。

 確かに言った。でも、脳サーチのほうに重きを置いて言った。しかし彼には、マドンナのほうが耳に残ったらしい。

「ああ、言ったよ。でも、それがどうしたって言うんだ」

 Pは頭の後ろを指で掻いた。

「俺、ひと言も、マドンナのことは言っていないぞ」

 僕はそこで、わざと間を置いてから、思ったことをそのまま口にした。

「お前のこと、バカだと言っていいか?」

 Pは怪訝そうな表情を浮かべた。そして、わけがわからないというような顔をして、

「ああ、いいよ。お前だったら許す」

 と言った。

 どうやら彼の記憶の中から、おさらいのコピー用紙の中身がすっぽり抜け落ちているらしい。

 いつもの彼らしくないことに気づいた僕は、バカという代わりに、コピー用紙を彼の目の前でひらひらさせた。

「これを印刷したのは誰? キーボードを叩いたのは誰なんだよ」

 Pはしばらくしてから、小さな声で言った。

「俺だけど……」

 彼の目は、どこか虚ろだった。

 僕は、男女の機微に疎い。その時すでにPが、マドンナの虜になっていたなんて気づきもしなかった。したがって僕は、ごくまともな接し方をした。

「ほら、ここんとこ、よく見て見ろよ」

 僕は、マドンナ様の大ばかやろうを、爪の先でぱちんとはじいた。

「あ」

 Pは一瞬、ぽかんとした表情になった。

「ま、いいから、座れよ」

 僕は座椅子を勧めた。

 Pが口を開いたのは、それから三分ほどしてからだった。

 彼は天井付近に目をやったまま、独り言のように言った。

「どうしたんだろうな、俺の脳は」

 セリフの中に「脳」という言葉が出てきた。

 でも、それは、僕が聞きたい脳サーチとは関係がなさそうだった。

 もしここで、その言葉の意味を訊ねると、話の流れは、脳サーチからどんどん遠ざかって行くだろう。

 でも、訊ねないわけにはいかなかった。

「お前の脳が、どうしたっていうんだ」

「あのな」

 Pは僕を見た。

「どうやっても、あいつの顔が浮かんでくるんだ。目を開けても、つぶっても同じなんだ」

 考えてみれば、Pのペンギン発言から約八時間、Pとマドンナは、互いに反目し続けた。

 二人は、まったく逆の立場で、やりあっていた。

 Pが、右と言えば、マドンナは左。マドンナが上と言えば、Pは下。

「ここはビルからの俯瞰で、決まりよ」

「いや、ローアングルだろう。カメラを地面に置けば空まで映る。ワンカットで、その日の天気まで映せるじゃないか」

「レンズは広角。被写体に思い切り近づくの。そうすれば、主役の息づかいも捉えることができるわ」

「ここで望遠を使わなければ、どこで使うんだ。背景をぼかして、主役だけを浮かび上がらせる。常識中の常識だぞ」

「常識を打ち破る影像を撮るのが、私たちの目指すところよ」

「それには、きちんと基本を学ぶところから始めなきゃだめだろう。オリジナルを出すのは、もっと後の話だよ、ばか」

「ばかとは、何よ」

「じゃあ、言い直すよ。このアホ」

 確かにあれだけやり合えば、にくい相手の顔が、脳裏に刻み込まれていてもおかしくない。

 僕はテーブルのコーラを、あごでしゃくった。

「ま、腹も立つだろうけど、それでも飲んで、気を落ちつかせろよ」

 僕はPの網膜の裏だか、脳裏のどこかに、映っているのは、眉を吊り上げて彼を睨んでいるマドンナの顔だろうと思っていた。

 だが、そうではなかった。

 Pは、とろけたような表情を浮かべながら言った。

「どうして、こんな優しい顔で俺を見つめてくれるんだろう。まるで、観音菩薩様を拝んでいるみたいだよ」

 結局彼は、それから数時間、マドンナに関することばかりしゃべり続けた。

 彼女に睨みつけられた瞬間、胸の中に湧き上がったゾクゾクとした奇妙な快感。

 帰りの電車の中で、彼女の尖った声が鼓膜の中で鳴り響いていたこと。 

 怒りのこもった声ほど、彼の胸の快感が増すことなど。

「ところで、さあ」

 午前三時が過ぎたころ、僕は彼の話を強引に遮った。

「脳サーチの話は、いつ出てくるんだ」

 そこでやっと彼は、今夜の目的が何であったか思い出したようだ。

「ああ、あれな」

 Pは眠たそうな目を僕に向けた。

「気合いを入れても、だめなこともあれば、だらだらやったのに、うまくいくこともあるだろう」

 僕の質問に対する答ではなさそうだった。彼の頭の中にあるのは、マドンナだけらしい。

「それと、脳サーチがどんな関係があるんだ」

 言葉と一緒に、僕はP目がけて、柿の種を一粒放り投げた。

 右手でなんなく受け止めたPは、それを口の中に入れた。

 ぽりぽりぽり。

 物音一つ聞こえてこない部屋の中で、軽快な音が響いた。

「それが大ありなんだ」

 Pは、長いあくびをしてから、汎用性の高い言葉を授けてくれた。

「何ごともやってみなけりゃ、分からないってことだよ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ