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三つの脳サーチ

「マドンナ方式」は、ど忘れに気づいた時点で、頭の中に「あいうえお」の「あ」の字を思い浮かべる。

 そして心の中で、つぶやく。

 あなたの名前の最初の文字は「あ」ですよね。

(ちなみに、対象物が何であれ、セリフはまったく同じ)

 何も起こらなかった場合は「い」「う」「え」「お」「か」「き」「く」「け」「こ」と、一文字ずつ、脳裏に思い浮かべる。

「を」まで言って、何ごとも起きなかった場合は「あかさたなはまやらわ」から「おこそとのほむよろを」そして濁音の「がぎぐげご」から半濁音の「ぱぴぷぺぽ」まで続ける。

 それでも思い出せないときは、「あ」に戻って、何度でも繰り返す。


「ミスダツ方式」は、すこし複雑になる。

 ひらがな、濁音、半濁音のすべてを、自分で書かなければならない。

 そして、それを目で追いながら、一文字ごとに「あなたの名前の最初の文字は○ですよね」と言う。


「後は頼むよ、丸投げ方式」は、ミスダツ方式を、進化させたもの。しかし、いきなり、丸投げはできない。ひらがなを書くところから始めなければ、先に進めない。


 右の三つは、ミスダツが脳サーチの話を持ち出した日の夜、Pに教わったものだ。

 僕は、教えてもらったことは、すぐ実行するようにしている。

 しかし、その日僕は、それを試さなかった。でも、効果を信じなかったからではない。そのとき、思い出したいものが何もなかったからだ。

 そんなわけで、僕が選んだのは「後は頼むよ、丸投げ方式」

 Pのお勧めだったし、ネーミングが気に入ったからだ。

 僕は小さいころから、字が下手、というより物凄くきたなかった。

「字がきたないと、あとで苦労するから、今のうちに書道かペン習字を習っておいたほうがいいわよ。月謝は心配いらないから」

 小学生のころ、母親に何度も言われた。

 でも僕は、いつも同じようなセリフで逃げた。

「今は、パソコンの時代なんだよ。キーボードで入力する方がずっと速いんだ。プリンターで打ち出した紙に、サインすれば良いわけだしね。外国ではそれが普通らしいよ。それに、きたない文字の方が、個性的だと言われるようになるかもしれないし」

 高校に入ったころから、字を書いた記憶がない。

 ひょっとすると、自分が知らない間に、手の細胞組織が変わっているかもしれない。きれいな文字を書けるようになっていたらどうしよう。

 淡い期待を胸に、ボールペンを走らせた。

 あいうえおの五文字で、ため息がもれた。

 ミミズが這ったような字は、より進化し、一段と読みづらい文字になっていた。

 もし神様が現れて「お前の望みを、十個叶えてやろう」と言ったとしたら、僕は八番目か九番目に「きれいな字が書けるようにしてください」と言うだろう。


 僕は、ベッドの縁に腰を下ろした。そして、ノートパソコンを見ながら誓った。

「これから、君のコードネームを思い出す作業に入るよ。しばらく時間がかかるかもしれないけど、必ず思い出してみせるからね」

 僕は、テレビの前のソファーに腰掛けた。そしてコピー用紙に書いた字を見ながら、はっきりした声で言った。

「あのノートパソコンのコードネームの最初の文字は「あ」ですよね」

 言ったとたん、もう、やめようと思った。

 ミスダツ方式と、後は頼むよ、丸投げ方式では、脳からの反応を待つために、十秒以上息を止める。

 次の文字を言う場合は、必ず「ありがとうございました。次に進ませてもらいます」と言わなければならないという、ばかばかしい決まりがあるのだ。

 これは、どこからどうみても、大人のやることではない。

 と思いつつも、迷った。

 だって、今、ノートパソコンに誓ったばかりだったからだ。

 僕は、ペットボトルに残っていた水をグラスについだ。

 生ぬるくなっていたが、飲んでみると、美味しかった。なぜか心が落ち着いてきた。 

 空になったボトルをぼんやり眺めていると、コンビニのあの子の面影が浮かんで来た。

 考えてみると、僕はあの子の名前も知らない。

 ごめんね。

 僕は心の中で、コンビニのあの子に謝った。

 これから思い出そうとしているのは、君の名前じゃないんだ。

 台所に行った僕は、空になったボトルに水道水を詰めて、冷蔵庫に入れた。

 ソファに戻る前に、流しの窓の隙間から外を覗いた。

 一年を通じて隣のマンションの壁しか見えないわけだが、太陽の照り返しのせいなのか、いつもより世の中が明るく見えた。


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