嗅覚&九画
それから一分ほどして「あ、分かった」と誰かがつぶやいた。
「ハイ、君」
ミスダツは即座に指名した。
静かに椅子を引いて立ち上がったのは、さきほどマドンナと一緒に初恋の歌詞を読み上げた女子生徒だった。
みんなの注目の中、彼女はゆっくりと口を開いた。
「具です」
それだけ言うと、静かに腰を下ろした。
とても短い言葉だった。でも僕には、それで十分だった。
その言葉で僕は、東京に出てきた次の日、中華料理店で餃子を頼んだときのことを思いだした。
楕円形の皿に六個並んでいた。姿形も、焼き具合も、母のものとほとんど変わらなかった。でも、味は、全然違っていた。
あ、なるほど、そうか。
他の生徒たちも、納得したような表情を浮かべていた。
「なんだ、相違点て、そんなことだったのか」と、口にする生徒もいた。
しかし、ミスダツだけが、彼女の言葉の意味が分からないというように、眉間にしわを寄せていた。
だが、彼に注意を払う生徒は誰もいなかった。彼の授業を一度でも受けたことがあれば、それが芝居だということぐらいは分かるからだ。
「具? そうかな?」
ミスダツは、いつものように、疑問符付きで言った。
その問いかけは、君の答は間違っていないよ、というお墨付きをもらったようなものだ。
「はい、間違いありません。中身が違います」
彼女が、腰掛けたまま笑顔で答えると、ミスダツは大げさに首を傾げて「ほんとかな?」と言ってから、机の上の餃子に語りかけるように言った。
「どうして分かるんだろうね。中身は見えないのに」
「あのですね」
と言ったところで、彼女はクスッと笑った。そして少し胸を張るような姿勢で言った。「匂いです」
「匂い?」
またもミスダツは、額にしわを寄せた。しかし、今度は芝居ではなさそうだった。ミスダツは、確認するように同じ質問を繰り返した。
「匂い、ってなんだ」
彼女は、はっきりとした口調で答えた。
「我が家の餃子にはニンニクをたっぷり入れます。でも、その餃子に、ニンニクは入っていません」
何人かの生徒が、空気を嗅ぐような仕種をした。僕のその仲間に入ろうと思ったが、やめた。ゼロは、ゼロ。匂わない匂いを嗅げるはずがない。
ミスダツは机の餃子に、鼻を近づけた。
「確かにニンニクの匂いはしないな」
黙って二人のやりとりを眺めていたマドンナが、クスクス笑いながら言った。
「この子の嗅覚はすごいんです。私いつも言うんですよ。あなたはカメラマンよりも、アロマセラピストを目指すべきだって」
「嗅覚かあ」
つぶやくように言ったミスダツが、
「そういえば昔、料理は味覚だけでなく、嗅覚も必要だという話を聞いたことがあったな」
とつづけたところで、何か思い出したように、言葉を切った。そして、しばらくしてから、急に声を大きくして言った、
「そうだ、嗅覚で思い出したぞ」
当然みんなの視線は、彼に集まった。
「ひとり一個でいい。思いついた順に言ってくれ」
そこでミスダツは、にやりと笑った。
匂いに特徴のある食材に関する質問を予想した。
だが、ミスダツが出した問題は、嗅覚ではなく、九画だった。
「九画の漢字にどんなのがある?」
教室に漂っていた空気が、急にだらけたものになった。
ばかじゃないだろうかと思った。
どうしてこんなに盛り上がっているときに、ダジャレにもならないつまらないことを言い出したんだ。自分で自分の話の腰を折ってどうするんだ、ミスダツさんよ。
腹立ちに似たものまで感じた。
と、ひとりの生徒がすっくと立ち上がった。
脚本家志望だった。
硬い表情を浮かべていた。
きっと、代表してミスダツに文句を付ける気だな。そう思った。
だが、彼の口から出たのは、僕の意見とは真逆の言葉だった。
彼は深々と頭を下げてから言った。
「ありがとうございます。先生、今の言葉で、すべてが分かりました」