奇妙なお婆さん登場
本当にこんな山の中に、パソコンショップがあるの?
半信半疑で山道を走っていると、彼女が言ったとおり、イノシシに注意と書いた立て看板のある十字路が現れた。
一旦停止したところで、僕は肝心なことを聞き漏らしたことに気づいた。
ここを右折だったっけ、左折だったっけ。
彼女の顔に見とれながら道順を聞いていたせいだ。
でも、そのあとの言葉を思い出した。パソコンショップは交差点から二分ほど走ると見えてくると言っていた。三分走って、何もなかったら引き返せばいい。
僕は左折を選んだ。
しばらくすると、杉林の向こうに建物が見えてきた。
道を間違えたと思った。
二軒並んで建っていたのは、時代劇に出てきそうな藁葺き家だったからだ。
スピードを緩めて、引き返そうとしたとき、左側の家の引き戸がするすると開いて、一人の女性が出てきた。
大きめのサングラス。赤いブルゾン。腰に巻いたウエストポーチ。
こっちにむかってやってくる。
この状態で、何も言わずにUターンすると、怪しい男と誤解されそうだ。
僕はバイクを止めてヘルメットを脱いだ。そして、答の分かっている質問をすることにした。
「ちょっと、お聞きしたいことがあるんですが」
と言うと、彼女はバイクの横までやって来た。それからしばらく僕を見上げてから口を開いた。
「ごめんよ、こんな恰好で」
鼓膜を引っかくようなガラガラ声だった。でも、嫌悪感は感じなかった。どちらかと言えば、懐かしさを感じる種類の声だった。
彼女はサングラスに手をかけながら言った。
「お天道さまが、まぶし過ぎるんだよ」
サングラスの下から現れたのは、声の印象どおり、お婆さんだった。
皺の深さから判断すると、八十歳前後だろうか。若い頃、運動でもやっていたのか、姿勢はよかった。
「この辺りにパソコン専門店があると聞いたんですが、ご存じですか?」
お婆さんはにこっと笑って、藁葺き家を指差した。
「ここだよ」
たぶん僕の声が聞こえなかったのだろう。耳が遠いのかもしれない。僕はいま来た道を指差した。
「パソコンショップは、あっちの方ですよね」
「何言ってるんだい」
お婆さんは首を左右に振った。
「ここがそうだと、今言っただろう」
自信たっぷり。真面目な顔。
まさかと思いながら目をやると、藁葺き家の前に小さな立て看板が見えた。毛筆で何か書かれているようだが、遠すぎて文字までは分からない。
僕はお婆さんに視線を戻した。
嘘をついているような目ではなかった。でも、これ以上、関わらないほうがよさそうな気がした。どういう理由でそう見えるのか分からないが、お婆さんの目には、藁葺き家がパソコンショップに見えているらしい。
「待っていたんだよ。さっきから、ずっとあんたのことをね」
どうやら変なお婆さんに捕まったらしい。どうやってこの場から逃げようか、と考えていると、お婆さんは、やや不満そうな表情を浮かべた。
「あたしの言うことを、信じていないようだね」
赤子叱るな、来た道じゃ。年寄り笑うな、行く道じゃ。
時代劇のドラマの中で、そんな言葉を聞いたような気がする。このお婆さんは、子供に還っているらしい。
「信じるわけがないでしょう。さよなら」と言って、逃げ出すのは簡単だ。でも、すこし大人げない。お婆さんの心を傷つけないで、ここを立ち去る方法はないだろうか。
しばらく考えているうちに、僕の脳裏に影像が浮かんできた。
(余談になるが、僕は東京の専門学校で影像を学び、短期間だがビデオカメラマンの仕事に従事した経験がある。そのせいなのかどうかは分からないが、僕にとって、影像が脳裏に浮かんでくること自体は珍しいことではない)
そのとき浮かんできたのは、先ほどのコンビニの女の子の笑顔と、囲炉裏を囲んで食事をする観光客らしき団体の姿だった。
どうしてこんなときに、こんな影像が?
戸惑う僕の頭の中で、それらは、一つのストーリーを形作った。
なるほど、そういうことか。
思わず笑みがこぼれそうになる。僕は勿体をつけて、ゆったりとした口調で言った。
「僕がこの家の持ち主だったら、絶対にパソコンショップにはしませんね」
「ほほう、面白いことをいうね」
お婆さんは興味深そうな表情を浮かべた。
「じゃあ、どうするんだい」
僕は少し間をおいてから答えた。
「江戸時代のレシピを、忠実に再現する料理店にします」
「なるほど」
お婆さんは、感心したように目を細めた。
「どんな料理がでてくるのかな」
「この辺りは門前町として栄えたらしいですね」
僕は辺りを見回した。杉林の合間に緑の田畑が点在していた。
「門前町と言えば、お坊さん。お坊さんと言えば、精進料理で決まりでしょう。もちろん地元でとれた食材だけを使います」
しばらく僕を見つめていたお婆さんが、いきなり両手をパチンと叩いた。
「面白いね、気に入ったよ。ついておいで。ちょうどお茶を飲もうとしていたところなんだ」
「ちょっと待って下さい」
僕はあわてて付け加えた。
「お誘いはありがたいんですが、遠慮します」
「どうして?」
僕は知人の家に上がるのでさえも苦手なのだ。見も知らぬ人間となると、なおさらだ。
「お茶を頂く理由がないからです」
「おかしなことを言うね」
お婆さんは、不思議なものでも見るような目をした。
「あんたを気に入ったから、誘っているんだよ」
「だって、初対面ですよ」
「それがどうしたっていうんだい」
お婆さんは、顎を前に突きだした。
「運命の出会いという言葉があるだろう。出会いひとつで、人生が大きく変わることだってあるんだよ」
そんな言葉は知っている。そんな話は何度も聞いた。でも今の状況に、その言葉は当てはまらない。僕が嫌だと言っているのに、何が運命の出会いだ。
「質問してもいいかい?」
お婆さんは落ち着いた声で言った。
「どうぞ」
と答えて気がついた。僕たちは、さっきからずっと見つめ合ったままだった。よく見ると、お婆さんは透き通った瞳の持ち主だった。僕は、すこしどぎまぎした。
「今付き合っている彼女はいるのかい? あたしから見ると、いないように見えるけどね」
その通りです、
と言おうとして、やめた。決めつけたような言い方が気に入らなかったからだ。
「そんなことを訊いて、どうするんですか?」
僕は声のトーンを少し高くして言った。お婆さんは意味ありげな笑みを浮かべた。
「彼女がいないのなら、紹介してあげようと思ったもんだからね」
彼女を? 初対面の、この僕に? どうしてまた。
いきなりでビックリしたが、僕はすぐ冷静さを取り戻した。
お婆さんは、これまでに何度も仲人をつとめたことがあるのだろう。若者を見れば、相手が誰であろうと、気さくに話かける癖がついているのだ。
でも、お断り。自分の彼女は自分で探す。ここはジョークで逃げるとしよう。
「じゃあ、よろしくお願いします」
僕は大げさに頭を下げた。そして、作り笑いを浮かべて、冗談ぽく聞こえるように言った。
「で、どこにいらっしゃるんですか、僕の将来のお嫁さんは?」
お婆さんは、にやりと笑った。
「あんたの、目の前」
さっきのコンビニの女の子が、このセリフを言ってくれたら、僕は、喜びのあまり、鼻血を出してひっくり返っていたかもしれない。でも、相手がお婆さんじゃ、話にならない。
僕が黙っていると、お婆さんは催促でもするような声で言った。
「嬉しくて、言葉にならないのかい」
無視して、バイクを発進させようかと思ったが、冗談を言い出したのは僕。こうなれば応じるしかない。
僕は、お婆さんの足もとから頭の先まで視線を巡らせた。そして、たっぷり時間をとってから言った。
「僕は年下が、好みなんです、もしよろしかったら、おいくつなのか教えていただけませんか」
言葉が過ぎたかなと思った。でも、お婆さんはすました顔で返してきた。
「あんたの目には、このあたしが、お婆さんに見えているらしいね」
当たり前すぎて、返す言葉が見つからなかった。
「実を言うとな」
お婆さんは、また、にやりと笑った。そして、皺だらけの顔を両手でぺたぺた叩きながら言った。
「これは、ハリウッド製の特殊メイクなんだよ」
この時点で、勝負はあった。僕には、お婆さんの冗談についていくだけの技量はない。
「もういいです」
と僕は言った。
「彼女を紹介してもらわなくても結構です。帰ります」
お婆さんは、僕の顔をじっと見つめた。
「あんたは、外見で物事を判断するタイプのようだね」
こんなことを言われたのは初めてだったが、確かにそうかもしれない。
「さっきも、言ったけどな」
お婆さんは、また藁葺き家を指差した。
「この藁葺き家が、あんたが探しているパソコンショップなんだよ。嘘だと思うのなら、自分の目で確かめてごらん」
そこまで言われると、しかたがない。気は進まなかったが、お婆さんの後をついていくことにした。
石垣の門から続く砂利道を歩きながら、お婆さんは「 ほら」と言って、入り口横の立て看板に目をやった。
かすれた文字が見えた。
『パソコン専門店・パソピザ』
フン、
僕は鼻先で笑った。
そんなものに惑わされるもんか。たぶん、風で飛んできた看板を拾ったんだろう。でなければ、何かのジョーク。お茶をひとくち飲んだら、すぐ帰る。
「しつれいします」
一応、挨拶の言葉を言って、中をのぞき込んだ僕は、思わず「えっ」と言って、お婆さんを見た。
お婆さんは、なにも言わなかった。小さく笑っただけだった。