ど忘れ症候群
専門家ではないから、はっきりしたことは言えないのだが、あのとき教室にいた全員が、ある種の集団催眠状態に陥っていたんじゃないかと、今も思う。(ただし、僕は除く)
「化粧品のコマーシャルに出ていたよな」
と誰かが言うと、
「そう、そうだ、その女優だ、えっと、さあ、あのぉ」
と誰かが答えた。
「鬼畜って映画にも出ていたよな」
しばらくしてから、別の生徒が言った。
「そう、相手役は緒形拳だった」
後ろの席から、誰かが言うと、マドンナが、同意を求めるような口調でつづけた。
「一切、家事をしないということでも有名ですよね」
マドンナのときだけ、あちこちで、しきりにうなずく気配があった。
みんなの頭の中には、同じ女優の姿がはっきり映っているようだった。でも、五分過ぎても、十分たっても、誰も名前を言わなかった。
講師のミスダツも、生徒と同じように、考えるような目で天井付近を睨んでいた。教室の中で、ただ一人の部外者的立場の僕としては、静観する以外に手はなかった。
何と言う名前なんだろう。
僕も知っている女優だろうか。
最初に思い出すのは誰だろう。
僕は興味をもって、みんなの様子をながめていた。しかし、
「どうして、出てこないんだろう」
「こんなに、はっきり見えているのに」
「喉の、ここまできているんだけどな」
「ああ、くやしい」
といった種類のため息交じりの声を聞かされているうちに、苛立ちのようなものを感じはじめた。
「なあ、おい」
僕は、思案顔を続けているPに言った。
「まだ、思い出せないのかよ」
だがPは、顔も向けなかった。手の甲を僕に向けて、ハエでも追っ払うような仕種をしただけだった。
こんな状態を、取りつく島もないって、いうのだろうか。
心の中でつぶやいたとき、ひとりの女優の名前が、ひょこっと浮かんできた。
岩下志麻。
たぶん彼女に間違いない。彼女はメナード化粧品のCMをやっていた。でも、どうしてこんな大物女優をみんなは思い出せないのだろう。
不思議に思いながら、Pの肩を指先で突っつくと、彼は胡散臭そうな目を向けた。
「なんだよ」
僕は小さな声で訊ねた。
「それって、極妻の」
と言ったところで、Pは右手をさっと伸ばして僕の口を塞いだ。そして僕の耳元で言った。
「絶対に言うなよ。言ったら絶交だぞ。二度と口をきいてやらないからな」
訳が分からなかった。僕は素朴な質問をした。
「女優の名前が、知りたかったんじゃなかったのかよ」
「うるさい」
ひと言言って、Pは、ぱっと立ち上がった。
物音に気づいたミスダツが、我に返ったような表情を浮かべて、こっちを見た。
「何だ、思い出したのか?」
Pは黙って首を横に振った。
「もし、その女優の名前を思い出しても、俺には言わないで下さい」
当時のPは、誰に対しても、自分のことを俺と呼んでいた。Pは視線を生徒たちに向けてつづけた。
「自分で思い出したいんだ。俺に、余計な親切はしないでくれよな。頼んだからな」
教壇の前で、その様子をうかがっていたミスダツが、意味ありげな笑みを浮かべた。「じゃあ、こうしよう」と彼は言った。「母親役の女優の名前を思い出したら、ひとりずつ報告に来い。ネットで調べるも良し、雑誌で調べるも良し。でも、自分一人で調べること。他人には聞くな。生徒間同士で教え合うのも禁止」
そこでミスダツは、生徒一人一人に目をやりながら訊いた。
「この中で、思い出した奴はいるか?」
生徒の中には、答がわかっていても、自分からは手を上げないタイプの人間がいる。僕もPも、その中の一人だ。
その日僕が手を挙げなかった、もう一つの理由。
もしここで僕が手を挙げると、場の空気が変わってしまう。
「よし、分かった」
ミスダツは満足そうな笑みを浮かべて、少し体を乗り出して言った。
「こんな機会は滅多にない。残りの時間は、ノーサーチの話だ」
「おやまあ、ノーサーチかよ」
Pがおどけたような声でつぶやいた。
僕はPに訊いた。
「何だよ、ノーサーチって」
Pは、にやっと笑って答えた。
「たぶん、後は頼むよ、丸投げ方式だろうな」