記憶の底から蘇ってきたもの
その言葉を聞いて、この店を選んで本当に良かったと思った。
東京にいたころ、何軒かのパソコン専門店を訪れて、見積もりを頼んだことがある。
現時点で一番高性能のカスタマイズパソコンが欲しいんです、とだけ言った。
しかし、誰一人として、使用目的も、予算も訊いてこなかった。
どの店のスタッフも、申し合わせしたように「これが絶対にお買い得です」と言って、明らかに売れ残りと分かるパソコンを、押しつけてきた。
ところが、ここの店長は真っ先に使用目的を訊いてきた。その上、パソコン業者なら触れたくないはずの、陳腐化の速さを自分から口にした。
「心遣い、ありがとうございます」
僕は礼を言ってから、急ぐ理由を伝えた。
「実を言うと、そのことで、ここひと月ぐらい悩んでいました。でも、編集ソフトに慣れる方が先だと気づいたんです。いつ仕事が舞い込んでも、あわてなくてすみますからね」
「余計なことを言ってしまいました」
僕より遙かに年上の店長が、バツの悪そうな表情浮かべて深々と頭をさげた。
「お客様のおっしゃるとおりですね。経営者の立場で考えると、そうなりますね」
僕は経営者ではなかったが「ケイエイシャ」という音の響きに、なぜか、自信のようなものが湧いてきた。
「こういう、スペックはどうでしょうか」
僕は、あらかじめ用意しておいたメモ用紙を店長に手渡した。
「パソコンには、ずいぶん詳しいようですね」
店長は感心したような口調で言ったが、そんな事はない。種明かしをすれば、パソコン専門誌に載っていたお勧め商品を書き写しただけだ。でも僕は、そのことは口にしなかった。
見積書には、僕の予想より一割ほど安い金額が記されていた。
交渉成立。
僕が右手を出すと、店長も軽く握り返してきた。
そんなに急がなくてもいいです、と言ったのだが、張り切った店長は、約束通り一週間で、カスタムメイドのパソコンを組み立てた。
僕の中で迷っていた編集ソフトも、すんなりと決まった。
カノープスのDV・RAPTOR。(DV・ラピター)
「カット編集なら、これで十分だと言うことです。東京や大阪の大手プロダクションでも、このソフトを使って納品する場合があるそうです」
店長がメーカーに何度も問い合わせをした上で、太鼓判を押してくれた。
取扱説明書を詳しく読んでみると、専門学校で使っていたソフトと、基本的には同じだった。
すべてのソフトのインストールが終了した日の夕方、店の奥のコーナーで最終的な動作確認をした。
開店セールが続いていたこともあって、相変わらず客は多かった。映像編集ソフトに興味を持っている人間も結構いた。
モニター画面に、DVラピターの編集画面が映し出されると、ちょっとした人だかりができた。
「この中に映像に詳しい人はいませんか」
と訊いてみた。全員、編集ソフトの現物を見るのは初めてだったようだ。
そういう集まりの中には、必ずと言っていいほど、値段を知りたがる人間がいる。
「全部で、いくらかかったんですか」
うらやましそうな表情で中年の男性が訊いてきた。
一瞬躊躇した。
ソフトまで全部入れると、びっくりするような金額になるからだ。
そこで僕は、本体価格だけを口にした。
しかし、それでも羨ましそうなため息があちこちから聞こえてきた。もしかすると、僕が大金持ちの息子だと思った人もいたかもしれない。
「どうやって使うんですか」
別の人間が訊いた。
ここで、影像がくるくる回って、弾け飛んだり、本のページをめくるような派手なトラジションを披露すれば、歓声が上がるところだろうが、残念ながら、映像データはまだ入っていなかった。
そのことを告げると、人々の口から落胆の吐息のようなものが漏れ、しばらくすると、僕の周りには誰もいなくなった。
店長が見守る中、他のソフトもチェックしてみた。
何も異常なかった。
「完璧です」
笑顔で言うと、店長もにこっと笑った。
「もし不具合が出たら、遠慮なくおっしゃってください。こちらから駆けつけます」
代金は、自分の貯金の中から出した。高校時代から、こつこつ貯め続けてきた甲斐があった。
まだ、会社名も決まっていなかった。領収証には、僕の本名を書いてもらった。
そこまで思い出した僕は、急に喉の渇きを覚えた。
さっきコーラを飲んだばかりなのにな、
とつぶやきながら台所にいって、冷蔵庫を開けた。
一瞬、二本目のコーラに手が伸びかけた。でもここはやはり、例の水道水。ペットボトルとグラスを両手に持って、再び椅子に腰掛けた。
目の前のデスクトップを見つめながら、ボトルの水をグラスに注いだ。
思わずため息が漏れた。僕の胸の奥が、しくしく痛みはじめた。
今から十年ほど前は、羨望の目を向けられていたコンピューター。
今は、ネット検索にしか使われていないコンピューター。
一度も花を咲かせることもなく、寿命を迎えようとしているコンピューター。
僕はグラスの水を一口飲んだ。水道水とは思えないような、爽やかな味がした。
少し気持ちが落ち着いてきた。
モノには全て、寿命がある。
二口目の水を飲もうとしたとき、なぜか、僕の両腕に鳥肌が走り、続いて背筋が、ぞくっとした。
風邪の予兆かと思った。
でも、寒さは感じなかった。ここ数ヶ月、くしゃみひとつしたこともなかった。風邪ではなさそうだ。
ざわざわざわ、
まるで、麦畑を渡る風のように、僕の体のあちこちを鳥肌が撫でていった。
と、突然僕の脳裏に、ある言葉が浮かんできた。
『パソコンショップで一番高価な商品』
その言葉が、僕の記憶の底を掘り返した。
文字が消えた瞬間、このあと、どのような現象が起こるのか分かった。
予想通りだった。
脳裏に浮かんできたのは、今、僕のベッドの中で眠っているノートパソコンの姿だった。