妄想じみた独り言
僕は、幼いころから動植物に興味を持っていた。
ダンゴムシ、メダカ、金魚。クワガタ、カブトムシ。朝顔、ひまわり、おしろい花。
これらは、小学校時代に自由研究で、取り組んだ動植物だ。
ペットを飼ったこともある。小学六年生の夏だった。動物嫌いの、お袋を説き伏せるのに、五年かかった。
近所のおじいさんからもらった雑種の雄犬で、母犬は血統書付きだったらしい。
もちろん、名前は僕がつけた。
しかし、僕の記憶の中に、その犬との思い出はほとんど残っていない。
その子犬があの世へ旅立ったのが、僕の家に来た三日後だったからだ。
それ以来僕は、生き物を飼ったことがない。
でも、今でも動物は好きだ。
ペットショップの横を通り過ぎる時、ガラス越しに店の中を覗くことがある。覗くといっても、ほんの数秒だ。ちらりと目をやる。という表現のほうがふさわしいかもしれない。
そんな短い時間でも、子犬と視線が絡み合うことがある。
僕の視線に、向こうが気づくといったケースは、一度もない。
僕が目を向けたその先に、子犬の目が待っているのだ。
目を輝かせて尻尾を振る子犬。
また、やってしまった。
僕はそっと視線を外して、心の中で小さくつぶやく。
「ごめんな。お前の運命の人は、俺じゃないんだよ」
このアパートを借りて六年になるが、部屋の中に、人の気配のようなものを感じたのは初めてだった。
ジーパンのポケットから、鍵を取り出す僕の手がかすかに汗ばんでいた。
ひょっとすると、自動的に電源が入ったのかもしれない。スリープモードが解除されたのかもしれない。
淡い期待を抱いて部屋のドアを開けたからだろう。
「ただいま」
思わず声が出てしまった。我ながら恥ずかしかったが、出たものはしかたがない。僕は、スニーカーを脱ぎながら、耳をすませた。
返事はなかった。肩の力が、ふっと抜けたような気がした。僕は脱いだ靴を揃えながら、自分に言い聞かせた。
「何をがっかりしているんだ。相手はパソコンだぞ」
コーラが入ったレジ袋を、流しの上に置いた僕は、台所の小窓を少しだけ開けた。
目の前には、隣のマンションの壁が立ちはだかっている。
だが、入ってくる空気は涼しい。深呼吸を三回繰り返した僕は、買ってきた四本のコーラを冷蔵庫に入れ、代わりに、昨日水道水を入れておいたペットボトルを取り出した。
ボトルのキャップを開けたところで、少し迷った。
このままボトルに口をつけて飲もうか。それとも……
僕は、洗いかごに伏せてあるグラスを手に取った。そして、ペットボトルの水を八分目ほど入れた。しばらく、グラスの水を眺めた後、僕は、一息で飲み干した。
冷たい水が喉元を通り過ぎ、胃の中に収まったとき、僕は、魔法の水でも飲んだような錯覚を覚えた。
胃袋の中が急に軽くなり、頭の中がすっきりしてきたのだ。
僕は、ペットボトルに目を近づけた。
どこにでもあるコカ・コーラのペットボトル。でも、僕にとっては特別なボトル。僕に一目惚れをしたというあの子が、手を触れたペットボトル。
「そのうちに、また、会いに行くからね」
ペットボトルにそう言った僕は、飲んだ分だけ水道水を足して、ふたたび冷蔵庫に戻した。
さてっと、
息をひとつ吸い込んだ僕は、後ろを振り向いて、ゆっくりベッドに近づいた。そして、立ったままの格好でノートパソコンに語りかけた。
「もし君が、寝たフリをしているのなら、今すぐ目を開けてほしい。そして何でもいいから、音声で、じゃない。声を出してほしい。バカでもいいし、アホでもいい」
しばらく待ったが、何の反応もない。仕方がないから言葉を続けた。
「君は知らないかもしれないけど、僕は君を、人間の女性として扱うことに決めたんだ。現時点において、君は、あのコンビニの女の子よりも、僕に近い存在になるんだ。といっても、今日の午前零時までだけどね」
僕はそこで、サイドラックの目覚まし時計を手に取って、毛布の上にかざした。
「今のままだと見えないかもしれないけど、この針が、つまり、長針と短針と秒針が重なった時点で、君はただのノートパソコンに戻るんだ」
僕は目覚まし時計を、元の場所に戻した。
「くどいようだけど、今僕の中で、君は人格を持った大人の女性なんだ。だから、僕は君に対して、行動を起こす場合、君の確認を取ることにする。僕の質問に対して、必ず意思表示をしてほしい。十秒待って返事がなかったら、了承したと理解する。それでいいね」
言いながら、言葉遣いがおかしいと思った。でも、気にしないことにした。
ぴったり十秒経ってから、僕は口を開いた。
「毛布をずらすよ。でも、心配しないでいいからね。君の顔が見える部分までだから」
僕は、毛布に手をかけて、パソコンが三センチほど見えるところで止めた。
ノートパソコンは、外出する前とまったく同じ位置にあった。
当たり前のことなのに、僕は、ほっと胸を撫で下ろした。
もし、ここにノートパソコンがなかったら、あるいは、ノートパソコンの代わりに、裸の女性が寝ていたとしたら、僕の世界観は根底からひっくり返ってしまうところだった。
ついさっき、金輪際使わないと誓ったばかりの、夢の世界の出来事という言葉を、何度も何度も、口にしなければならなくなるところだった。
僕はベッドの縁に腰を下ろした。そして、すこしだけ見えているパソコンを見つめながら言った。
「僕の声が君に届いていると思って話をするけど。いいよね」
十秒経過。
「本当に、君は僕を知っているんだね。僕は君と会ったことがあるんだね。本当に僕は君の名前を知っているんだね。でも、君の勘違いってこともあるよね」
十秒経過。僕はひとつ咳払いをした。
「よし分かった。僕が忘れていた。忘れていたことを忘れるほど、忘れていた。ゴメン、ゴメン。えっ、誠意が足りないって、そんな事はないよ。心から謝っているんだよ」
そこで僕は少し言葉を切ってから、つづけた。
「でもさ、誠意がどうのこうのと言う前に、君の方から、いままでの経緯を話すべきじゃなかったのかな。僕のことを何年も待ち続けていたってことは、僕に何かを言うためだったんだろう。だったら、たとえどんなに眠かったとしても、パスワードをしっかり伝えてから眠るべきだったんじゃないのかい」
僕の妄想じみた独り言だというのは分かっていた。でも、なぜか苛々してきた。
今度は二十秒待ってから、つづけた。
「それに、なんだい、あのヒント。ひどすぎるんじゃないの。パスワードが君の名前だということに対しては何も文句はない。でも、その名前は、僕の記憶の奥底に眠っているなんて言われてもね。からかわれているとしか思えないね」
十秒待って、次の言葉を言おうとしたところで、突然、携帯の呼び出し音が響いた。
着信音量は絞ってあるのだが、それでもびっくりした。
パソコン相手に話をしている自分の姿を、見られたような気がしたからだ。