寝相のわるいノートパソコン
目が覚めたのは、昼前だった。
寝過ぎたからだろうか、どことなく体がだるかった。
軽い運動を長時間続けた後のような感じがした。でも、不快感はない。どちらかというと、心地良い部類に入る気だるさだ。
僕は寝たままの恰好で、大きく背伸びをしながら深呼吸を三回くりかえした。
体のどこかで関節の鳴る音がした。
この音を聞くと、僕は安心する。自分の身体が自然に矯正されていくような気がするのだ。
すべてが収まるべきところに収まる。そんな感じだ。
さて、今日は何をしよう。TSUTAYAの返却日は明日だが、また名作DVDをまとめて借りてこようか。
そこで僕は、昨日の出来事を思い出した。
とても奇妙な一日だったような気もするが、よく考えてみると、ごく普通のことばかりだった。
藁葺き家のパソコンショップと、あのお婆さんには、大いに面食らった。
でも全国には、古い民家やSLの客車を改造した店舗や、酒樽を逆さにしてドアを取り付けた飲み屋など、いくらでもある。ネット通販の支店が、藁葺き家であったとしても驚くほどのことではない。
高齢化社会が現実のものとなったこの時代、お婆さんがパソコンの世界に関わっていたとしても、なんの不思議もない。
しかし、パソコンの音声を、見合い相手の女の子の声だと思い込んでしまったあの件は、大失敗だった。
もちろん、ノートパソコンのせいにするつもりはない。パソコンには、まったく落ち度はない。
僕が至らなかっただけだ。もう少しはやく、声の主が、会話機能付きのパソコンだということに気づけば良かったのだ。
しかし、だからといって、コンビニのあの子を諦めるつもりはない。
僕は体を起こして、サイドラックに顔を向けた。
(僕はあの子と絶対付き合うからね。そうなれば、君も安心して眠れるだろうからね)
心の中で、パソコンに語りかけた僕の頭の中に、一瞬、空白ができた。
僕は思わず、目を瞬かせた。
あるはずのパソコンがなかった。
まさか、土産のノートパソコンも夢? 昨日の出来事はすべて夢だったの?
もしそうだったら、ギネスブックに申請してやる。マトリョーシカ方式の夢を見た部門の、初代記録保持者になれるかもしれない。
だが、サイドラックには、タオルケットがちゃんと置いてあった。昨日のことは夢ではない。お婆さんから古いパソコンをもらってきたのは間違いない。
となれば、何かの拍子に、サイドラックから滑り落ちたのだろう。
僕はベッドから飛び起きて、床に這いつくばった。腕立て伏せをするような恰好で、周囲に視線を走らせた。
しかし、パソコンはなかった。
床にうっすらと積もった灰色のほこりが、ふわりと舞い上がっただけだった。
何か、おかしい。
腕組みをした僕は、ベッドに腰掛けて部屋の中を見回した。
だが、ソファの上にも、デスクトップパソコンが載っている窓際の机の上にも、それらしきものはなかった。
状況がまったく飲み込めなかった。
タオルケットはある。ノートパソコンを包み込んだ記憶もある。なのに、肝心の本体がない。
昔テレビで大人気だったという「スパイ大作戦」の指令テープのように、パソコン本体が自動消滅したのだろうか。
考えようとしたが、頭がうまく回らない。
こんなとき、あのペットボトルの水を飲めば、思考回路が動き出すかもしれない。
台所に行こうとした僕は、背後に人の気配のようなものを感じた。
上半身をひねって振り返った。
ノートパソコンはあった。枕のむこう側に隠れていた。
待てよ。
僕は、差し出そうとした両手を、まだ眠気の残る頭の後ろに組んで、首をひねった。
パソコンが自分で空中を移動するはずがない。
誰かが、ここに置いたに違いない。
でも、誰が、いつ、どんな方法で?
疑問は、すぐに解消した。
僕が移したらしい。というか、それ以外に考えられない。しかし、僕には、そのときの記憶は残っていない。
やばい。
昨日から、記憶の一部が抜け落ちる傾向が出てきたようだ。去年受けた健康診断では、どこにも異常はなかったというのに。何かの兆候だろうか。
そこで僕は、気持ちを切り換えた。
病は気からという。だったら、そんなことは絶対にないと思うことにする。
僕はベッドに対して斜めになっているノートパソコンを、しげしげと眺めた。そして、笑いながら、語りかけるように言った。
「君は、ずいぶん寝相がわるいみたいだね。毛布もかぶっていないじゃないか。そんな恰好で寝ていると風邪を引いてしまうよ」
と言った後で、どきっとした。
寝る前にパソコンが言っていた言葉が、耳の奥に蘇ってきたのだ。
『昔、裸のままだと言われたことがあるわ』
とつぜん、パソコンが全裸の女性に見えてきた。
同時に、僕の心臓が波打ち、冷たい汗が噴き出した。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ」
僕はあわてて毛布を引き寄せ、パソコンの上にかぶせた。
「おいおい、何考えているんだ。相手は中古のパソコンだぞ」
わざと声に出して言った。
だが、僕の胸の動悸がおさまったのは、それから十五分ぐらい後。アパートを出て、しばらくしてからだった。
昼食は外食にすることにした。インスタントものが続いたせいで、スタミナ切れを感じたからだ。
というのは、嘘。
実を言うと、僕はノートパソコンに、見栄を張ったのだ。
理由は、こうだ。
僕は今日の明け方ちかくまで、あのパソコンを人間だと思い込んでいた。だから、日付が変わる今夜の午前零時まで、大人の女性として扱うことにしたのだ。
だがそう思った瞬間、困った問題が起きた。いつものようにカップラーメンにお湯を注ごうとした僕に、男の自覚、あるいはそれに近いものが生まれてきたのだ。
気心の知れていない女性の前で、カップラーメンをすするのは、男として、いかがなものだろう。
女に惚れると、人格が変わるぞ、とPが言っていた。
僕の場合、相手は人間ではないが、それでも実感として理解することができた。
「馴染みの店があるんだ。ちょっと顔を出してくる。帰る時間は分からない。じゃあな」
スリープモードに切り替わっているパソコンに向かって、そう言った。
だが、あまりにも芝居じみた口調は、僕の柄ではなかったようだ。
直ちに身体が拒否の反応を示した。
冷たい鳥肌が、後ろ手でドアを閉めようとした僕の体を包み込んだ。