ダラダラ坂の消え女
消え女が登場するのは「ダラダラ坂の消え女」という民話らしい。
小さい頃、テレビで日本昔話を見ていたおかげで、僕はおとぎ話や民話には結構詳しい。
しかし「ダラダラ坂の消え女」という話は見たことがない。子供向けのアニメ番組だったから、別のタイトルで放映されたのかもしれない。
「ダラダラ坂の消え女には、三つのバージョンがあるんだ」
お婆さんは、遠くを見るような目をして話し始めた。
民話の中に、バージョンという言葉が出てきたのには驚いた。多様化とグローバル化の波がこんなところまで押し寄せているとは思わなかった。
近い将来、日本民話の中にキャサリンという名前の主人公や、パンダやオランウータン、ピラニアやカクレクマノミも登場するようになるのかもしれない。
「バージョン1は、宙ぶらりんの世界」
お婆さんはもったいをつけるような声で言うと、茶菓子を口に入れた。
宙ぶらりんという言葉で、僕が連想したのは、無重力。
この話は宇宙をテーマにした新しいタイプの民話かもしれない。
だとすれば、たぶん月は出てこない。ダジャレじゃないが、あまりにも月並みすぎる。舞台は火星? 木星? ビッグバン以前の世界だとすれば初めて聞く話だ。
「宙ぶらりんの世界って、どんな世界なんですか?」
お婆さんは芝居がかったような声で、ひひひ、と笑ってから答えた。
「無縁仏の世界だよ」
あまりにもベタな世界にがっかりした。
それならそうと、最初から言えばいいのに。思わせぶりに、バージョンがどうのこうのと言うから、つい期待してしまうのだ。いまさら無縁仏だなんて、辛気くさい話を聞きたくもない。
僕は湯飲みに手を伸ばした。
「消え女は、誰もやりたがらない仕事を、ボランティアでやっているんだ。何百年も昔から、たった一人でね。消え女の生き甲斐は、無縁仏を探し出すことなんだ」
湯飲みに口をつけたところで、無縁仏の三文字が映像となって脳裏に蘇ってきた。
嫌な予感がした。
この文字が消えると、誰かの顔が現れるような気がしたのだ。
僕の予感は当たった。
数秒後に、文字が消え、人の顔が浮かんできた。
今朝洗面所で見た顔。ヒゲをそる前の僕だった。
僕は湯飲みを置いた。
考えたくはなかったが、考えないわけにはいかない。
さっき僕が話していた相手が、本物の消え女だったら、どうなる。
消え女が二十一世紀の今でも生きていると考えた場合、どんなことをするだろう。
消え女は仕事好き。日進月歩を数百年続けてきた消え女。消え女の頭脳には、数百年分のノウハウが詰まっている。間違いなく、我々の想像を超えた方法でアプローチしてくるはず。
とたんに胸の動悸が始まった。
もしかすると、僕の魂の一部は、すでに僕の体から離れているのではないだろうか。
レシートのことを覚えていなかったのも、他の人には聞こえない声が僕だけ聞こえるのも、そのせいなのかもしれない。
あんなに可愛い女の子が僕に一目惚れするはずがない。あれは、いわゆる冥土の土産だったんじゃないだろうか。
消え女は、僕を少しずつ分解して、あの世に送ろうとしているのだ。すでに僕の魂は消えかかっているのだ。
僕は動揺を隠して言った。
「要するに、今の僕は、無縁仏になりつつあるということですか」
お婆さんは驚いたような顔で僕を見た。
「どうしたんだい、そんなに青い顔して。まさかあたしの話を信じたんじゃないだろね」
安堵感で、一瞬頭の中が白くなった。
「消え女の話は作り話だったんですか?」
「いや、いや、そうじゃないよ」
お婆さんは急に真顔になった。
「あんたの相手が消え女だったと仮定すると、辻褄が合いそうだったもんだからね。あんたの場合、たぶんバージョン3の方だよ。それには無縁仏なんか出てこないんだ。安心していいよ」
お婆さんがそう言ったとき、どこからか、ピピピという電子音が聞こえてきた。
「あ、いけない」
集荷係が慌てたように立ち上がった。それにつられて腰を上げかけた僕を、お婆さんが手で制した。
「出荷台数の連絡が入っただけだよ。出荷までにはまだ時間があるんだ。ゆっくりしときなよ。昼ご飯を一緒にどうだい」
時計の針は、いつのまにか十一時を少し過ぎた辺りを示していた。
「申し訳ないんですけど」
反射的に立ち上がった僕は、一礼して言った。
「昼から用事があるものですから、今日はこれで失礼します」
もちろん用事なんてなかった。コンビニの女の子と僕の間に、冷却期間を置くための方便だった。
二週間ほど時間を置けば、お婆さんの方から、再度の見合い話を持ちかけてくるかもしれない。そんな打算的な考えがあったのだ。
しかし、本能がとか、縁がとか、僕は一度口にしたことは絶対守りますなんて、ある意味、口から出任せの言葉を吐いた以上、ここで、あの子の件に触れるわけにはいかない。
そこで僕は、消え女の名前を利用させてもらうことにした。
「近いうちにまたうかがいます。ダラダラ坂の消え女のバージョン3まで全部聞かせてくださいね。よろしいでしょうか?」
「おや、そうかい」お婆さんは嬉しそうな笑みを浮かべた。「だったら、なるべくはやく顔を見せておくれよ」
「ここまでの道のりはきっちり覚えました。電話してから遊びにきます」
即座に答えた僕に、お婆さんはショーケースを指差した。
「今日の記念に、プレゼントするよ。どれでも選んでいいよ」
ありがた迷惑の代表選手のようなセリフだった。
ショーケースの中身のすべては、会社の歴史を印した貴重な宝なのだろう。でも僕から見れば、ただの産業廃棄物。
しかしそれを口にすることはできない。かといって、いりませんと言うと、相手の好意を踏みにじることになる。だったら、二度と来ないでくれと言われる可能性がある。
「ありがとうございます」
僕は明るい声で言って、さっき触ったノートパソコンを手に取った。
選んだのではない。下手に迷うと、二台でも三台でも持っていけと言われそうだったからだ。
「じゃあ、これをいただきます」
集荷係が、にこっと笑った。
「さすがですね、お目が高い」
「僕のどこがですか」
集荷係は少し背筋を伸ばして答えた。
「当社が取り扱った製品の中で、それが一番高価なノートパソコンだったんです」
一番高価なノートパソコン、と言う言葉は、僕の脳のどこかを引っかいたはずだ。
だが、そのとき僕は、その言葉に気づかなかった。
お目が高いと言われて、無意識のうちに有頂天になっていたらしい。
「と言う事は、大ヒット商品だったんですね」
集荷係は少し恥ずかしそうな表情を浮かべてうつむいた。
「それが全く売れなかったんです」
しばらくして、彼女は僕の目をじっと見て言った。
「製品の性能と、販売数が正比例しないこともあるようです」
自分のくじ運の弱さを再認識したのは、その直後だった。
他の機種にはアクセサリーセットと取扱説明書が付いているのに、僕が選んだのは本体のみだった。
お婆さんは「別のに変えなよ」と言ってくれたが「僕は昔からインスピレーションを大事にするくせがあるんです」と言って、やんわりと断った。
「申し訳ありませんが、これでよろしいでしょうか」
集荷係が差し出した紙袋にパソコンを入れた僕に、お婆さんが言った。
「それじゃあ、持ちにくいだろう。うちのトラック便で送り届けてあげるよ」
これが新品だったら、その申し出をありがたく受ける。だがACアダプターさえ付いていない無機質な四角い箱は、ワープロどころかオブジェにもならない。頃合いを見て廃棄してやろう。
「大丈夫です。バイクに戻ればナップザックがありますから」
と言ったところで、僕は紙袋を胸に抱いて見せた。
「普通は背中に背負うんですけど、胸に抱いて帰ります。今日からこれは、僕の大切な宝物になるわけですからね」
お婆さんは、目を細めて笑った。
「きっとそのパソコンも喜んでくれると思うよ」
お婆さんと集荷係の二人は、僕を外まで見送ってくれた。
「珍しい経験をさせてもらってありがとうございます。今度は土産を持ってうかがいます」
と言って、ヘルメットをかぶった僕は、いつもと何かが違うことに気づいた。
汗の匂いがしみ込んでいるはずのヘルメットから、仄かな甘い匂い漂っていたのだ。
あれっ?
ヘルメットを脱いで、気がついた。匂いの元はヘルメットではなかった。僕の周囲には心地よい香りが満ちていた。
「どうしたんだい? 何かあったのかい」
お婆さんが訊いた。
「このあたりにクチナシの花が咲いているんですか?」
僕の少ない知識の中で、路に漂う花の香りといえば、クチナシとキンモクセイだけだった。
「どうやら、あたしは匂いも分からなくなったようだね」
心持ち顔を上げて空気の匂いを嗅いでいたお婆さんが、何かを思い出したような声で集荷係に訊ねた。
「そういえば、そろそろタイサンボクの花が咲くころだね」
「タイサンボクって、どんな花なんですか?」
お婆さんは両手で二十センチほどの円を作った。
「白くて大きな花だよ。花の形は白モクレンに似ていて、上品な匂いがするんだ。とても高くなる木なんだ」
サザンカとか、ツツジのような低い木を想像していた僕は、杉林の梢に視線を向けて訊いた。
「この辺りにもあるんですか? そのタイサンボクの木は」
急に黙り込んだお婆さんの表情が消えていた。
僕は、先ほどお婆さんが僕に言った言葉を口にした。
「どうしたんですか? 何かあったんですか」
しばらく僕を見ていたお婆さんは、仕方ないなと言うような声で言った。
「話は長くなるかもしれないよ」
これからお婆さんが何を言おうとしているのか分かった。隣にいる集荷係の表情も、硬くこわばっていたからだ。
ということは、声だけオンナと関係があるんですね、と言おうとした僕の耳元で、声がした。
「はやく、二人っきりになりたいんだけどな」
囁くような声に、耳の奥が、ぞくっとした。背筋を悪寒が走り、僕の視界の中の世界が、ぐらりと揺れた。