ヒッグス粒子時代の日本昔話
首を傾げて監視カメラのモニター画面を睨んでいたお婆さんが、ヘッドホンを外して僕に顔を向けた。
「質問があったら、何でも訊いとくれ」
やっとその時間が来た。待ってましたという感じだった。
もちろん最初の質問は決まっていた。
僕は高ぶる感情を抑えて訊ねた。
「僕の見合い相手は、コンビニのあの子に間違いないんですね」
お婆さんは、大きくうなずいた。
「ああそうだよ、今となっては、残念な話だけどね」
確かにそれは僕にとっても残念な話だった。でもショックは感じなかった。お婆さんは優しい心の持ち主だ。
そのあと、何か付け加えてくれるだろうと思っていたからだ。
(これは一種のトラブルだったんだから、改めてお見合いをすればいいよ)
あるいは、
(最初からすんなりいくより、少々のアクシデントを経験した方が、二人の仲は長続きすると思うよ)
そんなセリフを期待していた。
だが、お婆さんは何も言わなかった。ため息のようなものをついた後、何か考えるように黙り込んでしまった。
気まずい沈黙が漂い始めたのを感じた僕は、急いで話題を変えた。
でも、あの子のことを諦めた訳ではない。この時点で無理押しすれば、僕の思惑とは逆の結果を招きかねないと思ったからだ。
そのうち、きっとあの子の話に戻ってくる。勝負はそのときだ。
僕は、努めて明るい声で訊いた。
「僕が話していた相手は、一体、誰なんですか?」
腕組みをして、自分の足もとを見ていたお婆さんが顔を上げた。
お婆さんは言いにくそうな口調で「実を言うとな」とつぶやくと、僕から視線をそらした。
その後を集荷係が引き継いだ。
「あたしたちには、あなた様以外の声は聞こえないんです」
訳が分からなかった。
「どういうことですか?」
集荷係はうつむいたまま答えた。
「つまり、相手の女の人の声が、まったく聞こえないんです。波形でも調べてみましたが、なんの反応もございません」
お婆さんと集荷係が、納得いかないような顔をして画面を睨んでいた理由が分かった。 僕の声しか聞こえないなんて信じられないが、二人が芝居をしているとは考えられない。
と言うことは、やっぱり、あの声は空耳だったのだろうか。でも、会話方式の空耳なんて聞いたことがない。
どうして僕には、他人に聞こえない声が聞こえるのだろう。なぜ、僕は自分の取った行動を覚えていないのだろう。
やはり僕の脳に異常があるのだろうか。
また頭の中が混乱しそうになった。軽い吐き気のようなものを覚えた。
「このあたりで休憩しましょうか」
五分ほど後、気を利かせた集荷係が温かい緑茶と、茶菓子をもってきた。
湯飲みを受け取った僕は、バイクの前かごに入れたままのコーラを思い出した。
舗装なしの山道を十五分以上バイクに揺られたコーラ。降り注ぐ太陽の陽を浴びて、パンパンに膨れあがったペットボトル。もしかすると今頃破裂しているのかもしれない。乾いたコーラでべちゃべちゃになったバイクのボディー。
そんなこと頭の隅で考えながら、お茶を飲んでいる僕に、お婆さんが言った。
「実をいうと、声の主に、心当たりがないこともないんだ」
お婆さんには柔らかな笑みがあった。
さっきから黙っている僕に気を使ってくれているらしい。となれば、なにか言わなければならない。
「ほんとですか」
僕はとりあえずそう言ってから、頭に浮かんだことを口にした。
「さっき言っていた『あいつ』か『あっち』の、どちらかなんですね」
「勘がいいね、さすがだね」
褒められているのだろうか、からかわれているのだろうか。記憶力に難のある僕でも、同じ影像を何度も見ていれば、それぐらいのことは言える。
「ちょっと、待ってくださいね」
僕は声だけオンナの人物像を想像してみた。
状況からいえば、音響器機や電子器機に関する豊富な知識を持っている人間だろう。そうでなければ、声の方向を自由に操ったり、記録に残らない音声を作り出せるはずがない。
まてよ、女だとばかり思っていたけど、男だったのかもしれないぞ。ボイスチェンジャーか、その類いのソフトを使えば、声の質を簡単に変えることができる。
そのことを口にする前に、お婆さんが言った。
「消え女だろうね」
「キエオンナ」が、僕の頭の中で「消え女」に変換されるまで結構時間がかかった。
僕は壁時計に目をやってから言った。
「その女の人は、夜しか出てこれなかったんじゃないですか?」
「そこだよ、そこ」
お婆さんは嬉しそうに笑った。
「今の世の中、二十四時間営業は当たり前だからね。昼夜に関係なく現れるようになったんだろうよ」
二十四時間営業と聞いた僕は、なぜかコンビニを連想した。
でも、あの子がいるコンビニではない。あの店とは商売敵になるコンビニだ。
消え女は、最近売り上げが伸びずに悩んでいるコンビニのオーナー。
趣味はアマチュア無線。勧告を無視して規定以上の強力な電波を出す通信マニア。違法電波をまき散らす常習犯。
「消え女というのは、無線か何かを使って業務妨害をしている人のコールネームですか?」
「いや違う」
お婆さんは緑茶を一口啜った。
「このあたりに、昔から伝わる民話の中に出てくる女のことなんだよ」
あやうく、吹き出すところだった。
神の粒子と呼ばれるヒッグス粒子が見つかったこの時代に、民話の世界を信じている大人がいることがおかしかったのだ。
アポロ11号が月に着陸してから四十年以上経過している。小惑星探査機はやぶさは、60億キロの長旅を経て再び地球に戻って来た。今ではインターネット上でその日の火星の様子を誰でも見ることができるというのに、何を言い出すんだ、このお婆さんは。
でも、僕はこの手の話は好きだ。町並み保存に関する話よりも、ずっと僕の興味をそそる。