監視カメラが捉えていたもの
僕の体が反応したのは、コンビニという言葉だった。
でもそのときのことは僕の記憶の中には残っていない。
覚えてもいない。
思考回路に異変をきたした僕に代わって、そのすべてを克明に記録していたのは、エレベーターの上に設置されていた監視カメラだった。
カメラの映像を再生すると、こうなる。
「コンビニ?」
小さくつぶやいて天井を見上げた僕は、一瞬、何か思い出したような表情を浮かべて、素早い動きでズボンのポケットから小さな紙片を取り出す。
コンビニのレシートだ。
「すみません」
僕はお婆さんに、丁寧に頭を下げる。
「携帯の発信履歴を見せていただけませんか」
この時点で、お婆さんには何が起きたのか分かっていたようだ。
「ああ、いいよ」
落ち着いた声で答えたお婆さんは、履歴を表示した携帯電話を僕に手渡す。
液晶画面とレシートに視線を走らせた僕は、天を仰ぎ見る。
そして視線をお婆さんに向けて、震えた声で質問する。
「まさか、僕に一目惚れしたのは、あのコンビニの女の子じゃないでしょうね」
お婆さんは、大きく息を吐いてから言う。
「その、まさかだったんだよ」
そして、ぼそっと、付け加える。
「でも、もう遅いね」
絶望的な表情で、崩れ落ちるように膝をつく僕。
「大丈夫ですか」
集荷係が心配そうな表情を浮かべて、椅子を勧める。
ありがとうも言わず椅子に腰掛け「そんな、ばかな」を繰り返す僕の視線は、宙をさ迷っている。
「ねえ、ちょっと」
僕の横顔を眺めていたお婆さんが、集荷係を呼び寄せる。
「ひょっとすると『あいつ』が出て来たのかもしれないね」
その言葉を待っていたかのように、集荷係は大きくうなずく。
「私もそうじゃないかと思っていました。でも、この時間だと、どうなんでしょう」
集荷係が壁時計に目をやると、お婆さんもそれに倣う。
時刻は午前十時十三分。
お婆さんは少し考えてから言う。
「なるほどね、あいつだったら、まだ寝ている時間だね。とすれば『あっち』の方だろうか。でも、相手は女だと言ってたよね。どっちなんだろうね……」
お婆さんは、しばらく首をひねった後で、つぶやくように言った。
「いずれにしても、お清めの塩が必要だね」
「はい」
命令された訳でもないのに、集荷係は部屋を飛び出し、一分ほどで戻ってきた。
「粗塩が見つからなかったんですけど」
申し訳なさそうな声で言う彼女の手にあったのは、アジシオの小瓶。たぶん向こうの藁葺き家から持ってきたのだろう。
「大丈夫だよ」
お婆さんは、余裕のある笑顔を浮かべる。
「塩気があれば、なんでもいいんだ。頭のてっぺんに梅干しを一個乗せるだけでも効果があるらしいよ」
デテケ、デテケ、デテケ、デテケ、
おばあさんは、口の中で何度もつぶやきながら、僕にアジシオをふりかける。
僕が顔を上げたのは、それから三分ほど経ってから。
自分の腕の辺りに載っている塩粒を不思議そうに眺めながら、僕はお婆さんに訊く。
「何をしたんですか?」
お婆さんは、さらりとした口調で答える。
「簡単に言えば、悪魔払いだよ」
「悪魔払い?」
事態が呑み込めない僕は、お婆さんの言葉を繰り返す。
「悪魔? 悪魔払い? 何ですか、それ」
そんな僕の反応は、織り込み済みだったらしく、お婆さんは僕の質問を無視して「確認したいことが、あるんだけどね」と言う。
お婆さんの顔があまり近かったので、僕は思わず身を引いて「どうぞ」と答える。
「さっき、ロックオンって声が聞こえたと言ってたよね。ほんとうに聞こえたのかい?」
「ええ、もちろんです」
うなずく僕の目に光が戻ってくる。僕は何度もうなずきながら、はっきりした声で答える。
「空耳なんかじゃありません。間違いなく彼女の声でした」
僕の口調がしっかりしてきたからだろう、お婆さんは安心したような表情を見せて、質問を続ける。
「彼女って誰だい」
僕は、どうしてそんなことを訊くんですか、というような表情を浮かべて、机の上の携帯電話を指差す。
「今電話をされた女の子ですよ」
と言って、天井を見上げる。
「さっきまで話をしていました。まだどこかに隠れているはずです」
それから僕は天井に向かって呼びかける。
「もう、出ておいでよ。すべて終わったんだからさ」
何か不思議なものでも見たような顔をして、おばあさんが訊く。
「誰に言ったんだい?」
僕は自信に満ちた声で答える。
「僕が声だけオンナと呼んでいる女性にです」
「だめだ、こりゃ」
はっきり声に出してそう言ったお婆さんは、携帯電話の履歴を呼び出すと、僕の目の前に突き出す。
「この番号と、レシートの電話番号が同じだったことは、覚えているんだろうね?」
しかし、僕は首を振る。
「電話番号ってなんですか。レシートって何ですか」僕は苛立った口調で言う。「それが、僕とどんな関係があるっていうんですか」
驚いたような表情を浮かべたお婆さんは、念を押すように言う。
「つまり、あんたに一目惚れした相手が誰だったかも、レシートのことも覚えていないんだね」
「何度言えばいいんですか」
僕は呆れたような目でお婆さんを見る。
「全部覚えています。見合い相手は声だけオンナです。でも僕は、レシートなんか触っていません。もちろん、その携帯もです」
そこで言葉を切った僕は、お婆さんを睨んで提案を持ち出す。
「もし、この部屋に監視カメラが付いているのなら、それで確かめてみてください。誰が正しいか一発でわかると思います」
監視カメラの録画影像を繰り返し繰り返し見ていた僕は、意外な発見をした。
といっても、声だけオンナに関するものではない。
僕自身のことだ。
ひとつは嬉しいもの。もうひとつは残念なもの。
モニター画面に表示されているタイムコードによると、僕が「コンビニ」とつぶやいてから、椅子に座って「そんなバカな」を繰り返すまで十二秒を切っていたのだ。
もしかすると、切羽詰まったとき、あるいは危機に瀕したときの、僕の頭の回転は速い方かもしれない。
だが残念なことに、僕はそのことを全然覚えていなかった。
それだけではない、
監視カメラで確かめることを提案したことさえ、僕の記憶に残っていなかったのだ。
小学校以来、僕は学校の成績が極めて悪かった。僕自身は勉強時間が足りなかったせいだと思っていたが、そうではなかったらしい。
どうやら僕の脳の一部に、重大な欠陥があるようだ。
自分で見た夢のほとんどを覚えていない原因が、分かったような気がした。