痛恨の早とちり
「あんたも知っている子だよ」
「誰かしら?」
集荷係は首を傾げて、考えるような目をした。
「実を言うとな」
十秒ぐらいしてからお婆さんは、彼女の耳元で何ごとかささやいた。
もちろん、僕の見合い相手の名前に決まっている。
『ここで僕は声を大にして言いたい。もしあのとき、お婆さんの声が僕の耳に届いていたら、僕の人生は大きく変わっていた。でも、今更それを言っても始まらない』
「ほんとうなんですか?」
集荷係が目を輝かせて僕を見た。羨ましそうな目だった。お婆さんは、僕を見つめておもむろに口を開いた。
「一目惚れらしいんだよ」
僕の心臓がどきんと鳴った。
僕はこれまで、数人の女性に声をかけられたことがある。でもそれは全員キャッチセールスの人間だった。
女の子から、好きと言われたり、好意をもって話かけられたことは一度もない。
一目でいい、相手の顔を見てみたい。
突然そんな思いが浮かんできた。でも僕はそれをすぐに打ち消した。
一目惚れという言葉は、僕を深みに誘う甘い罠だと思ったからだ。
「せっかくですが」と僕は、はっきりした声で言った。「今日の話はお断りします」
お婆さんが、しわだらけの目を見開いた。
「断る? どうしてだい」
でも僕は何も言わなかった。言葉尻を捉えられてしまう恐れがあるからだ。
「どうして断るんだい。あたしは、まだ何も話していないよ。あんたは、相手が誰だか知っているのかい?」
僕の読みは当たった。そうくると思っていた。
ここで僕が、彼女が顔を見せないからです、と言うと、お婆さんは、きっとこう言う。
この後、お茶を持って現れる手はずになっていたんだよ。
そうなると、僕は何も言えなくなる。そのあとは、お婆さんの思惑どおりに事が進んでいく。
いやだ、阻止してやる。絶対に。
そこで僕は用意しておいた言葉を口にした。
「相手が誰であれ、断れと、僕の本能が言うんです」
「あらま」
お婆さんは気の抜けたような言葉を吐いた。
僕は間合いをとってから、ダメを押した。
「本能に逆らうことはできません」
お婆さんは、だだをこねるような口調で言った。
「そんな断りの言葉なんて聞いたことがないよ。あの子に、どう説明しろというんだい」
そのあとを集荷係が引き継いだ。
「ここで断るのはもったいないと思います。とても良い子なんです。もう少し考えてから判断されたほうがよろしいかと」
見事な連携プレイ。
でも僕は、そんな見え透いた芝居でだまされるような人間ではない。それにもう勝負はついている。もちろん僕が勝者だ。
何か言いたそうな目で僕の顔をじっと見ていたお婆さんが、根負けしたような声で言った。
「こんなところで立ち話もなんだから、中に入ろうよ」
僕はひとつうなずいてから言った。
「その代わり、お見合い話は二度と持ち出さないと約束してもらえますか?」
「あんたが、そこまで言うんなら仕方ないね」
渋い表情でそう言ったお婆さんは、部屋に入ると、入り口横の机の携帯電話を手に取った。そしてそばにあった椅子の一つを指差して「あんたはここに座って」と言った。
「もう一度訊くよ。本当に断るんだね。それでいいんだね」
いま約束したばかりなのに、またぶり返すつもりらしい。
全国相手の商売を続けるには、これくらいの執拗さが不可欠なのだろうが、それとお見合いを一緒にしてもらっては困る。
どうやら僕とお婆さんの性格は、正反対らしい。僕はそのことを暗に伝えた。
「僕は一度口にしたことは絶対守ります。たとえそれが自分にとって不利な約束だったとしてもです」
すると、お婆さんは深いため息をついた。
「初めて好きになった男に振られるなんて、あの子もかわいそうに」
同情を誘うような口調。でもそんな小細工は通用しない。
そこで僕は、もうひとつ用意していた言葉を放った。
「一言で言えば、縁がなかったんです」と言った後で「たぶん、そうだと思いますけど」と付け加えたのは、我ながら冷たい言葉だと思ったからだ。
「あの子は、どんな気持ちであたしの話を聞くんだろうね」
ため息交じりに言うお婆さんを見ていると、僕のほうが悪いことをしているような気がしてきた。
でもここは、心を鬼にしなければならない。僕はその言葉を聞き流した。
お婆さんは極度の遠視らしく、腕をいっぱいに伸ばして携帯電話のボタンを押していた。
その結果、僕の網膜に相手の電話番号が、勝手に飛び込んできた。
しかし、その時僕自身は、液晶画面の電話番号には気づきもせず、心の中でささやかな願い事をつぶやきながら、お婆さんの手元を眺めていた。
声だけオンナが、受信設定をマナーモードにするのを忘れていますように。
この部屋のどこからか、電話の呼び出し音が聞こえてきますように。
もちろん僕の目的は、お婆さんが取るリアクション。こんどこそ、慌てふためくかもしれない。そのとき、お婆さんはどんな、言い訳を口走るのだろう。
しかし僕の願いは叶わなかった。呼出音は聞こえなかった。バイブの音もなかった。
お婆さんが耳に携帯電話を押し当ててから、数秒で相手が出た。
「あのな」
お婆さんは少し低い声で言った。
「残念だけど、諦めるんだね」
あまりにも単刀直入な言葉に驚いた。
でも、お婆さんは僕に顔を向けると、小さくウインクして、こう付け加えた。
「奥さんがいるらしいんだよ。仕方ないね」
さすがはお婆さん。
感心した僕は、唇だけ動かして感謝の言葉を述べた、
(心遣い、ありがとうございます)
お婆さんはにこっと笑った。
「じゃあ、またあとでな」
それだけ言って電話を切ったお婆さんは、僕を拝むように両手を合わせて「お願いがあるんだ」と言った。
「あんたが本当に奥さんをもらうまで、あの子と顔をあわせないようにして欲しいんだよ。あたしが嘘をついたことを知られたくないからね」
話の流れからすると、それは当然だろう。
だが、はい、分かりましたの一言で済ます訳にはいかない。
どこに隠れているのか分からないが、声だけオンナは今もモニター画面を見守っているはず。
それに信じられない話だが、彼女にとって、僕は初恋の人になるらしい。だったらそのお礼も含めて、僕なりのアドバイスをしてあげよう。
たぶん隠しカメラは天井だろう。
「わかりました」
僕はそう答えてから、天井付近を見回して、心の中でつぶやいた。
何の取り柄もないこんな僕を好きになってくれてありがとう。
それから視線をお婆さんに戻した。
「その代わり、彼女に、伝えてほしいことがあるんですけど」
「ああ、いいよ」
僕はもう一度天井を見上げた。
「顔を見せ合うから、お見合いというのだと思います。今度誰かを好きになったら、最初から顔を見せるように言って下さい」
そこまで言って再び視線を戻した僕は、唖然となった。
お婆さんの顔から、表情が消えていたのだ。
どうしたんですか、と言おうとしたところで、ははあ、と思った。
また何か企んでいる。動揺につけ込むつもりなんだ。ここで話を止めると、お婆さんのペースに乗ることになる。だが、そうはさせない。
僕は余裕を見せつけるために、笑顔を作って続けた。
「男は全員面食いだと思ったら大きな間違いですよ。もし彼女が、一秒でも顔を見せてくれたら、違う結果になっていたかもしれません。でもざんねんながら、僕には声だけで相手を判断する能力はないんです」
「声だけって、どういうことなんだい?」
かすれたような声で、お婆さんが言った。
本当なら、この言葉と、それまでのお婆さんの表情の変化で、自分の勘違いに気づかなければならないところだ。
しかし、浅はかな僕は、それを見逃してしまった。
いつまで下手な芝居を続けるのだろうと、憐れみに似た気持ちでお婆さんを眺めていたからだ。
しかし、僕の余裕もそこまでだった。
「あんたは、あの子と会ったんだろ。だからここまでやって来れたんだろ。コンビニで道を教えてもらったんじゃなかったのかい?」
思考より先に、体が反応していた。
僕の体が、びくんと震えた。
頬の筋肉が固まるのが分かった。