元の世界。新たなる疑問
話の流れからすると、彼女を傷つけた、あるいは怒らせたのは僕らしい。
でもそんな自覚はなかった。
自分が置かれている状況を、そのまま伝えたつもりだった。
蜂蜜風呂という例えがいけなかったのだろうか。
蜂蜜と暗闇との繋がりが気に入らなかったとすると、彼女は養蜂業者と深い関わりをもっている可能性がある。でもそうなると、この世界にも経済や流通システムが存在することになる。いくらなんでも、それはないだろう。
そんなことを真剣に考えていた僕は、暗闇の様子が変わっていることに気づいた。
動きを邪魔するような粘着感がなくなっていたのだ。しかしそれに変わって、酸素密度が低下しているような気がした。
ちょっと待てよ。以前、これと似たような体験をしたことがあったぞ。
記憶を探るうちに、思い出した。
幼い頃、祖母の家の縁側で昼寝をしていたときの、あれだ。
宇宙飛行士になった僕が、宇宙船から放り出される夢。
遠ざかる宇宙船。暗黒の世界にただ一人取り残された僕。宇宙服の酸素が空になったことを示す赤い光の点滅。
「誰か、助けてぇー」と叫んだところで目が覚めた。
しかしそれでも自分が目覚めたことに気づかなかった。やはりそこも、暗黒の世界だったからだ。
ここはどこ?
幼稚園生の僕は考えた。
宇宙服も着ていないのに、どうして息ができるんだろう。
首をひねった僕のすぐ近くで、ゴロゴロと雷が鳴った。反射的に首をすくめると、ニャーォという声が聞こえた。
あの日と似ている。
あの時は、昼寝をしていた僕の顔に近所の野良猫が体をあずけていた。
ひょっとすると、ここはまだ白い世界なのかもしれない。
一時的に光が遮断されているだけ。その後ろには光が溢れているはず。
そんな気がした僕は、手のひらに神経を集中させて、そっと片手を伸ばした。
何かがいた。というか、何かがあった。
それが何なのかは分からなかった。しかし手触りに覚えがあった。
毛並みのいい動物の背中を撫でているような感じ。でも、動物ではない。心音や血液の流れを感じなかった。
僕は考え方を少し変えてみた。
いま僕は大きな袋の中に閉じ込められている。一瞬で光が消えたように見えたのは、投網のようなものを頭から被せられたから。
そう考えると、納得できそうだった。
そっと足を持ち上げてみた。
なんの抵抗もなく足は動いた。
指先にやわらかな感触があった。
どう猛な生き物や、毒を含んだ植物の感じはなかった。動物で言えば子ウサギ。植物で言えばレタスだろうか。
完璧に勝つ自信があった。
こいつを払いのけると、再び白い世界が現れる。
本能的にそう思った僕は、さっそくそれを実行することにした。
俺は一度死んだ人間。この際、死後の世界がどんなものなのか、決定的に追求してやる。
何度も同じことを言うようだが、本当にそのときも、そう思った。
僕は静かに息を吸い込んだ。そして胸いっぱいになったところで両足を、そっとたたんだ。
叩けよ、さらば開かれん。
その言葉を思い出した僕は、頭の中でつぶやいた
「死に気で蹴あげれば、暗闇なんか木っ端みじんに砕け散る」
よし、カウントダウン開始。
僕は息を止めた。そして、頭の中で数をみっつ数えた。
スリー、ツー、ワン、ゼロのタイミングで、たたんでいた両足を思いっきり伸ばした。
一瞬で闇が吹き飛んだ。
まばゆい光が網膜に突き刺さった。もちろん痛みは感じなかった、でも、僕は目をつぶった。
そして思った。
やっぱり予想どおりだった。ここは白い世界に間違いない。
眩しさに目が慣れてきた僕は、そっと目を開けた。
「あれっ?」
思わず首をひねった。
確かに光が溢れていた。新鮮な空気もあった。でも、白い世界ではなかった。
足元に丸まっている黒い物体は、僕がいつもかぶっている毛布。
それが分かるまで、ずいぶん時間がかかった。
「なんだよ、もう」僕は大声をあげた。「全部、夢だったのかよ」
自分のほっぺたを両手で思い切り叩いた。
パチーン、
実に爽快な音がして、頭の中と、目の焦点がしゃきっとなった。
最初に玄関に行った。
もちろん、新聞受けを確認するためだ。
新聞は貯まっていなかった。ハガキも封筒も宅配ピザのチラシも入っていなかった。
やっぱり全部夢だった。ほっぺたは痛いし、匍匐前進をしなくても、こうやって歩くことができる。
知らないうちに、玄関の壁に手をついて大声で笑い出していた。
夢の中とはいえ、自分の努力で白い世界から脱出できたという思いが、心のどこかにあったからだろう。
何がトリエステだ。何が専用ベッドだ。何がコーススレッドだ。
誰に言うともなくぼやいた僕は、急に空腹感を覚えた。
「我が家の教訓」僕は笑いながらつぶやいた。「腹が減ったら、怖い夢をみる。みたくなければ、たらふく飯を食ってから寝ること」
と言って、何気なく室内に目を移した僕の心臓が、ドキンと鳴った。
壁時計は、三時十九分六秒を指していた。
赤い秒針は動いていなかった。
おいおい、またしても、新しい夢の世界にワープしたのかよ。もう勘弁してくれよ。
Pなら、絶対にそう言う。実際、僕もそう思った。
しかし、夢の世界ではなかった。
目の前にあったのは、間違いなく僕の部屋だった。




