暗闇で鳴り響く音
鼓膜が破れそうなすさまじさに、思わず耳を押さえた。するとそれを待っていたかのように、目の前が真っ暗になった。
でも僕はあわてなかった。
何も見えなくなったが、白い世界が黒い世界に変わっただけ。上も下も分からないのに変わりはない。
だが、無性に腹が立った。
といっても、どこかに消えたトリエステにではない。頭上で鳴り響く雷に対してだ。
僕は雷は大好きだ。
僕にとって稲妻は、くすみがちな僕の心をきれいにしてくれる浄化剤。雷鳴は、くじけそうになる僕を励ましてくれる応援歌。
たぶんそれは祖母から『雷様は人間が汚した空気をきれいにしてくれる。雷が多い年は豊作になる』という話を何度も聞かされていたからだろう。
「何だ、お前は」僕は雷に向かって怒鳴った。「それが、数少ない理解者に対する態度なのか。もし歓迎しているのなら許してやる。でも、あまりにも音が大きすぎる。ものには限度というものがあるんだ。雷の世界だか何だかしらないが、邪魔だ、うるさい、ささっとどっかに行っちまえ」
闇に向かって叫ぶと、不思議なことが起きた。
雷鳴が静かになったのだ。それだけではない。後ずさりするように、そろりそろりと動きはじめたのだ。
ここの雷には意思のようなものが備わっているのだろうか。
だとすると、言い方が強すぎた。僕は遠ざかる雷鳴に声をかけた。
「黙れ、って言ったわけじゃないんだ。少し静かにするだけでいいんだ」
すると、機嫌のいい猫のような、ゴロゴロという小さな音が返ってきた。
真っ暗闇はご免だが、この音を毎日聞けるのなら、雷の世界も悪くなさそうだ。
そんなことを考えていた僕は、あわてて頭を切りかえた。
先ほどの指先の感触を思い出したからだ。
あれはトリエステだったかもしれない。いや、トリエステ以外に考えられない。遠くに行ったのは音声だけ。本体は残っているはず。
希望が湧いてきた。
だとすると、僕のすぐ近くに浮かんでいる可能性がある。しかしへたに手を動かすと、遠くにはじき飛ばしてしまう恐れがある。そうなると、本当に永遠に会えなくなる。ここは慎重に、慎重に。
僕は、おそるおそる闇の中に右手を伸ばした。
手に触れるものは何もなかった。
今度は左手。
こっちにも何もない。
やはり、左後方だろうか。
体の向きを変えようとしたところで、急に体が重くなった。蜂蜜を入れたプールの中に放り込まれたような錯覚を覚えた。
やれやれ、
勝手に大きなため息がもれた。
全身の力が抜け落ちた。
このまま固まってしまうのだろうか。雷の音を聞きながら、永遠に暗闇の中に閉じ込められてしまうのだろうか。
でも、これが運命だったとすれば、あきらめるしかない。
「はいはい終わり、はい終わり。あとは勝手にやってくれ」
ふて腐れた声でそう言った僕は、あることに気がついた。先ほどまでかすかにゴロゴロと鳴っていた雷鳴が、別の音に変わっていた。
でも、まさか、そんな、と思った。
それが、電話の呼び出し音にそっくりだったからだ。
雷の音が重なると、こんなふうに聞こえるのだろうか。
目を閉じて、耳を澄ませた。
リリリリリーン、リリリリリーン。
間違いない。と言うか、僕には電話の呼び出し音にしか聞こえなかった。
いよいよ、聴覚までおかしくなってきたぞ。
だが、まてよ。
僕の脳裏に、先ほどのトリエステとの会話がよみがえった。
『他にどんな世界があるの?』
と僕は言った。それに対してトリエステはこう答えた。
『元の世界に戻る気がなければ教えて上げてもいいわよ』
はい、他にもいろいろな世界があるんです、と言っているようにも聞こえる。しかし、いくらなんでも、電話の着信音の世界なんてものが存在するはずがない。
そんなことを考えていると、その音は次第に近づいてきて、手を伸ばせば届くくらいのところで停止した。
どう考えても、電話の着信音だった。
さて、どうしよう。
すこしだけ迷った。だってここは、闇の世界。どんな魔物が棲んでいるか分からない。着信音と同じ声を持つ怪獣が潜んでいてもおかしくない。
しかし、危険な気配は感じなかった。それに、僕に迫ってきたというより、すり寄ってきたような感じを受けた。
いずれにしても、僕は一度死んだ人間。二度死んだらどうなるか見てやろう。
自分が置かれている状況が分からないまま、僕は音のするほうに手を伸ばした。
手先に固いものに触れた。
残念ながらトリエステではなかった。
それが携帯電話だというのは手触りで分かった。着信音だけでなく、小刻みに震えていた。
僕は気持ちを決めた。
携帯電話で感電死した人はいないだろう。
軽く触ったつもりだったが、着信ボタンを押してしまったらしい。
とつぜん女の声が聞こえてきた。
「モシモシ」
その声に思わず反応してしまった。
「トリエステだよね」
言ったあとから人違いだと気づいた。
「いえ、そうではございません」
初めて聞く声だった。
「○○様でいらっしゃいますか?」
相手は僕の本名をフルネームで言った。
混乱する頭で考えた。
これから、どこかに向かうための手続きが始まるのだろうか。
だとすれば、ここと、元いた世界との間に事務的な取り決めがあるということになる。一体、だれが決めたのだろう。これまであの世に旅立った政治家や、役人たちだろうか。
「モシモシ、○○様」
再び声がした。
「はい、何でしょう」
僕はそれだけ言って出方を待った。
「何度も電話を差し上げて申し訳ございませんでした。お取り込み中でしたら、後ほどかけ直しますが……」と言ったところで、相手は自分が名乗っていないことに気づいたらしい。
「誠に失礼しました。わたくし、△△の××と申します」
ますますわけが分からなくなった。
△△というのは、僕が登録していた人材派遣会社。
もちろん元の世界にいたときの話だ。
「電話を差し上げたのは、○○様の担当になったことをお知らせするためでございます。ご質問や要望がございましたら、どのようなことでもかまいません。遠慮なくお申し付けください」
僕はしばらく、しかし、真剣に考えてから口を開いた。
「分かりました。いくつか質問したいことがあるんですけど」
「どうぞ」
事務的な声のあと、僕は「まず最初の質問です」と言った。「ここはどこなの?」
十秒ほどの沈黙。担当者は念を押すような口調で言った。
「真面目に答えてよろしいでしょうか?」
「もちろん」
「では、わたくしの質問にお答えください」担当者は小さく咳払いをした。「○○様がお知りになりたいのは、私共の所在地のことでしょうか。それとも、今○○様がいらっしゃる場所のことでございましょうか」
僕は少し考えてから答えた。
「じゃあ、こうしましょう。僕があなたの会社の住所を言います。それが当たっていたら、はい。間違っていたら、違います。そう答えてくださいませんか」
こんどの沈黙は先ほどよりも長かった。
「承知いたしました」開き直った声に聞こえなくもなかった。「ではどうぞ」
元の世界で記憶していた人材派遣会社の住所を言った。
相手は、はっきりした声で答えた。
「はい、そのとおりでございます。○○様」




