予期せぬ雷鳴
それからトリエステは「私の言うとおりにするだけでいいの」と言った。そして最初の指令を出した。
「まず、目を閉じて」
言われたとおりにすると、僕の体だけが見えなくなった。どうやら僕の脳は、僕の目の開け閉めを感知するようになったようだ。
「その状態で深呼吸を繰り返してほしいの」
「何回?」
「あなたの好きなだけ」
腹式呼吸のほうがいいのかな、と言おうとしたが、その指定はなかったので、普通に息を吸い、普通に息を吐いた。
三回ほど深呼吸をしたところで、トリエステが「質問があるんだけど」と言った。
「何?」
「どうだったのかしら?」
ついに始まったぞ、と思った。
短い言葉の中に、悲しみを我慢しているのがはっきり読み取れた。
トリエステは覚悟を決めている。残された時間はごくわずか。分かっていた。でも僕は聞こえなかったふりをして「何が?」と言った。
胸に詰まっている熱いものが一気に流れ出すのを恐れたように、トリエステは言葉を短く切って「わ、た、し、の、こ、と」と答えた。
冗談ぽく聞こえるだけに、余計に悲しみが伝わってくる。
「君がどうしたって言うの?」
と言いながら、考えた。
声は前方から聞こえてくる。でも、トリエステはそこにはいない。
今の状況は、パソピアとまったく同じ。あのときトリエステはショーケースの中にいた。にも関わらず、声はあらゆる方向から聞こえてきた。
トリエステがいるのは僕の左後ろ。それに間違いない。
「きっと、迷惑だったんでしょうね」
反省したような声に胸が詰まった。と同時に、絶対に連れて帰る、という思いが強まった。
「そんなことはないよ」僕は過去形にならないような言葉を選んだ。「君といると楽しい」
「ほんとかしら」
嬉しそうな声だった。
僕は以前取り消したあのことを元に戻した。
「君は、僕の理想像なんだ」
「私が?」トリエステは小さな笑い声を上げた。そしていつものような言い回しで言った。「ゲテモノ食いって言われたことがあるでしょう」
「ない」きっぱり否定してから言った。「今、君がなにを考えているか分かる」
しばらくの沈黙のあとトリエステが言った。
「私の何がわかるの?」
「結論だけ言う」と僕は言った。「君を連れて帰る。目を開けたら、そこは僕の部屋。僕たちは永遠に離れない。ずっと一緒に暮らす」
鼻をすするような音が聞こえた。
「ありがとう」
その声は震えていた。僕はその続きを待った。だが、トリエステは何も言わなかった。
どうしたの?
と言おうとしたところで、背中に妙な温かさを感じた。
「いよいよ最終段階に差しかかったようだね」と僕は言った。「火葬場の煙がやってきたみたい」
気持ちを落ち着かせるためなのか、トリエステは小さな咳払いをした。そして念を押すように「お願いだから、私の名前以外の言葉を言わないでね」と言った。
もちろん、そうするつもりだった。だが、お願い、という言葉に何か意味があるような気がした。
「もし、違うことを言ったらどうなるの?」
「雷の世界に直行」
まさかここにきて、違う世界の話が出てくるとは思わなかった。ここはターミナル駅のような場所なのだろうか。
「他にどんな世界があるの?」
興味本位で訊いてみた。
「元の世界に戻る気がなければ教えて上げてもいいわよ」
冗談とも本気ともつかない声に、それ以上の質問ができなかった。
「分かった。深呼吸を続ける」
こんどは腹式呼吸を試すことにした。一回、二回、三回、四回と繰り返すうちに、体が軽くなっていくような気がした。
このままあの世に直行するのだろうか。
と思ったが、僕の体内ではそれとは逆の現象が起きているようだった。
体の芯に、パッと火が灯ったような感じを覚えた。
もしかすると、
そっと左手の指先に力を入れてみた。
かすかに指が動くのが分かった。
だが、そのことをトリエステには言わなかった。僕は一旦深呼吸を止めた。そして、左後ろに意識を集中しながら口を開いた。
「どうすれば、元の世界に戻れるの?」
「私が三つ数を数える」トリエステはそこで深いため息をついた。「ゼロと言ったら、私の名前を呼んで」
「ずいぶん簡単だね」と言った僕は、体をすこしねじってみた。動いた。
よし、いつでもこい。
心の中で気合いを入れて、合図を待った。
「じゃあ、始めるわね」
トリエステはそう言った。しかし、カウントダウンは行われなかった。真正面から涙ぐんだ声が聞こえてきた。
「あなたに会えてよかったわ。思い残すことは何もない」
呆気にとられた僕は「ちょっと、待ってくれ」と言った。「カウントダウンはどうなったの?」
「もう間に合わないの、だって、ほら」
突然目の前が明るくなった。息が止まるほどの熱風を感じた。何が何だか分からなくなった僕は、思わず目を開けた。
目の前に輝くものが浮かんでいた。
中心に何かが見えた。こっちをみているような気がした。
僕は目を細めた。
人のようなものが見えた。
「だれ?」
と言ったあとで、いけないと思った。魂を奪われるような美しい光の玉だったからだ。すぐ言い直した。
「どなたさまでしょうか」
「あなたのことは忘れない」
まぎれもないトリエステの声だった。
光の玉がふわりと浮いた。
「さようなら」
遠ざかる光の中から声だけが聞こえてきた。
「だめ、行っちゃ、だめ!」
叫んだ僕の体がひとりでに左後方に動いた。
僕は反射的に右手を差し出した。
こつん、
指先に固いものが触れた瞬間、耳をつんざくような雷鳴が鳴り響いた。




