婚約破棄されて祭壇の管理人にされた聖女ですが、死者と喋れるので全部バラします〜霧の祭壇へようこそ〜
「──お前との婚約は破棄する。呪われた聖女など、霧の祭壇にでも捨て置けばいい」
夜会の大広間。シャンデリアの光の下、王太子ジェラルドが高らかに宣言した瞬間、居並ぶ貴族たちの視線が一斉にわたくしへ突き刺さった。
(バイタル安定。患者は興奮状態、脈拍上昇中。……よし、傾聴開始)
内心でそう呟いて、わたくし──セレスティア=リヴィエールは、静かに睫毛を伏せた。
前世の記憶がある。佐倉澪、三十四歳。現代日本の霊安室勤務、看取り一筋のベテラン看護師。理不尽な死とクレーマー遺族をさばき続けた末に、過労で倒れて二度と目を覚まさなかった女。
だから、この程度の断罪劇では、涙ひとつ出やしない。
「聞いているのか、セレスティア!」
ジェラルドの隣で、栗色の巻き毛の男爵令嬢ミリアが、潤んだ瞳をこちらへ向けた。
「セレスティア様がぁ……王家の宝物庫から、神器を盗んだのを……わたし、見てしまったんですぅ」
舌足らずな声。震える肩。庇護欲をそそる、完璧な演技。
(おや。天使のようなお顔で、随分と器用に嘘をつきますこと)
わたくしは知っている。この娘が本物の泥棒だということを。なぜなら――死者は、嘘をつけないから。
だが、今は言うまい。証拠がない。感情論で喚くのは、前世で散々見てきた無能なクレーマーの所業だ。
「証言は、ミリア嬢のお言葉のみ。物証は、ございませんのね?」
わたくしが淡々と問い返すと、ジェラルドの顔がわずかに歪んだ。
「……っ、口を慎め! 呪われた力で人の心を惑わす、貴様の言葉など信用ならん!」
(ああ、これは「思考停止」の症例ですね。検証を放棄した脳は、こうも脆い)
わたくしは、ゆっくりと微笑んだ。完璧な貴族令嬢の微笑みで。
「かしこまりました。では、謹んで霧の祭壇へ参りますわ」
ざわり、と広間が揺れた。
霧の祭壇――歴代の管理人が一年以内に発狂または失踪する、呪いの左遷先。「実質死刑ね」と誰かが囁く声が聞こえた。
だが、わたくしは笑いを堪えるのに必死だった。
(死者と喋れる祭壇ですって? ……それ、わたくしの天職ではありませんこと)
スカートの裾を優雅に持ち上げ、わたくしは一礼した。
「皆さま、どうぞお元気で。──ああ、それと」
扉の前で、一度だけ振り返る。
「盗まれた神器、いずれきっと見つかりますわ。案外、近くにあるものですのよ」
ミリアの肩が、ぴくりと跳ねたのを、わたくしは見逃さなかった。
(ミリア嬢の肩が、ぴくりと跳ねましたわね。……ええ、覚えておきますとも)
◇◆◇
霧の祭壇は、噂に違わぬ場所だった。
深い森の奥、白い霧が絶えず漂う古い石造りの神殿。門をくぐった瞬間、わたくしの耳に、無数の声が押し寄せてきた。
『おい、生きてる人間か?』
『助けて、私、まだ帰れないの』
『息子に、伝えたいことが……』
『聞こえてるんだろう、聞こえてるんだろう!』
半透明の死者たちが、祭壇の広間を埋め尽くしていた。数十、いや数百。歴代の管理人が逃げ出した理由が、たった一日で理解できた。
四六時中、話しかけてくるのだ。
(なるほど。これは普通の人間なら三日で参りますね)
だが、わたくしは違う。
パンパン、と手を叩いた。凛と、しかし穏やかに。
「はい、皆さま、落ち着いてくださいませ。お一人ずつ、順番にうかがいますわ」
死者たちが、ぴたりと静まった。
「番号札……はございませんから、そうですわね。まずは、一番お困りの方から。未練の重い順に、列を作ってくださる?」
ざわめきが、整然とした列に変わっていく。
これだ。これが看護師の仕事だ。パニックの現場でこそ、トリアージ。緊急度の高い者から、順に。
わたくしは持参した一冊の帳簿を開き、羽根ペンを構えた。前世で何千枚と書いた、看護記録と同じ要領で。
「お名前と、亡くなられた日時。そして――一番伝えたいことを、どうぞ」
最初の死者は、若い冒険者だった。
『……オレ、北の洞窟で魔物にやられて。仲間に伝えたかったんだ。あそこにゴブリンの巣がある、近づくなって……』
「魔物の巣の、正確な位置。承りましたわ。……これは冒険者ギルドが喉から手が出るほど欲しい情報では?」
さらさらと記録する。
次は、行商人の老人。
『わしが埋めた財宝がな、東の枯れ井戸の底に。娘に、渡してやりたかった……』
「枯れ井戸、東。ご息女のお名前は? ……はい、必ずお届けしますわ」
次から次へと、死者が語る。戦死した兵士は戦場の真実を、病死した貴婦人は隠した遺言を。
夜が明ける頃、わたくしの帳簿は、びっしりと埋まっていた。
(情報の宝の山、ここにあり。……皆さん、生前よりよっぽど口が達者ですのね)
窓の外、霧が薄れて朝日が差し込む。
わたくしは、そっと帳簿を撫でた。
「さて。この情報たち、きちんとお金に換えて――皆さまの未練、一つずつ晴らして差し上げますわ」
左遷された聖女の、第二の人生。その初日は、思いのほか、悪くなかった。
◇◆◇
「聖女さん、あんた……本気で死人と商売する気か」
祭壇に転がり込んできた冒険者崩れの女――リゼット=カーマインが、呆れ顔でわたくしを見た。
栗色の短髪をかき上げ、腰に手を当てる姿は、いかにも姉御肌。だが、その瞳には鋭い光がある。
「あなた、鑑定のギフト持ちですのね。『真贋』――物や言葉の真偽を見抜く」
わたくしが言うと、リゼットは片眉を上げた。
「なんで分かった」
「死者が教えてくれましたのよ。この祭壇に、面白い生者が迷い込んできたと」
実演してみせましょう、とわたくしは帳簿を開いた。
「東の枯れ井戸に、行商人の遺した財宝が埋まっています。あなたの鑑定で、この証言が本物かどうか、確かめてくださらない?」
半信半疑のリゼットを連れ、枯れ井戸へ向かう。
井戸の底から掘り出された、革袋いっぱいの金貨。
リゼットが、ぽかんと口を開けた。
「……マジかよ。革袋いっぱいの金貨が、ほんとに出てきやがった」
「遺族のご息女にお届けすれば、感謝され、手数料もいただけますわ。魔物の巣の情報は冒険者ギルドへ。戦場の真実は、歴史家へ」
わたくしは帳簿を掲げた。
「死者の証言を記録し、あなたの鑑定で真正性を保証する。『死者専門・遺言代行ギルド』ですわ。――どうかしら」
リゼットは、しばらく黙り込んでいた。そして、にやりと笑った。
「……いいね。乗った! あんた、とんでもない聖女さんだよ」
こうして、霧の祭壇は変わり始めた。
遺族が財宝を受け取りに来る。冒険者が魔物の情報を買いに来る。歴史家が戦場の真実を求めて訪れる。
「あの世で一番信頼できる情報屋」
そんな噂が、じわじわと大陸に広がっていった。呪いの左遷先は、いつしか人が絶えない名所へと変貌していた。
そんなある日のこと。
祭壇の隅で、ずっと半透明のまま佇んでいた大きな影が、ぼそりと呟いた。
「……騒がしくなったな」
黒い角、金の瞳、威圧感のある長身。数百年、この地を守ってきた『番人』――竜人の亡霊、グレン=ヴァルドレイ。
歴代管理人を震え上がらせてきた、寡黙な英雄。
わたくしは、湯気の立つカップを差し出した。
「グレン様。前世の知識で再現した、薬草のドリップコーヒーですわ。いかが?」
グレンは、じろりとわたくしを睨み――そして、そっとカップを受け取った。
「……いらぬ、と言いたいところだが」
一口。
「……貴様の淹れるそれは、悪くない」
ふい、と顔を背ける竜人将軍。その半透明の頬が、わずかに緩んでいたのを、わたくしは見なかったことにした。
(あら。国宝級の英雄が、随分と可愛らしいこと)
◇◆◇
その死者は、ある雨の夜、霧の奥から静かに現れた。
実直そうな壮年の文官。半透明の身体に、深い無念を滲ませて。
『……ここは、死者の声を聞いてくれる祭壇だと聞きました』
「ええ。どうぞ、おかけになって。お名前と、亡くなられた経緯を」
羽根ペンを構えるわたくしに、彼は名乗った。
『テオドール。王家の……先代の、宝物庫管理官です』
わたくしの手が、止まった。
宝物庫管理官。神器が盗まれたと騒がれた、あの宝物庫の。
「……あなた、どのようにして亡くなられましたの」
テオドールの瞳が、底冷えする光を帯びた。
『毒殺です。私が飲まされたのは、無味無臭の“銀涙草”。……宝物庫から神器が盗み出される現場を、目撃してしまったために』
羽根ペンを持つ指に、力がこもる。
「盗んだのは、誰ですの」
『私を殺し、神器を盗んだのは……男爵令嬢ミリア。そして、その裏で糸を引く――宰相アルベリク=ドゥ・モンフォールです』
雨音が、やけに大きく聞こえた。
(……やはり。わたくしを陥れた張本人たちが、真犯人でしたか)
リゼットが、隣で息を呑む。
「聖女さん、これ……あんたの冤罪の、決定的な――」
「ええ。ですが、感情論では勝てませんの。喚く遺族より、記録を突きつける看護師のほうが、常に強いのですわ」
わたくしは、静かに頷いた。だが、胸の中は、驚くほど凪いでいた。
「テオドール様。焦らず、一つずつ、教えてくださいませ。毒を盛られた日時。神器を運び出した経路。宰相とミリアの会話。――覚えている限り、全て」
テオドールが、わずかに目を見開いた。
『……あなたは、私の言葉を、信じてくださるのですか』
「信じるも何も。死者は、嘘をつけませんもの。そして、わたくしはその証言を、時系列・物証・状況の三点で裏取りいたしますわ。――リゼット、鑑定を」
「おう。真贋、発動。……嘘、なし。この人の証言、百パーセント真実だ」
わたくしは、新しい帳簿を開いた。表紙に、こう書き記す。
『宰相アルベリク・男爵令嬢ミリア――横領・密輸・殺人 立件記録』
「さあ、テオドール様。あなたの無念、わたくしが晴らして差し上げます。――ついでに、わたくしの汚名も」
窓の外の雨が、少しずつ、上がっていった。
◇◆◇
それから半月、わたくしは徹夜で帳簿を編み続けた。
前世の看護記録の要領で。一つの証言を、複数の視点から突き合わせる。
毒殺されたテオドールの証言。同じ時期に城で亡くなった侍女の亡霊が語る、宰相の不審な深夜の来訪。国境で命を落とした密輸船の船乗りの亡霊が明かす、神器の国外搬出ルート。横領された金の流れを知る、元会計官の亡霊。
バラバラだった死者たちの断片が、一つの完璧な絵図として繋がっていく。
「……できましたわ」
わたくしは、束になった帳簿を机に並べた。
リゼットが、ページをめくって唸る。
「すげえ……密輸のルート、横領の金額、殺しの手口、全部、日付と場所が一致してる。証人が全員、別々に喋ってるのに、矛盾が一個もない」
「死者は嘘をつけませんもの。そして、口裏を合わせることもできませんの。だからこそ――整合性が、動かぬ証拠になりますのよ」
さらに、わたくしはギルドの取引記録を突き合わせた。死者から得た情報を、いつ、誰に、いくらで売ったか。その全記録が、証言の裏付けとなる。
完璧だった。感情も、憶測も、一切ない。ただ、記録と証拠だけが、山のように積み上がっていた。
「ねえ、聖女さん。これ、王家に送りつけたら……あんた、宰相を敵に回すことになるぞ。相手は国のナンバー2だ」
わたくしは、羽根ペンの先を、ふっと吹いた。
「あら。わたくし、すでに『呪われた聖女』として捨てられた身ですのよ。これ以上、何を恐れることが?」
淡々と、けれど確かに。
「それに――理不尽に殺された方々の無念を、記録したからには、届けるのが筋ですわ。前世でも今世でも、わたくしの仕事は、変わりませんの」
死者に寄り添い、生者に真実を届ける。それが、看取りの聖女の務め。
わたくしは、一通の報告書に封をした。差出人の署名は――『霧の祭壇管理人』。
「さあ、リゼット。この報告書を、王家へ。正式な手続きで、記録として残る形で」
そのとき、部屋の隅で、グレンがぽつりと言った。
「……危険ならば、俺が付いていく」
わたくしは振り返り、驚いた。半透明の竜人が、金の瞳を細めて、わたくしを見つめていた。
「グレン様?」
「……貴様に何かあれば、コーヒーが飲めなくなる。それだけだ」
ぶっきらぼうに顔を背ける英雄に、わたくしは、思わず小さく笑ってしまった。
「ふふ。ありがとうございます。――でも、大丈夫ですわ。今回、わたくしは指一本、動かしませんの」
報告書は、静かに王都へと旅立った。そして、王都で、地獄の釜が開く。
◇◆◇
王都は、大混乱に陥っていた。
『霧の祭壇管理人』名義で届いた一通の報告書。それをきっかけに、宰相アルベリクの不正が、次々と露見していったのだ。
横領。密輸。そして――先代宝物庫管理官テオドールの、毒殺。
決定的だったのは、証言だった。死んだはずの証人たちの、あまりにも整合性のとれすぎた証言群。日付、場所、金額、手口――そのすべてが、寸分の狂いもなく一致していた。
王城の大広間。糾弾の場に、宰相アルベリクは引きずり出された。
「……証拠なきお言葉は、宰相たる私には届きませぬな」
白髪を撫でつけた老獪な男は、なおも慇懃に微笑んでいた。
「その証言とやら、すべて死人のものでしょう。死人が、どうやって法廷で証言を? ――死人が喋るはずがない!」
その瞬間だった。大広間の空気が、ざわりと揺れた。
霧が、どこからともなく満ちていく。そして、その中から――半透明の文官が、静かに姿を現した。
テオドール。
「……ひっ」
宰相の顔から、初めて余裕が消えた。
わたくしは、広間の入口に立っていた。報告書の証人として、正式に召喚されて。そして、テオドールの霊を、この場に喚び出したのだ。
「宰相アルベリク=ドゥ・モンフォール様。死者は、喋りますのよ。――ただし、嘘だけは、つけませんの」
テオドールが、ゆっくりと宰相に歩み寄る。その穏やかな瞳が、底冷えする光を帯びた。
『久しぶりですね、宰相殿』
「く、来るな、化け物……!」
『では、あなたが私に盛った毒の名を――当ててみせましょうか?』
宰相の顔が、蒼白になる。
『私が飲まされたのは、無味無臭の“銀涙草”。あなたが調合したものですね、宰相殿。あの夜、宝物庫の帳簿を書き換えるあなたを、私は見た。だから、あなたは私を殺した』
「ち、違う、私はっ……」
『違わない。あなたは、神器を盗んだ。その罪を、セレスティア様に着せた。――そして、ミリアという娘を、実行犯に使った』
広間中の視線が、一人の男爵令嬢に集まった。
ミリアが、ぶるぶると震えていた。潤んだ瞳、可憐な仮面――それが、みるみる崩れていく。
「ち、違うのぉ、わたし、宰相様に言われて……っ、やりたくなかったのにぃ!」
金切り声。自白。
「ミリア、貴様! 黙れ!」
「宰相様が全部悪いんですぅ! わたしは利用されただけぇ!」
仲間割れ。醜い擦り付け合い。
わたくしは、静かにそれを見つめていた。
(あら。天使のようなお顔が、随分と台無しですこと)
衛兵が、二人を取り押さえる。
宰相アルベリク、失脚。男爵令嬢ミリア、投獄。
積み上げた記録と証拠は、感情論ではびくともしない、鉄壁の断罪となった。
(わたくしは、指一本、動かしていない。ただ――死者の声を、聞いただけ)
◇◆◇
騒動が収まった大広間で、一人の男が、わたくしの前に膝をついた。
金髪碧眼の、見目麗しい王太子――ジェラルド。かつて衆人環視の中、わたくしを「呪われた聖女」と切り捨てた、その人。
「セレスティア……いや、セレスティア嬢」
彼の声は、震えていた。かつての高慢さは、跡形もなく消えていた。
「私は……間違っていた。君の力を、呪いだと決めつけた。だが、それは――王国を救う力だったのだ」
わたくしは、黙って彼を見下ろした。
「君がいなければ、宰相の不正は、永遠に闇に葬られていた。テオドールの無念も、晴れなかった。私は……私は、なんということを」
ジェラルドが、縋るように手を伸ばす。
「頼む、あの言葉は間違いだった……戻ってきてくれ。婚約を、もう一度。君を、正当な地位に。私の隣に」
広間が、しんと静まり返る。
わたくしは――静かに、微笑んだ。完璧な、貴族令嬢の微笑みで。
「ジェラルド殿下。お顔を上げてくださいませ」
彼が、期待に満ちた瞳を上げる。
わたくしは、その瞳を、まっすぐに見つめて言った。
「わたくし、生者よりも死者のほうが、正直で好きですの」
ジェラルドの顔が、凍りついた。
「死者は、嘘をつきません。裏切りません。証拠もなしに、人を断罪したりもしませんの。――殿下は、そのどれも、なさいましたわね」
「そ、それは……っ」
「あの夜、あなたは検証もせず、たった一人の偽証だけで、わたくしを切り捨てた。それが、あなたという方の本質ですわ」
わたくしは、スカートの裾を、優雅に持ち上げた。
「わたくしには、寄り添うべき死者たちがおります。届けるべき真実がございます。あなたの隣は――もう、必要ございませんの」
一礼。
「さようなら、殿下。どうぞ、お元気で」
背を向けて、歩き出す。背後で、ジェラルドが何か叫んだ気がしたが、わたくしは振り返らなかった。
(前世でも、今世でも。理不尽な生者には、散々振り回されました。……もう、十分ですわ)
大広間を出ると、廊下で、リゼットが待っていた。
「聖女さん、かっけえ……惚れ直したわ」
「あら。あなた、女ですのに」
「たとえだよ、たとえ!」
笑い合いながら、わたくしたちは王城を後にした。
呪われた聖女は、もういない。ここにいるのは――真実を届ける、看取りの聖女だけ。
◇◆◇
霧の祭壇に戻り、日常が戻ってきた頃。
わたくしは、番人グレンと、二人きりで向き合っていた。
湯気の立つコーヒーを差し出しながら、わたくしは切り出した。
「グレン様。ずっと、うかがいたかったことがございますの。あなたが数百年、この地に留まり続けている理由。――未練が、おありなのでしょう?」
グレンの表情が、こわばった。
「……いらぬ詮索だ」
「わたくしは、傾聴が仕事ですのよ。数百年、誰にも話せなかったこと。よろしければ――聞かせてくださいませ」
長い、長い沈黙。
やがて、グレンは、ぽつりと語り始めた。
「……数百年前、この地に、魔物の大群が押し寄せた。俺は、竜人の戦士たちと共に、ここを守った」
金の瞳が、遠くを見る。
「だが、俺は――守れなかった。同胞たちが、次々と死んでいくのを、俺は止められなかった。俺だけが、最後まで戦って……そして、力尽きた」
声が、震える。
「すまなかった、と。ただ、それだけを、伝えたかった。だが、死んだ同胞たちは、もういない。謝る相手も、いない。だから俺は……ずっと、ここに」
わたくしは、静かに、けれど確かに告げた。
「グレン様。あなたが守ろうとしたこの地は――今、こんなにも賑わっておりますわ。遺族が財宝を受け取り、涙を流す。冒険者が命を救われる。歴史の空白が、埋まっていく。――あなたが命をかけて守ったこの場所は、無駄には、なりませんでしたのよ」
「……」
「そして、あなたの同胞たちは、きっと、あなたを恨んでなどいませんわ。共に戦い、共に散った戦友を、恨む者などおりません。――彼らはただ、あなたに、こう言いたいはずですの。『よく、戦った』と」
グレンの、金の瞳から。半透明の、涙が、こぼれた。
「……そう、か。俺は……ずっと、許されたかったのかもしれん」
「許すも何も。あなたは、何も間違っておりませんわ」
その瞬間だった。
グレンの身体が、まばゆい光に包まれた。未練が、晴れる。数百年の呪縛が、解ける。
――だが、光の中で起きたのは、成仏では、なかった。
光が収まったとき。そこに立っていたのは、半透明の亡霊では、なかった。黒い角、金の瞳、逞しい身体。血の通った、生きた竜人の将軍が、そこにいた。
「……これは。肉体が……戻った、だと?」
わたくしも、目を見開いた。
「未練が晴れた瞬間、成仏ではなく……蘇生。そんな奇跡が」
グレンが、ゆっくりと、わたくしに歩み寄った。そして、初めて――温かい手で、わたくしの手を取った。
「セレスティア。……いや、澪、と言ったか。前世の名は」
「グレン様、それは、どうして」
「貴様が、死者たちに語る名だ。俺は、ずっと聞いていた」
金の瞳が、優しく細められる。
「貴様は、二度の生で、誰にも理解されなかったと言ったな。だが――俺は、貴様を理解する。貴様の孤独も、強さも、優しさも、全部だ」
温かい手が、わたくしの手を、そっと握る。
「これからは、貴様の隣で。生きた俺が、共にいよう」
二度の人生で、初めて。誰かに、理解された。
わたくしは――ずっと堪えていた涙が、静かに、頬を伝うのを感じた。
「……ええ。よろしく、お願いいたしますわ。グレン様」
霧の祭壇に、朝日が差し込む。死者に寄り添い続けた聖女に、初めて、生きた理解者が、隣に立った。
◇◆◇
季節は巡り、霧の祭壇は、すっかり大陸の名所となっていた。
遺族が、冒険者が、歴史家が、日々訪れる。死者に寄り添い、生者に真実を届ける《霧の祭壇》。その主として、わたくし――セレスティアは、静かに第二の人生を歩んでいた。
王都を追われた「呪われた聖女」は、もういない。ここにいるのは、大陸中から慕われる「看取りの聖女」だ。
「聖女さーん、東の村から遺言代行の依頼が三件! あと冒険者ギルドから魔物情報の追加注文だ!」
リゼットが、帳簿を抱えて駆け込んでくる。相変わらず威勢がいい。
「ふふ、承りましたわ。順番に片付けましょう」
祭壇の奥では、グレンが薪をくべていた。生者となった竜人将軍は、今や祭壇の頼れる守り手だ。
「澪。コーヒーが、切れかけている」
「あら、そんなに飲まれたのですか? 生き返ってから、随分と食い意地が張りましたわね」
「……生きているというのは、腹が減るものだと、初めて知った」
ぶっきらぼうに言いながらも、その口元は緩んでいる。
穏やかな、日常。二度の人生で、初めて手に入れた、居場所。
そのときだった。
祭壇の霧の奥から、新たな声が、そっと響いた。
『あの……』
おずおずとした、遠慮がちな死者の声。
『実は、まだ誰にも言っていない、王家の秘密があるのですが……聞いていただけますか?』
わたくしは、顔を上げた。
リゼットが、「うわ、また厄介そうなやつだ」と苦笑いする。グレンが、やれやれと肩をすくめる。
だが、わたくしは。
前世のカルテを開くように、静かに、一冊の帳簿を手に取った。羽根ペンを構え、穏やかに、微笑む。
「はい。――順番に、うかがいますね」
霧の祭壇に、今日もまた、死者の声が舞い降りる。それを、丁寧に、一つずつ。わたくしは、聞き届けていく。
これが、看取りの聖女の――終わらない、第二の人生。
(さて。今度の患者さんは、どんな未練を抱えていらっしゃるのかしら)
ペン先が、静かに、紙の上を滑り始めた。




