イライザ夫人。
◇◇◇
兄様のお母様、このお屋敷の奥様はアニータ様とおっしゃる大人しい方だった。
どことなく兄様と雰囲気も似て、優しいんだなっていうのがよくわかる、そんなご婦人。
あたしは、兄様と同じように彼女とも仲良くできたらってそう思っていたけど、そんな機会はついぞ訪れなかった。
というのも、アニータ様は通常、お屋敷と中庭を挟んだお隣の建物、離れのお部屋で暮らしていらっしゃったから。
別居?
と、いうのだろうか。
とくに旦那様と仲が悪いという様子には見えなかったのに、旦那様の周囲の家族スペースに奥様アニータ様の居場所は無かった。
よほど時間にズレがない限り、お食事は食堂で一緒にいただくのに、だ。
まあ、その際にも奥様と旦那さまは当たり障りのない会話しかしていらっしゃらないのだったけど。
兄様にも。
「お母様と離れて、淋しくはないですか?」
そう聞いてみたこともあった。
でも。
「淋しい? 僕は男だからね。男子たるもの母親と一緒じゃなきゃ淋しいだなんてそんな言葉吐いたらばかにされてもおかしくはないよ」
だなんて、真剣なお顔をしておっしゃった。
その言葉を聞いて、なんだかすごく悲しくなって固まってしまったあたしに。
「もう、そんな顔、しないで。マオは心配してくれたのだものね。まあさっきのは言い過ぎだけど、別に母様には会いたくなったらすぐに会いに行けるところにいらっしゃるわけだし、中庭挟んだ隣の屋敷なんてそんなの隣のへやみたいなもんだろ? だから、大丈夫さ」
そう悪戯っぽくわらった。
アニータ様はふだん奥様らしいことをするわけでもない。
旦那さま不在のおりのお屋敷の采配だって、ふつうに執事長がこなしていらっしゃるし。
というか。
実はそんな彼女よりもある意味威張っている女性、イライザ様がこのお屋敷にはいらっしゃる。
アニータ様のお姉様、という話だけど、実家のラウル家がこのフリーデン侯爵家の親族の伯爵家だからか、昔から懇意にしているから、と、我が物顔でこのお屋敷に出入りしている。
未亡人で、家督は息子、まだ幼いリチャード様が継いでいるらしい。
あたしがここに来た当時はイライザさまの旦那さまもまだお亡くなりになっていなかったからか、今のようにはこちらにいらっしゃらなかったけど、ここ数年は暇なのか、二日とあけずに訪ねてくるようになった。
妹のアニータ様が心配なのかな?
最初はそう思ってた。
でも。
彼女が旦那様を好きなのだ、というのに気がついてから、あたしは彼女のことを警戒するようになっていた。
そんなあたしの心がわかるのか、あたしも彼女からは嫌われて。
会うたび、厳しく叱られる。
あたしの掃除の仕方が気に入らない、と、殴られたこともあった。
旦那様や兄様にいいつけるような真似はしなかったけど、きっと兄様だったら怒ってくださっただろうな。そうは思う。
でも、そんな事をすればきっともっと彼女の怒りを買って、あたしはここに居られなくなるかもしれない。それが怖かった。
他の使用人のみなだって、この屋敷の女主人よろしく威張り散らすイライザ夫人にさからうことはできなかったもの。
お屋敷のお仕事は、一人きりじゃできないから。
イライザ夫人がその気になって命令したら、きっとあたしの居場所なんか無くなってしまうだろう。
彼女がきている時は、なるべく目立たないようにひっそりとお仕事に集中する。
それでも彼女の機嫌の悪い日は、わざわざあたしが居るところにやってきては当たり散らす事が多かった。
癇癪の吐け口に、あたしはちょうどよかったのかもしれない。
◇◇◇
「何度言ったらわかるの! わたくしの好みはストレートティーよ。それなのに、こんなミルクばっかりのお茶を運んでくるなんて! あなたなんかクビよクビ、とっとと荷物をまとめて出て行きなさい!」
ガシャン
カップが割れる音。
イライザ夫人が癇癪を起こしているのがまるわかりの音だ。
ああ、いけない。今日のいじめのターゲットはリーシャ先輩!?
あたしなら、いつもおこられなれているからいいけど、ううん、よくはないけど、このままだとリーシャ先輩がお屋敷から追い出されちゃう。
ていうか、先輩、あたしが兄様用に用意してたポットと間違えちゃったのかも。
ああ、ごめんなさい先輩。言って無かったあたしも悪いかもしれないわ。
「申し訳ありませんイライザ夫人。そちらのポットはアンソニー様用に私が用意していたものでした。夫人用のものも別に用意しています。ですから、申し訳ありません。今すぐお持ちしますから……」
お部屋に駆けつけ、リーシャ先輩を庇うように前に出る。
憎々しげに、あたしのことを舐め回すように睨む夫人。
「あなた、それですむと思ってるんじゃないわよね。すぐにそこの割れたポットを片づけなさい! いいわね、すぐによ!」
「あ、では雑巾と箒と塵取りを持ってまいりますので」
「バカね。わたくしはすぐやりなさいと言ったのよ。素手でお掃除なさい。それくらいできるわよね!」
「だめ、マオ。手、怪我しちゃうわ」
「いいのよ、リーシャ先輩。これくらいなら……」
あたしは床に跪き、欠けたカップやポットを拾いエプロンに集めていく。
うん、気をつけてやれば、なんてことはないわ。
そう思いつつ、慎重に。
「なにモタモタしてるのよ! 早くやりなさいって言ったわよね!」
「痛い!」
足で、手を踏まれた。
拾っている途中の陶器のかけらが、ざっくりとあたしの手にくいこんでいる。
「あら、手が真っ赤じゃない。汚らしい。あら、でも、どこの馬の骨かわからない下賤の女の血が流れているのですもの、汚くて当たり前、だったわね」
そう言い放つ、イライザ夫人。
あたしのことなら、何を言われても、いい。
どんなに叱られても、傷つけられても、我慢できる。
でも。
「訂正、してください。あたしの母さんは、汚らしくなんかありません!」
膝をついたままだったけれど、あたしはキッと顔をあげ、イライザ夫人の目を見据え。
「あたしの母さんは、天使のように綺麗な心の人でした。女手一つで苦労して、あたしを育ててくれたんです! あたしはいくらいじめられても、いい。でも、母さんを侮辱するのだけは、許せません!」
たじろぐ夫人。
あたしは目を逸さず睨み続けた。
「なにをしてるんだ!」
騒ぎに気がついた兄様が、あたしのそばまで来て肩を抱いてくれた。
「怪我をしてるじゃないか! マオ、大丈夫か。すぐに医者を呼ぶから!」
「兄様、ありがとうございます。でも、これくらいなら大丈夫です」
あたしは、キュアヒーリング、と、ちいさくつぶやく。
金色の粒子が溢れ出し、あたしの手を優しく包んだかと思うと……、傷がスーッと癒えていく。
「マオ、おまえ、回復魔法が使えたのか……」
「ええ、兄様。あたし……」
貴族であれば多かれ少なかれ魔力がある、魔法の才があるもの。
そう、学校でも習った。
実は母さんも、簡単な生活魔法程度なら使えた。でも、この力はそんなんじゃない。
もっと、高度な、もっと、力が必要な、そんな魔法だった。
だから、内緒にしておきたかった。兄様の言われたように、あたしのこのサファイヤの瞳には強い魔力が篭っている。貴族だって証のようなもの。
きっと、高等部まで通っていれば、そうした魔法の勉強もしたんだろう。
今のあたしは自己流だけど、母さんを治したい、そんな想いがこの回復魔法を産んだのかもしれない、そうも思っている。
「やっぱりそうなのね。だから、気に入らなかったのよ! その目が!」
イライザ夫人の胸から、真っ黒な瘴気のようなものが溢れてくる?
「あなたも、石になっちゃいなさい!!」
夫人があたしを指さして、そう言った。
ああ。母さんを石化したのは、これ、だったんだ。
瞬間、そう気がついて。
彼女の闇魔法、石化の魔法。
それを、あたし、に、も……。




