石化病。
◇◇◇
思えば……。
五歳のこの時、あたしは何もわかっていなかったんだと思う。
それでも、こんな小さなあたしでも、働き口があるなら働いて、母さんのそばに……。って、それだけを考えていたのはほんとう。
そもそも、こんな辺境の街で慎ましく暮らしていた母さんとあたし。
そんなあたしたちがこの国の首都メルロマルクに行くことになるだなんて。
母さんの入院費は、どうなっているんだろうか、だなんて。
そんなことまで頭が回っていないくらいには世間知らずだったんだ。
母さんは、「石化病」と診断された。
っていうか、今現在、他にそんな症例の患者がこの国に存在しているわけじゃないらしい。
それくらい、珍しい奇病ということだった。
そして。
うん。今ならわかるよ。母さんは研究材料として首都に運ばれたんだって。
あまりにも珍しいから、どこかのスポンサーがついてくれたんだって。
そうとでも考えなきゃ、この10年の間の治療費、賄えなかっただろうって、思うもの。
そして、多分。
そのスポンサーになってくれたのが、今のあたしの勤め先。
この大きなお屋敷のご主人様。
フリーデン侯爵様だろうってのは、わかる。
じゃなかったら、五歳のあたしを引き取って、学校に行かせてくれたりしなかったと思うもの。
十二歳で貴族院の小等部初等科を卒業後、あたしはこのお屋敷で働かせてもらってる。
恩を、返さなきゃ。
そう思うから。
◇◇◇
お部屋に戻ると一旦服を全て脱いで、汗を拭き取る。
病院まで近いと言っても全力疾走で駆け抜けて戻ってきたのだ。このまま人前に出るのはちょっと憚られる。
下着も替えてお仕事服に着替えたあたしは、最後に自分の机の一番上の引き出しにしまっってあった母さんの日記を取り出して、そっと抱きしめ。
「行ってくるね」
と、声をかけてお部屋をでた。
メルロマルクに出てきた時、唯一持ってきた母さんの荷物。
母さんがあたしを育ててくれた記録が綴られているこの日記は、あたしの中では唯一の母さんの思い出。大切な、母さんの記憶。だから。
泣きたくなった夜は、何度もこの日記を読み返した。
大好きだって言ってくれる母さん。
そばに母さんがいてくれる。そう思うことで、なんとかこの10年を過ごせてきたのだと思う。
お仕事は、主に掃除にお洗濯に、お料理の下拵え。
お屋敷は広く、お部屋も多いので、大勢のメイドが雇われている。
あたしはその中の一人。
メイド長の指示で頑張って働いているけど、こうして体を動かしていると気が紛れる。
カラン、カラン、と鐘が鳴った。
あれは旦那様がお出かけになる合図。
「マオ、行くよ」
「はい、リーシャ先輩」
あの音が鳴ったら近くにいる使用人は皆旦那様のお見送りに集まって、整列する。
ロビーの隅っこで並んでいると、旦那様、エドワード様が、見送りの使用人たちをさっと見て、「それでは行ってくる」と声をかけてくださった。
濃厚なバリトンボイスが響く。あたしはあの声が好き。
なんだかすごく落ち着く気がするもの。
一瞬、旦那様のお顔があたしを見て、微笑んでくれた気がする。
もう、それだけで幸せな気分になる。
旦那様に初めてお会いしたのは、母さんの移送のためコーラル様に付き添われてこの首都メルロマルクに着いた時。
病院に寄る前にお屋敷に赴き、あたしは旦那様に紹介された。
「マオくん。君はこの屋敷でお世話になることに決まった。さあ、挨拶しなさい」
そういうコーラル様に従い顔をあげると、そこには母さんよりも少しだけ年上だろうか、まだお若い、王子様のようなお方がいらっしゃった。
長めの黄金の髪をバックに流し、精悍なお顔立ちがはっきり見えて。
青い瞳は、サファイヤのように煌めいて見えた。
「マオ、というのか。君は」
「ええ、母さんは、真実の愛という意味があるのだと、そう教えてくれました」
「そうか。良い名だ」
そうおっしゃって、あたしの頭をくしゃくしゃっと撫でてくれた旦那様。
泣くのを我慢していたのが、わかったのだろう。
「良いんだ。もう、我慢しなくていい」
低く、染み渡る声に、なんだかすごく心が癒え。
「ごめんなさい、旦那様……、我慢、できな、くて……」
涙が止まらない。留めなく頬を伝い、ボトボトと落ちていく。
「もう、大丈夫だ。大丈夫、だよ……」
大きな体を屈ませて、あたしをそっと抱きしめてくれた旦那様。
心がふんわりと温かくなって、あたしはいつの間にか、そのまま寝入ってしまったらしい。




