売国交渉③
アニスは怯えたように睫毛を震わせ、隣に立つボルン王子の袖を、縋るようにそっと掴んだ。
「……ごめんなさい、フィラーネ。貴女がプロイドの公王と結託して、悪辣な策謀をリューベンで巡らせてると聞いて……。いてもたってもいられず、ヴィルム様にお願いしてボルニア王国特使として飛んできたのですわ」
鈴を転がすような、震える声。だが、その潤んだ瞳の奥で、私だけに見えるように、チロチロと蛇のような狡猾な光が動くのを私は見逃さなかった。
彼女はボルンらに向き直し、言った。
「ボルン殿下、貴方のような高潔な英雄が、このような悪女の言葉に屈し、リューベンの名誉と誇りを汚すべきではありません。我が父ボルニア王ユーグはリューベン救援のため50隻からなる大艦隊と一個軍の派兵を約束しており、我が夫の第21代ガルド帝国皇帝ヴィルム陛下はボルム殿下をリューベン君主と認め、正式な王国号昇格を認めるまでおっしゃっております」
その言葉に、家臣団らは一斉にざわめく。公王から王への昇格。この戦乱の時代に自称王号を名乗る勢力は多いが、皇帝から正式に認められ、王号を名乗っているのはボルニア王のみ。つまり未だに称号を幅を効かせているこの大陸において、リューベンは帝室とボルニアに次ぐ、第三位の家格になる事を意味する。
だが、そんなのは詭弁だ。
「貴女こそ安い策謀ね。ボルニアは今まさに、隣国の包囲網の対応で手一杯。とても海を隔てたリューベン救援をする余裕なんてなくて? そもそも、皇帝を僭称するヴィルムなどに王号うんぬんする資格など無い! 大方、甘い言葉でボルン殿下を欺き、無謀な徹底抗戦に誘導しているのではないか。違うか!」
私が冷徹に言い捨てると、アニスは傷ついたように顔を覆い、ボルンの腕の中でいっそう身を縮めた。
「……ひどいわ、フィラーネ。父とヴィルム様はただ、殿下の気高さを愛し、正当な報いを与えたいと願っているだけなのに。貴女は昔からそうやって、人の善意を泥で汚して楽しむのね」
すすり泣くような声。だが、彼女の指の隙間から覗く瞳は、獲物を追い詰める冷徹な観察者のそれだった。案の定、ボルンの背後の家臣たちが激昂する。
「黙れ、プロイドの毒婦! アニス殿下の慈悲をこれ以上汚すことは許さぬ!」
「そうだ! 我らは王号を戴き、歴史に名を刻むのだ。一時的な飢えなど、名誉に比べれば些事!」
「徹底的に戦うぞ! 我らには大国ボルニアと、皇帝陛下の後ろ楯があるのだから、何も恐れるものなど無い!」
家臣たちが空高く剣を抜き立て、鼓舞し合う。その熱狂に、アニスの唇が微かに悦びに歪むのを私は見た。この女、最初から理屈で勝とうなんて思っていない。ボルンや家臣たちの名誉と誇りを煽りたて、そこに救援という名の希望をスパイスすることで集団催眠にかけて徹底抗戦へ導こうとしているのだ。
私は反論しようとするが、ボルン王子がゆっくりと、だが重々しく立ち上がることで阻止される。
「皆よ、静まれ」
その一言で熱狂の渦がピタリと止まる。それと同時に、彼の諦観したような眼差しを見てもう説得は無理だと私は悟った。
そもそも、ボルン王子は個の意思を持っていない。ただ家臣の総意の器として自分を定義しており、自ら進んで操り人形に成っているからだ。
「フィラーネ殿。申し訳ないが、愚弟ドロシアとマクシリア殿に伝言を頼みたい。戦場で雌雄を決しよう、とな」
湧き上がる歓声。剣の鞘を叩く音。 もはや、ここにあるのは軍議ではない。それは目の前の滅びを認識できない、狂信者の集会だ。
「……そうですか。承知いたしました」
私は短く答え、ふっと肩の力を抜いた。これ以上、死人に言葉を費やす無意味。可能な限り無血を試みたが、相手が自分から首を吊りにいくというのなら、その縄を引いてあげるようじゃない。
不意に、ボルンの背後からアニスがひょこりと顔を出した。彼女は勝ち誇ったような笑みをその邪悪な瞳に宿し、ボルンの腕に自らの頬をすり寄せながら、慈悲深い聖女のような顔で私を見下ろした。
「認めなさい、フィラーネ。貴女がいくら小難しい理屈を並べたって、殿下の心は動かせなかった。惨めね、また私に負けるなんて」
彼女は、憐れみの色を湛えた視線を私に投げかけてくる。それは、かつて帝都で私から婚約者を奪い、地位を奪い、国から追い出した時と全く同じ、勝者のマウントだ。
憐れみと嘲笑が混ざったアニスの言葉。愚かな男たちは、彼女を「救国の聖女」と仰ぎ、私を「敗れ去る悪女」として冷ややかな目で見ている。
ああ、本当に。この女、自分の吐いている嘘に酔いしれる才能だけは大陸一だわ。
私はわざとらしく深く、長く、溜息をついた。そして、アニスが期待していたであろう「屈辱に歪む顔」ではなく、心底から彼女を……いえ、この場にいる全員を蔑むような、冷え切った笑みを浮かべて見せた。
「ええ、完勝ね。おめでとう、アニス」
私は笑みを深めたが、これは敗者の自嘲ではない。認めてあげる、確かに道化としては貴女の方が一枚上手だった。扇動者としても優秀で、かつて阿呆のヴィルムを籠絡したのも納得だわ。
だから約束してあげる。貴女はヴィルム同様、私がこの手で必ず粉砕してやると」
「行きましょう。ここはもう、死臭が酷すぎるわ」
私は振り返ることなく、幕舎の出口へと歩き出した。背後からは家臣たちの罵声と、ボルンの沈黙、そしてアニスの勝ち誇ったような、それでいて粘りつくような嘲笑が追いかけてくる。
一歩、外へ踏み出すとそこには肺を刺すようなリューベンの凍てつく秋の風が吹き荒れていた。私は迎えの馬車に乗り込み、冷え切った自らの指先を見つめた。
一人も逃さない。一人も救わない
激しい怒りではない。それは、淡々と、確実に、害虫を駆除するための冷徹な決意。
アニス、貴女が自分のついた嘘の重さに押し潰され、喉を掻きむしりながら命乞いをする瞬間が今から楽しみでしょうがないわ。
ボルン殿下、貴方に恨みはありませんが、易き道に流れ、私たちの慈悲に泥を塗ったこと、その代償を死よりも苦しい後悔で支払わせてあげる。
馬車が雪混じりの大地を蹴って進み出す。
窓の外に広がる灰色の空を見つめながら、私は頭の中で「処理」の手順を冷酷に、そして執拗に組み立てていった。




