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転変②

 バテイが弾かれたように、天幕の奥へと踏み込む。


 そこには、数人の軍医が取り囲む中で、大地に横たわるユーリクの姿があった。


「……親父?」


 バテイの喉が鳴った。


 無敵、不倒、戦場の化身。そう称えられた男の口元からは、どろりと溢れ出した鮮血が顎を伝い、自慢の甲冑を赤く汚している。それは敵から受けた傷ではない。内側から噴き出した、死の予兆だった。


極東蛮族(リーベン皇国)鎮定戦で、患っていた風土病が悪化したらしい。指揮の最中に、突然の吐血し、そのまま意識を失われた……」


 背後から追いついたチャウジーが、沈痛な面持ちで告げる。


「親父が倒れたと知れれば、軍団どころか本領も空中分解しかねない。ルーテ軍が混乱している今のうちに、全軍を後退させるしかなかったのだ。……バテイ、貴様の怒りは後でいくらでも受ける。だが今は、親父を安全な後方へ連れ戻すことが最優先だ。異論は、あるか?」


「……ねえよ。ねぇけどよ」


 バテイは言葉を失い、ただ目の前のを凝視していた。

 

 戦場を支配し、フィラーネを絶望の淵に叩き落とした圧倒的な暴力。その源泉であった怪物が、皮肉にも己自身の肉体に裏切られ、唐突にその幕を下ろそうとしていた。


 チャウジーは、バテイの心境を察するように肩を叩く。


「そんな顔をするなバテイ。短期間で二カ国を席巻し、敵主力をほぼ無傷で屠ったんだ。戻ろうじゃないか、勝者として本領に……!」



 ────


 悪夢のような静寂が、テリス川のほとりを包み込んでいた。


 辺境伯軍が去った後の戦場には、勝利の歓喜など欠片もない。ただ、引き波が残した無惨な瓦礫のように、動かなくなった兵士たちの山と、鼻を突く血の臭いが立ち込めているだけだった。


「……フィラーネ様、行きましょう。理由は分かりませんが、辺境伯軍が戻ってくるとも限らないので」


 呆然と立ち尽くす私の肩を、泥まみれのエリカが抱き寄せた。彼女の腕の震えが、現実へと私を引き戻す。私は、自分の足元で物言わぬ肉塊となったグエルの亡骸を最後にもう一度だけ見つめ、血に濡れた軍旗を拾い上げた。


 私たちは、命からがらテリス川の対岸。辛うじてジャライカが死守していた防衛陣地へと退却した。


 対岸の天幕に集まった顔ぶれは、あまりに悲惨だった。


 精悍だったジャライカの鎧は、激しい肉弾戦を物語るように至る所がひしゃげ、数万の主力軍を率いていたカシムは、幽霊のような青白い顔で椅子に深く沈み込んでいる。


「……報告して。我々の損害は」


 私の声は、自分でも驚くほど冷たく、乾いていた。


「ルーテ軍主力五万のうち、組織的な戦闘力を維持しているのは三割に満たないです。フィラーネ隊に至っては、壊滅……と言って差し支えない状況です。ジャライカ隊が奮戦したおかげで全滅だけは免れましたが、これ以上の戦闘は不可能でしょう」


 軍団参謀の報告を、カシムは震える手で遮った。


「……分かっている。数字を並べるまでもない、我々の惨敗だ」


 カシムの声は掠れていたが、その瞳の奥に灯る光までは消えていなかった。絶望に呑まれ、ただ震えているだけの男ではない。彼は今、五万の軍勢を率いる主として、そして一国の命運を握る王族として、冷徹なまでの現実を直視しようとしていた。


「将兵ら、そして諸君らの奮戦に感謝する。惨憺たる結果ではあるが、あの辺境伯軍相手に一矢は報いたと私は信じている」


 彼は椅子の肘掛けをぎゅっと握りしめ、自分を鼓舞するように背筋を伸ばした。


「全ての責任は、諸君の総指揮官である私が負う。これより、まだ息のある者を一人でも多く回収し、公都へ退く。公都の防壁と残存兵力があれば、まだ立て直せる。我々がここで全滅すれば、ルーテに明日はないのだ」


 彼の言葉は、敗北宣言というよりは、明日を繋ぐための「撤退という名の戦い」の決意に聞こえた。


「そしてフィラーネ殿、どうか早まらないで欲しい。君の才はこんなところで、潰えるべきではない。公都へ戻り、次の一手を練るための時間を稼ぐ。それが、君のために命を捨てた者たちへの、せめてもの手向けではないのか?」


 私は、反論しようとした口を閉ざした。


 カシムの言葉は正しい。あまりにも正しすぎて、私の煮え切らない復讐心や功名心が、いかに子供じみたものかを突きつけてくる。


「……分かりました、カシム殿。貴方の判断に従います」


 私は力なく、けれど確かに頷く。  


 血に染まったテリス川を背に、私たちは公都への長い行軍を開始することになった。


 背負わされた命の重みが、一歩踏み出すごとに私の足に重くのしかかる。


 ユーリクが消え、静寂が戻った荒野には、ただ敗残兵たちの足音だけが空虚に響いていた。






 かくして、テリス川の戦いは幕を閉じた。結果はこの時点では、実に一方的なものであったが、意外にも後世の歴史において、この一戦はユーリク陣営の敗北と評される場合が多かった。


 何故なら、テリス川での戦いを前哨戦とし、この後に生起した一戦と纏められ、一つの戦闘として長らく評価されて来たからである。


 辺境伯軍、ルーテ軍がそれぞれ策謀を巡らし、機動し、激突し、そして本拠に撤収準備を進める中、その第三の軍団は密かに、そして誰にも捕捉されることなしに、獲物を狙う猛禽の如く牙を研いでいた。


 そして、辺境伯軍が戦闘態勢を解き、完全な撤退行動に移ると、マクシリア率いるプロイド本隊八万が忽然と姿を現し、軍神なき辺境伯軍に襲い掛かったのである。

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