渡河②
「──ネ様、フィラーネ様!」
呼びかける声に私はハッとする。私の護衛についてきたエリカだった。
「カシム様の本隊が無事に川を渡しました。我々も渡河しますよ」
「え、ええ。そうね」
「本当に大丈夫です? なんかさっきから様子も変ですし、顔色も悪いですし……」
「大丈夫よ……。いや、ごめんなさい。私の替わりに号令してくれるかしら」
エリカは心配しつつも、私のお願い通り麾下の兵二万に向かい、張りのある声で渡河開始の号令を出す。
「総員、渡河開始! 歩兵らは銃を濡らさよう気をつけろ!」
私の直属である二万の人馬が、静かに、しかし迅速に腰の深さほどの川へと足を踏み入れる。冷たい水が馬の腹を打ち、兵具の擦れ合う音が、川のせせらぎに混じって聞こえてくる。
季節外れの低い気温の夜のせいか、周囲には霧が立っている。まるで、私の胸中を表しているような光景に、頭に浮かんだ最悪な展開を隣で手綱を握るエリカに吐き出してしまう。
「ねえ、エリカ。もし、この霧の向こうで待っているのが少数の守備隊ではなく、ユーリクの本隊だったら、貴方はどうする?」
「……やだなぁ。この期に及んで、そんな怖い事言わないで下さいよぉ」
エリカは笑って誤魔化そうとするが、私の横顔を見たらその笑みを消した。
「そ、そりぁこの霧に加え、この先は丘陵地帯なので、大軍で待ち伏せするのは不可能じゃ無いですが……。それにしても、こちらが切りうる無数の選択肢から、ピンポイント当てられなきゃ無理な芸当ですよ!」
「でも、相手は『軍神』と呼ばれるほど戦に熟達している男よ」
「いやいやいやいや! それでも、あり得ないですよ! こっちは完璧な陽動決めてるんですよ! それを看破して、私たちを騙し切り、この霧の中で待ち構えるなんて、本当の神様じゃないと無理ですって」
エリカの言葉は、軍事的な常識に照らせば至極真っ当だった。だが、私の指先は手綱を握るのも億劫なほど冷え切っている。川のせせらぎ、兵たちの足音、そして馬の鼻息。それらすべてが、何か巨大な「獣」の喉鳴りに飲み込まれていくような錯覚。
「……そうね。私の考えすぎだといいのだけれど」
そう呟きながら無事に川を渡り終えると、そこには縦長の行軍隊形の転換中のカシムの本隊がおり、敵の影など欠片も無かった。
「そうですよ。考え過ぎですって……。て、あれ?」
エリカが上げた短い、困惑の混じった声に、私の心臓が大きく跳ねる。
「どうしたの、エリカ」
「いや、後続のジャライカ中将が、渡河している気配が無いよう気がして……」
私は慌てて馬の首を回し、今渡ってきたばかりの川面を振り返りる。私には、濃い霧が重く垂れ込めているせいで何も見えない。
しかし、確かにジャライカ中将率いる二万の兵、その足音も、鎧が触れ合う金属音も、馬のいななきも聞こえない。聞こえるのはただ単調な川のせせらぎだけ。
その現実に、背筋を氷の刃でなぞられたような悪寒が走りる。
その時、夜の帳が唐突なほど鮮やかな光に引き裂かれる。地平線から差し込んだ夜明けの陽光で、霧の粒子一つ一つがその光を反射し、世界は一瞬にして、この世のものとは思えない黄金の輝きに包まれまる。
陽光が霧を急速に押し流し、私たちの前方に広がるシルヴの丘陵地帯を露わにしていく。朝日に照らされた丘の稜線が、くっきりと浮かび上がったその瞬間──。
「……ああ、やっぱり。神様なんて、いないわね」
私の口から、乾いた笑いがこぼれる。丘の影から、うごめく「黒」が溢れ出してきた。
それは、朝日を跳ね返す数万の銃剣の穂先。
整然と展開された、重装騎兵の黒い波。
そして、中央に掲げられたのは、巨大な「東方辺境伯」の紋章旗。
一隊や二隊どころじゃない。
丘陵の端から端まで、視界を埋め尽くすほどの軍勢が、まるで地面から湧き出してきたかのように次々と姿を現す。
「な、……そんな……。本隊はプロイドへ向かったはずじゃ……!」
エリカの震えた声が、言葉を失った私の気持を代弁してくれた。
陽光に照らされたその大軍勢は、まるで行進の練習でもしていたかのように完璧な布陣で、川を渡りきったばかりの私たちを見下ろす。
そして、一際高い丘に立つ一騎の馬影が見えた。遠すぎるのと、逆光で顔は分からない。けれど、その男が静かに剣を振り上げただけで、地を揺るがすような咆哮が敵陣から上がる。
まるでおとぎ話に出てくる、英雄然としたその姿に私はその名を呟く。
「ユーリク……」
「さて、ろくなメシも食わずに待ってやったんだ。少しはこのジジイを楽しませてくれよな。鼻垂れ小僧にわお嬢ちゃん」
ユーリクが剣を振り下ろすと、十万を越える軍勢は東方語の万歳を叫び、愚かな敵へとらへ襲いかかった。




