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渡河①

 『東方辺境伯軍、プロイド領に向け進軍ス』


 その報せを受け取った私とカシムは、真夜中になるのを待ち、十数人の供回りと共に公都を抜け出した。


 西に二時間ほど馬が潰れるほど全力で走り、やがて地図に無いはずの街が見えてくる。むろん、一般市民が住むものではない。プロイド・ルーテ連合軍、総勢七万の野営地である。


 一際大きい本営に入ると、ジャライカ中将が私たちを出迎えた。カシムは一歩前に出て、労うように肩を叩く。


「流石はジャライカ中将。国境砦から公都に向うと見せかけて、巧みな機動で敵味方の目を騙し、全軍をここの目的地に集結させるとは。これほどの大軍を動かしながら、敵の偵察網を潜り抜ける手腕、……実に見事だ」


「もったいないお言葉です陛下。して、両名がここに揃ったということは」


 今度は私が答える。


「はい、『第一の策』は成りました。これより、『第二の策』に移ります」


 その言葉に本営の中にいた参謀たちは、「おお!」とざわめく。全員が固唾を呑んで見守る中、私は卓上に広げられた広域地図の上に、一本の鋭い線を引いた。それはルーテから南へ、辺境伯軍が通り過ぎたばかりの占領地、「シルヴ」を真っ向から貫く線だ。


「……シルヴを、再占領します」


 本営内に、一瞬の静寂が訪れた。ルーテ軍の一人の将軍が、震える声で問い返す。


「再占領……。辺境伯軍がプロイドへ向けて通り過ぎたばかりの、あのシルヴをか?  そこを叩けば、二十万の敵は文字通り袋の鼠となるが……」


「ええ。ユーリクは私を、ルーテを勝手に混乱に陥れた『トラブルメーカー』だと信じ込んでいます。だからこそ、自分が通り過ぎた後方に、これほどの大軍が隠れているなどとは夢にも思っていない。……補給路を完全に断絶し、背後から牙を剥く。これが第二の策の正体です」


 私は地図上の駒を動かし、辺境伯軍を挟み込むように配置した。


「現地徴発も出来ず、苦肉の策である補給段列を断たれた二十万の軍勢は、必ずや動揺します。そこへ、正面から待ち構えるマクシリア様のプロイド軍が鉄槌を下す。……逃げ場を失い、飢え始めた怪物に、私たちの七万が背後から襲いかかるのです」


「挟み撃ち、か……。だがフィラーネ殿、ならばだからこそプロイド国境に展開するマクシリア殿と示し合わせる必要があるのでは?」


 カシムの問いに、私は首を横にふる。


「伝令を送るにしても、情報がどこから漏れるか分かりませんし、何より時間がありません。ここまで完璧に偽装できたとはいえ、数万の大軍の足取りが分からないとなればルーテ国内に潜伏しているであろうスパイ達も怪しみます。いいですか? この策は、奇襲なくして成り立たないのです」


 カシムは納得したように頷くと、周囲に向けて言った。


「分かった。フィラーネ殿の賭けに乗ろう」


 カシムが腰の剣を引き抜き、地図の中央に突き立てた。


「全軍に告ぐ! 標的はシルヴ、そしてユーニクの首だ!  かりそめの勝利におごる蛮族どもに、我らルーテ兵の意地をその背中に刻んでやれ!」


「「「おおおぉぉぉッ!!!」」」



 ────


 カシムが激を飛ばし、七万の軍勢がシルヴに向け進発してから、さらに四時間。

 

 夜の帳に包まれた街道を、七万の軍勢がひた走る。馬の蹄には布を巻き、兵卒らは吐息音も最小限に抑えられたその行軍は、巨大な黒い蛇が闇を這っているかのようだった。


 驚くべきことに、進軍は極めて順調だった。街道筋の哨戒網は、三日前の私の「クーデター」と、それに続く「公都への兵力集中」という偽情報に完全に踊らされている。敵の偵察兵が、まさか空になったはずの国境砦の裏側にこれほどの兵力が潜んでいたなどとは、夢にも思っていない証拠だ。


 本来なら、歓喜すべき状況。私の書いた脚本通りに、状況が動いている。だというのに、私の胃の奥には、鉛を飲み込んだような重苦しい感覚が居座っていた。


(……静かすぎるわ)


 馬を並走させるカシムは、これまでにない高揚感を纏っている。自ら後衛を志願し、隊列の最後尾を護るジャライカ中将からも、異常な報せなどはない。けれど、私は暗い森の奥から誰かに見つめられているような、気味の悪い視線を感じて止まなかった。


 一度抱いた疑念は、毒のように私の思考を蝕み始める。


 ユーリク。あの男が、これほどまでに不用心だろうか。いくら私を見下しているとはいえ、軍事の天才が、自身の生命線である補給路の背後をこれほど無防備に晒すものだろうか。そして、マクシリ。あいつが、私の離反を本当に予測できていないのか。私の性格、私の野心、私の能力。それらすべてを「計算」し尽くしてきた奴が、私のこの「独断」さえも、あらかじめ盤面の上に書き込んでいたとしたら?


「フィラーネ殿、どうした?  顔色が悪いぞ。夜風に当てられたか」


 カシムが、心配そうに声をかけてくる。私は無理に口角を上げ、不敵な笑みを作ってみせた。


「いいえ。あまりに道中が退屈で、あくびを噛み殺していただけですわ」


「ははっ、相変わらず不敵だな。だがもうすぐ、シルヴとの国境沿いの川だ。あそこを渡れば、勝利の半分は我々のものだ」


 カシムが指し示す先、遠くの川の向こうに、東方辺境拍軍の手に落ちたシルヴの街の灯火が微かに揺れていた。守備隊は最小限だろう。本隊がプロイドへ向かった今、そこは無防備な果実も同然だ。


 ……けれど、その灯火が、私には獲物を誘い込むアンコウの光のように見えて仕方がなかった。


 もし。もし、ユーリクが私の「侮りやすさ」さえも利用して、あえてこの隙を作っていたのだとしたら? もし、マクシリアが、私が補給路を断つことを見越して、さらにその上を行く「冷徹な一手」を準備しているのだとしたら?


 二人を出し抜いたか、それとも掌で踊らされているのか。


 その答え合わせが、目前に迫っているように感じる。

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