マクシリア戦役④
「我々直属の部下でさえ、最後に陛下の御尊顔を拝したのはあの会談が最後です。執務室に籠もられ、軍議にも出席しない。ですが、届く命令は常に正解であり、我々の予測を数手先まで上回っている。それが、事実です」
カシムが私の方をチラリとみる。私は黙って、手元の冷めた紅茶を見つめた。かつて私をマクシリアの元へ呼び寄せた時の、あの底知れない好奇心に満ちた瞳。今の彼から届く書状には、その「人間味」という不確定要素が一切排除されている。
彼もまたユーリクという熱に当てられ変わろうとしている。いや、戻ろうとしている……。
「マクシリア様は、もはや人智を超えた存在になろうとしているのです。我々はただ、陛下が示す最適解をなぞるだけの駒に過ぎない。そう割り切るしかありませんな、カシム殿」
「……相分かった。それが勝利への最良の道なら、従おう。ただし。我々は対等な同盟関係であり、プロイドの傘下に入った訳でない。それをマクシリア殿には重ね重ね伝えて欲しい」
「無論、その通りで御座いますが、御意に」
ジャライカが一礼し、カシムはようやく重い腰を上げた。釈然としない表情ではあったが、戦時下における「勝利」という絶対的な果実を前に、彼は己の疑念を飲み込んだのだ。
───
カシムが退出した後、静まり返った執務室には私とジャライカ中将だけが残された。私は冷え切った紅茶の最後の一口を飲み干し、隣の智将に視線を向ける。
「……先ほどの話、どこまでが真実で、どこからが方便ですの? 中将」
ジャライカは窓の外を眺めたまま、しばらく答えなかった。やがて彼は、自嘲気味な笑みを浮かべて懐から煙草を取り出す。
「フィラーネ殿。実を言うと、私は三日前、許可を得ず強引に、御目通りしました」
「許可なく? 陛下が最も嫌う不作法ではありませんか」
「ええ。ですが、届く書状の文字が、日に日に人の書くものとは思えないほど……あまりに精緻で、そして無機質なものに変わっていくのに、不安に駆られたのです」
ジャライカが吐き出した紫煙が、夕闇に溶けていく。彼の眼には、歴戦の勇士とは思えぬほどの「戦慄」が宿っていた。
「部屋の中は、異様でしたよ」
「異様……?」
「壁一面、天井に至るまで、東方辺境伯ユーリクに関するあらゆる情報が貼り付けられていました。奴の生まれ、過去の戦歴、交友関係、好みの女や食事……。寝食を忘れ、私などまさに眼中になく、ただただ情報の海に溺れ、奴という怪物を解剖し尽くそうとされていました」
ジャライカが吐き出した紫煙が、部屋の隅で渦を巻く。彼の声には、深い絶望と、それ以上に抗いがたい恍惚が混じっていた。
「私はこれまで、いつかあの御方の隣に立ち、あるいはその知性を超えようと研鑽を積んできたつもりでした。だが、あの日あの部屋で確信したのです。私が一歩近づけば、陛下は十歩先へ、百歩先へ……。もはや、人が追い縋ることを許さぬ次元へと、独りで行ってしまわれた」
ジャライカが陶酔したように目を細める。彼にとって、マクシリアの変貌は一種の「救い」ですらあったのだろう。かつて、一度は失われかけたいずれは己が越えるべき「神」の復活に、彼は喜怒の混ざり合った涙ぐましいほどの忠誠を捧げている。
それは私もそうだ。いや、そうだった。
「……おめでたいことですわね、中将」
私はそう呟き、空になったティーカップをテーブルに置いた。陶器が鳴らす硬い音が、静まり返った部屋に小さく響く。
「ではまた、後ほど」
私はゆっくりと立ち上がり、部屋を後にする。
マクシリアは、ユーリクという怪物を殺すために自らを無機質な「正解」へと鋳直した。知性という名の神殿に籠もり、人間性を削ぎ落としてまで、正解の積み重ねでねじ伏せようとしている。一方でユーリクは、理屈を超えた暴力とカリスマという「混沌」で、世界の理を焼き尽くそうとしている。
神と怪物。どちらも圧倒的で、どちらもこの世のものとは思えないほどに美しい。多くの人々が魅了される様に、私もかつては二人に惹かれたものだ。
けれど、それではいけない。盲目的な信奉は魂の隷属であり、無痛の凌辱に等しい。それを私に気が付かせてくれたのが、カシムだ。
正直なところ、彼は支配者としては凡庸だ。マクシリアの神懸かり的な先読みも、ユーリクの天災じみた武威も持っていない。知略においても武勇においても、世の人々が「カリスマ」と仰ぐ二人には遠く及ばない男。
だが彼は、どちらの毒にも冒されなていない。そのひどく不器用な、だが強固な抵抗が、私に真の進めべき道を示してくれた。
私はこの一戦でユーリクと、そしてマクシリアを超越し、二人の鎖を断ち切ってみせる。そのための「毒」は、もうばら撒いたのだから。




