マクシリア戦役③
ジャライカ中将が地図を指差す。その指先が、東方から迫りくる二十万の影をなぞった。
「風聞によると、東方辺境伯軍本隊は既にガルドの外縁部まで進出し、遅くても七月までにはここシルヴに到達すると推測されます。つまり、我々に残された時間は約一ヶ月。それまでに敵に利用されそうなものは全て先に奪うか焼く必要がありますが、進捗の方はいかがで?」
カシムが私の方を怪訝な顔である。彼は何も知らなかったからだ。
「進撃路沿いにある主要な村や街には兵を送り、物資ごと住民らをリューベンやプロイドに避難させております。進捗はそうですね、七割と言ったところかと」
「ほう? 彼等からすれば侵略者である我々の指示に従うと。どの様な手品を使ったのですかな」
「敗残した辺境伯領軍やシルヴ軍が野盗化し、村が何箇所か被害にあったので。その保護のために、とね」
まぁ、一部は事実であり一部は嘘だ。
「野盗化した辺境伯軍、ですか。……実に都合のよい『方便』ですな」
ジャライカ中将はすべてを察したように、低く喉を鳴らして笑った。その笑みには、同じように手を汚してきた者特有の冷徹な共感がある。
実際のところ、私が動かしているのは「軍」だけではない。プロイドで宰相をしていた時に編成した私飼いの私兵団の彼らに、辺境伯領軍風の粗末な制服や武具を纏わせ、わざと野蛮な風体で村々を襲わせている。恐怖という燃料を注ぎ込み、効率的に『我々の望む方向』へ誘導するためだ。
もちろん、住民は殺さない様に命じている。ただの偽善に過ぎないが、私の最低限の良心ゆえにね。
一方のカシムはわずかに眉をひそめた。彼は王としての矜持を持つ男だ。どれほど戦略的に正しくとも、自国の領民ではないとはいえ、民を欺き、恐怖を煽る策に無条件で頷けるほど、まだ心は擦り切れていないらしい。
「偽りの絶望を与え、本物の救済を演じる……。フィラーネ殿、君の段取りはどこまでも容赦がないな」
「お褒めに預かり光栄です、カシム殿。我々は名目上『賊軍』なのですから。正攻法で民の信頼を勝ち取ろうなどという甘い考えは、最初から捨てておりますわ」
私は冷めた紅茶を一口飲み、その苦みを舌の上で転がす。
「大変結構。でしたら、今後の展開はこうです」
ジャライカは地図上の、アムトラとシルヴをなぞる。
「東から迫る二十万の辺境伯軍本隊は、この両国を進軍することで深刻な食糧不足に悩むでしょう。同地でまとまった現地徴発が見込めないとなれば、プロイドかルーテ、どちらかに戦力を集中させ迅速に攻め落とそうとするのが必定。我々はそれを逆手に取ります」
彼は懐からペンを取り出し、二つの地点を丸で囲う。
「戦略は至って単純。我々連合軍はこの二つの拠点を中心に兵力を分割し、片方に襲来した辺境伯軍を持久戦に持ち込みます。そして、敵方が疲弊したのを見計らい、もう一方の軍が強行軍を以て敵の側背面を急襲。いわゆる槌と金床戦術、という奴ですな」
ジャライカ中将が描いた二つの円。それは敵が喰らいついた拠点を金床とし、もう一方の軍が槌となって粉砕するという、古典的かつ最も確実な包囲殲滅戦の図式だった。
「……理屈は分かります。ですが、二十万を相手に持久戦を演じる側は、文字通り生きた心地がしないでしょうね」
カシムが地図上の金床となる地点を見つめ、苦々しく呟いた。兵数差は依然として圧倒的だ。いくら腹を空かせているとはいえ、二十万の暴力は一国を容易に飲み込む津波となりえる。
「その点につきましても、マクシリア様より既に指示を預かっております」
ジャライカ中将は地図から顔を上げ、カシムを真っ直ぐに見据えた。
「今回の作戦において、ルーテ側拠点の総指揮はカシム陛下にお願いしたいとのことです。フィラーネ殿と私は、陛下を補佐する将として、麾下の軍ごとその傘下に入ります」
「フィラーネ殿に加えジャライカ殿まで、私の指揮下に入るだと?」
カシムが驚きに目を見開く。それは私も同じで、てっきり信任厚いジャライカが指揮をとるものと思っていた。
「そして、プロイド側の拠点は、マクシリア様自らが総指揮を執られます」
「マクシリア殿が、自ら、か。……それは心強いが、中将。一つ聞いてもいいか」
カシムの眼光が鋭くなる。それは一国の王として、あるいは共に戦う戦友としての、拭いきれない懸念だ。
「そのマクシリア殿は、最近どうされているのだ。電撃侵攻の要請も、今回の戦略も、届くのは書状と伝令のみ。先日の会談以来、人前に姿を見せたという話を聞かない。……二十万を相手にする決戦の最中だというのに、主君が不在というのは、不自然ではないか」
カシムの問いに、室内の空気がわずかに凝固した。それは、私自身も心の奥底に仕舞い込んでいた違和感だった。このところ、マクシリアは極端に露出を避けている。そのせいで、妙な噂が流れ初める程にだ。
カシムは畳み掛ける様に言う。
「風聞では、彼は重病だとか、あるいは既にこの世にいないなどという不敬な噂も流れているようだが……」
「カシム殿」
しかし、それをジャライカが遮るように言葉を重ねる。




