軍神の愉悦①
「……東方辺境伯、ユーリク」
その名を口にした瞬間、私の心臓が嫌な跳ね方をした。マクシリアが「計算外の怪物」として最も警戒し、ガルド諸国の誰もが名前を聞くだけで震え上がる「天災」。その本人が、護衛も連れず、ただの酔っ払いの看守に化けて目の前に立っている。
「……なるほど。カシム陛下は貴方に私を差し出した、というわけね」
私は鉄格子を掴む手に力を込め、冷たく言い放った。最悪の結末だ。ルーテ公王カシムは、プロイドとの経済的な絆よりも、目の前の怪物への服従を選んだのだ。ならば、この地下牢は保護などではなく、単なる「屠殺場」への待合室に過ぎない。
だが、ユーリクは意外そうに眉を上げた。
「差し出した? ハッ! さっきも言ったが、そいつは誤解だぜ。カシムはお前の事を家祖『シンデレラ』に比肩すると買っていたが、まだまだ『人』を知らんとみる」
「……なんですって?」
「言ったはずだ。アイツはあんたらを『保護』したんだ。俺という凶事から遠ざけるためにな」
ユーリクは鉄格子を素手で掴み、ぐい、と顔を近づけてきた。凄まじい鉄と血の匂い。数多の戦場を潜り抜けてきた者だけが纏う、圧倒的な死の気配が私を包み込む。
「俺はただ、本格的に軍を動かす前に、人質として昔に可愛がっていた息子の顔を拝みに来ただけだ。俺に従うか、抵抗するかでウダウダしていたようだから、少しケツは叩いてやったがな」
彼は愉快そうに、喉の奥で低く笑った。
「そしたらカシムの野郎。俺の目の前でガタガタと歯を鳴らしながら、腰の飾り剣を抜きやがった。そんで、俺の向けるんだ」
ユーリクは鉄格子から手を離し、自分の首筋をなぞってみせた。
「あいつ、泣きそうなツラでこう言いやがったんだ。『ユーリク、アンタにこの国を好き勝手にさせない! この国を通りたければ、俺の死体を踏み越えていけ』とな。ハッ! あの臆病風に吹かれていた小僧が、名門アーヴィンの意地を土壇場で思い出しやがったのさ」
「カシム陛下が……、そこまで……?」
ユーリクは天を仰ぎ、獣のような咆哮を上げた。それは他者の恐怖を煽る叫びではなく、心底から湧き上がる歓喜の叫びだった。
「と、言う訳だフィラーネのお嬢さん。アンタが手を出すまでも無く、カシムはアンタらの味方にくと決心した。俺も、もう用が済んでこの国を出るから、お嬢様がたもいずれ解放されるだろうよ。では、さらばだ。戦場でまた逢おう!」
「待ちなさい!」
背を向けて立ち去ろうとする怪物の背中に、私は思わず叫んでいた。
「理解できないわ。何一つ、あなたの理屈が通っていない!」
ユーリクは足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔には、先ほどまでの凶悪な愉悦がまだ色濃く残っている。
「理屈だぁ。ったく、それが何だってんだ」
「重要よ! カシム陛下が貴方の味方をすれば、辺境伯軍はルーテを無血開城し、プロイド本土を容易に進撃できたはず。なのに、なぜそんなに嬉しそうなの? 損得で言えば、あなたは今、完全な負けよ!」
戦争とは、外交の延長線上だ。話し合いによる外交で息詰まるから、争いによる「外交」に訴える。それが古今東西の戦争の発生原理なのだ。
たがこの男は真逆。話し合いなどしないどころか、喜んで不利な状況を自ら作り出し、それを戦争でひっくり返そうとしている。私の知る戦略の辞書に、この男の行動を説明できる言葉は一つも載っていない。
「負けェ? その考えは不純すぎるぜ」
ユーリクは鉄格子のすぐ側まで戻ってくると、屈み込んで私と視線を合わせた。その瞳は、深淵のような暗さと、子供のような純粋な残酷さを同時に宿している。
「勝ち負けってのはなぁ、最後まで立っていた方が勝ちなんだよ。お前らが徒党を組もうが何をしようが、ただ粉砕するだけよ。俺のように心底闘争を『楽しむ』人間は、強いのさ」
「……楽しむ? 多くの人が死ぬ戦争が、国家の興亡を、遊びとでも言うの?」




