〈3〉
「スゥー……スゥー……」
――バタン。
「やっっっっと終わったああぁぁー!」
ビクン! 「うへっ…………ほわったんか」
信濃龍城は今しがた閉じたノートパソコンの上に突っ伏して、そのままぐぐぐっっと伸びをした。
「腹減ったからよぉ……近くのラーメン屋行こやー」
「……」
「おい、聞いてんのかって」
「……眠いにゃあ」
信濃龍城は炬燵から出て立ち上がり、風太郎の近くにあるソファーへと腰掛ける。
「あんちゃん寝起きのとこ悪いけどよお、わては腹が減りすぎてもはや痛いぐらいなんだわ、悪いけど引きずり出させてもらうよん」
横になっている風太郎の腋の下に手を入れて、引っ張り出そうとする信濃に対して、完全に脱力しているからかびくともしない風太郎。
「ほーら! 行くんだよー! 腹減って無くてもー! 行ったら腹減るからさー!」
「ううぅぅ! やめろぉー! 外寒いからここで待ってるぅ! というか今の時代、配達できるんだからそっちの方がいいぃー! 店舗行くのめんどくさいぃー!」
怠惰と空腹の戦いが勃発したけれど、それは一方的な戦いに終始することとなる。なにせ人間であるから腹が減るのからは逃れられない。
ぐうぅ~。
「ほら! お腹鳴ってるし、今すぐラーメン食いに行くべ」
「でも……」
「黄みがかったちぢれ麺を啜りたいだろ~」
「ぐ、ぐう」
「濃い醤油スープに浸ったほうれん草もあるぜ~」
「ぎいぃぃ」
「ライスを海苔巻いて食べたり、途中でメンマ休憩挟んだりしてさ……」
「うあぁ! やめてくれぇ」
「ライスの上で残しておいた半熟卵を割って、ほうれん草乗せて、スープを少々かけてさぁ~……それを一気にかっこんだらもう! その時天国まっしぐらだー!」
「……クソォ! これはもう完全に俺の負けだぁ」
「よしキター! そんじゃあ行こうぜ」
信濃はポケットに財布と鍵を突っ込んで、早々に出る準備を進める。
その間、風太郎はというと、一向に炬燵から出ようしなかった。
もぞもぞと動いてはいるけれど、出ようとしない風太郎を見かねて、信濃が急かすように「もたもたしてるとスープ無くなるぞー!」と玄関から呼びかけるのだが、それでも風太郎は相変わらず炬燵に入ったままだった。
そろそろ我慢の限界だと、玄関から炬燵のあるリビングに戻ってきた信濃龍城の目に入ってきたのは、それはそれは異様な光景だった。
それは、炬燵に入っている風太郎が、どうにか踏ん張って炬燵から這い出ようと躍起している姿であり、最初は風太郎がまたふざけているだけだと思ったのだが、それにしてはあまりにも顔が真剣すぎたのだ。
「ぐううぅぅ! あぁ、全然出られないぃ」
「風太郎、お前何して――」
「……あぁ、貝になりたいって思った事もあったけど、まさか炬燵を背負うことになるなんて思わなかったにゃ……あ、それを言うならカタツムリだね」
「何ふざけたこと言ってんだ! 早く出ろってば」
信濃龍城が風太郎とは逆の位置――つまり、対象の位置。さっきまで信濃自身が入っていた場所の布団を掴んでひっくり返す。
風太郎の腋を持って引っ張り出すのは一回失敗しているので、別の解決策をもってこの問題に対処する。
それがこの信濃龍城という「漢」のセンスさ! ――と、頭の中に流れる勝利のBGMを想像しながら、炬燵の中を覗き見る信濃。
だがしかし、そこには空虚な空間があるだけだった。
つまり、そこからは部屋の明かりに照らされているカーペットが見えるだけで、何もなかったのだ。
〝何もなかった〟ということは、あるはずの〝風太郎の下半身〟も存在しないということである。
「…………」
信濃龍城の頭は理解を拒んでいた。
一回冷静になって、炬燵の向こう側にいる風太郎を見てみたけど、相変わらずもがいているのが見えた。
もうとりあえず、風太郎がいる場所以外の布団を全部上に捲ってしまえ、と信濃は風太郎が入っている場所以外の布団を捲って机の上に被せた。
しかし、そこには見渡せるだけの炬燵の中身が晒されただけで、風太郎の下半身などどこにも見当たらなかった。
「――信濃! まずいことが起き始めてるぅ」
「風太郎、どうした!」
信濃が炬燵を回り込んで風太郎の下へと駆け寄ると、徐々に、徐々に、風太郎の体が炬燵の中へと引きずり込まれ始めているのが分かった。
「こうなったら、炬燵ごと引っぺがすしか」
信濃は炬燵を持ち上げてみたが、それはあまりにも重く、またテーブルと布団を分離することさえもできなかった。
その間にも風太郎は、少しずつ、着実に、炬燵の中へと飲み込まれていく。
「えーっと、じゃあこうなったら、風太郎側の布団を持ち上げて――」
布団を捲った瞬間、見えたのは――〝見えてしまったのは〟無残にも下半身が存在しない風太郎の姿だった。
「うっ、うわああ」
「信濃」
風太郎の声が浮いているようにはっきり聞こえてくる。
「な、なんだ! どうした! っつーかそれ大丈夫なのかよっ!」
「この炬燵の正体が俺には分かった」
とうとう、肩まで飲み込まれてしまった風太郎は、覚悟の灯った瞳で信濃を見つめてそう言った。
「炬燵の正体? そ、それはなんだよ!」
「――詳しいことを言う暇はないから……この後大学で落ち合おう」
大学で落ち合う……? 風太郎はいったい何をどういう意味で言っているんだ!? と全く理解が追い付かない間に、風太郎はシュッ……と炬燵に飲み込まれて消えた。
半端に捲られた炬燵と、未だ状況が理解できていない男が一人部屋に残った。
「向かわねば……今すぐにだ! 今すぐに大学へ行って風太郎を探すのだ!」
信濃は炬燵の電源を消し、部屋の電気を消して、戸締りをちゃんと確認した後、自分の家を足早に出る。
そして、夕方と同じように電車に乗り、今度は大学から家へと逆順を辿って向かうのだった。