1-9 真意
湯汲と簡単な夕餉を済ませたサフィーは、アリシアにお礼を言うと龍人を客室へと引き連れていった。途中、香油とくし、それに必要なものを自室から回収し客室に向かう。
龍人を案内した客室もまた、シンプルな部屋だ。壁や床にもごてごてとした装飾は一切なく、家具は寝台とその寝台の隣にランプを乗せる台と、机と椅子その程度しかない。
サフィーは、龍人を寝台に座らせるとふんと向き直った。
「さて、傷の手当と――その髪どうにかしなくちゃね」
龍人の髪の毛は長い。そのため乾かすのにも時間がかかるし、何より乱雑に扱われていたせいか絡まっていた。
それにきっと、この長い髪では視界も悪いだろう。サフィーはさっさと龍人の傷の手当てを行い、髪の手入れにとりかかった。
彼の髪の毛の絡みをひとつひとつ解いていく。時間はかかるが、綺麗な色の髪を粗雑には扱いたくなかった。そして、少しして髪の束が絡みもしていない部分がうねっていることに気が付いた。くせ毛らしい。通りで、よく絡むはずだ。
しかし、この時間はサフィーにとってあまり苦を伴うものではなかった。何せ、彼の髪の毛に触れているとまるで朝焼けひとつひとつを手にしているようで、心が浮つく。
(本当にきれいな色)
そうして、顔にかかっている髪の毛も取り始めた時だった。
サフィーはぎゅっとも、ぎゃっとも聞き取れるような声を漏らした。自分でも、とんでもない悲鳴が出たことに驚いたサフィーだったが、その瞬間、ゆっくりとあの月の庭を模したような瞳へと向いた。
かすかに、手が震える。
龍人の顔は驚くほどに整っていた。掘りは深いものの、鼻筋も頬の輪郭もすっと細く通っていて、猛々しい印象よりも繊細ともいえる顔つきだった。肌色は、白陶器ともいえるほど白い。唇はほんのりとした赤で、全体的にその色の薄さが繊細な印象に更に拍車をかけている。
一方で、目は切れ長で目じりがつんと吊り上がっており、その目の周囲をまとうのは長い扇のような髪と同じ色のまつ毛。そして、扇の中から、あの金色が覗く。
例えば、指先に乗ってしまえば形も残らず溶けていく雪の結晶の儚さと、割れてもその輝きを失わない透明なガラス片の鋭利さを持ち合わせた。そんな雰囲気を彼は持っていた。
ただ、美しいと言うのはあまりにも端的だ。それだけでは、おそらくこの龍人の雰囲気に漂う棘のような恐ろしい何かを表現するには足りない。
そこで、ふと、サフィーは思った。
(星々の使いってこんな感じなのかしら)
星典書に書かれていた星々の使いのことを思い出す。
姿は芸術家によって様々な書かれ方をするため、正解は分からない。異形のように描く者もいれば、美しい姿で描くものもいる。
どこかで聞いたことがある。龍は星に最も近い存在なのだと。
その考えは、龍を魔物として扱う人々からすれば、異端じみた考えともいえた。だが、そういった理由がなければ、龍人がこんなにも恐ろしくも美しい姿をしている理由がサフィーには分からない。
龍人のまぶたが伏せられ、まつ毛が金色に深い影を作ったところで、サフィーは我に返った。
「ご、ごめんなさい。見られていて気分のいいものではないわよね」
彼はとくに何も言うでもなくゆらゆらとその大きな尻尾を揺らしているだけだったが、どうやら完全に気を損ねてはいないようだ。
サフィーはほっと肩を撫でおろして、再び髪の毛を集め始めた。
(びっくりした)
ばくばくと心臓が鳴っている。本当に美しいものを見た時、人はこんなにも戸惑ってしまうものなのかと、サフィーは驚いていた。
だが、いつまでも見とれているわけにはいかない。というよりも、彼の姿をずっと見つめていると心が浸食されそうな気さえする。
そのため、サフィーは必死に手元の作業へと集中した。
おおまかな毛の絡まりを解いたところで、今度は細かい絡まりだ。毛先から丁寧に櫛で絡まりを解いていく。そうして、香油を使ってやれば多少のうねっていた髪の毛は収まりを見せていた。元から綺麗な色をしていたが、手入れをしてやればその艶やかさはうんと増して見えた。
サフィーはその結果に満足し、1人で笑みを浮かべる。この頃になるとあまりにも集中し過ぎたためか、先ほどの龍人への驚愕は薄れていた。
そして、その手入れが施された髪の毛を後ろへとひとつにまとめ、ゆるい位置で黒いリボンを使って結んだ」。
やがて、サフィーは頭の隅でずっと考えていたことを口にした。
「ねえ、私色々考えたのよ――あなたのこと、リュシオラって本当に呼んでもいいものか」
淡い紫にサテン織りの艶を帯びた黒いリボン。案の定というべきか、無彩色の黒が、淡い髪色を引き立てた。
「戦争に使われた花なの。多くの人を惑わし、多くの人を狂わせた毒花。一部の国では使用禁止令もおりている花なのよ。ハーベリスも、その法案が通ろうとしているの。だから――」
サフィーは、ブローチをひとつその黒いリボンに通す。それは、黄色かと思えば青緑の色が光の加減で複雑に漂っていく石のシンプルなブローチだった。これからどこに出かけるわけでもないが、あまりにも綺麗だったのでつい結ってみたくなったのだ。
「だから、ルナスって呼んでもいいかしら。あなたを兵器として扱うような名前で、呼びたくないの」
その時、彼がこちらを少し見た。ああ、やっぱり、彼の目はこの石によく似ている。
サフィーは人差し指で、その石を撫でた。はじめて、彼の目をよく見た時の既視感はこの石だったのだ。
「この、月彩晶から取ったのよ――ああ、でも、あなたがいやなら無理強いしないわ」
「お好きにどうぞ」
その言葉に、サフィーは頬を緩めた。愛想はないが、突き放すようなそぶりはしない。
サフィーはなんとなくだが、名前に頓着がないのだろうという気がした。
そうして、サフィーは彼の髪の中でキラキラと輝く石を見つめながら、口を開いた。
「ねえ、ルナス。聞きたいことがあるの」
ルナスは、再びサフィーの言葉に視線だけを投げた。
サフィーはひとつ、大きく深呼吸をする。そして、彼の目を見据えた。やはり、その黄金は人のものではない。目の前にいる彼は人の形であって、人ではない。
だが、逸らさずに、まっすぐに、サフィーは、問うた。
「――あなた、何が目的なの?」
そう、おかしい。ずっとおかしかった。
サフィーは何故、ルナスが捕まったかを考えていた。龍は恐ろしいほどに強い生き物だ。剣、鉛玉、それらをはじく鱗に、人をあっさりと貫く爪と歯、そして岩をも砕く強靭な力。
そんな力をもつ彼らが、あっさりと人間に捕まるはずがない。
そして、それはきっと彼も例外ではない。だから、捕まったのには理由があるはずだ。
最初、サフィーは彼が大きな怪我か、あるいは病によって体調が優れていないのかとも思った。
しかし、どこからどう見ても、ルナスには大きな怪我はない。体躯も線は細いが、決して不健康な体つきではなく、そのうえ、食事もちゃんと食べた。となれば、大きな怪我や何かの病に侵されている可能性は低いように思えた。
であるならば、なぜ捕まったのか。
龍は、狡猾だ。
それは、例えば何も考えずに国境を跨ぐような種族に対して、向けられるような言葉ではないのだろう。つまり、彼はきっと分かっていた。国境を越えれば、否応なしに剣先が向けられることくらい。分かっていたのだ。では、なぜ国境をまたぎ、大人しく縄についたのか。
何か目的がある。目的があるから、この龍はわざわざ国境を越えて大地を踏みしめ、捕らえられたのだ。
サフィーはじっと、彼を見据えた。
すると、気づく。わずかに彼の肩が震えていることに。
耳を澄ますと小さく喉を鳴らすような、這うような声が聞こえた。
(何――)
瞬間、がしゃんと重い金属音。サフィーはぎょっとした。
ルナスの動きは早かった。
あっと、思ったときにはすべてが遅い。サフィーは体勢を崩し、ひっくり返った。幸いして彼女を受け止めたのは寝台だったので、サフィーを痛みが襲うことはなかった。
ぱっと、目を開き、サフィーは瞬間的に体を強張らせる。
あの、端正な顔が、目の前にあった。
ルナスの黄金が、上限に歪み、ぎらぎらと光る。その後ろには、天井。
呆然としていたサフィーだったが、数刻の間を得てから初めて自分がルナスに組み敷かれたことを脳が理解した。
ルナスの口の端が吊り上がり、わずかに歯が覗く。そこに見えた歯は人よりも明らかに大きく鋭かった。噛みつけば、あっさりと命を持っていくといわんばかりの鋭さだ。
ルナスは、くつくつと喉を鳴らした。紛れもなく、その表情は、愉悦。
そうして、ルナスが今度はサフィーの瞳を見つめて問うた。
「――あなたは、何が目的だと思いますか?」
そこで、サフィーは気づく。
彼の行動を抑制していたはずの重い金属の塊はもうどこにもない。
(ああ、やっぱり――)
あの枷では何もかもが龍人を抑え込むには、足りなかった。それどころか、やはりあんなもので抑えられるはずがなかったのだ。おそらくは、もう本当に役目を見失った金属の塊として床に転がっているのだろう。
しかし、サフィーはルナスに視線から逃げるようなことはせず、底の見えない爛々と光る黄金を見つめ返した。なぜなら、妙に腹立たしかったためだ。
そのサフィーの瞳の奥にあるまっすぐとした青に、ルナスも気づいたのだろう。彼の瞳も揺らぐことはなかった。
だが、ただ1つ――サフィーは、ルナスの問いに答えを返すことができないでいた。
これにて1章終わりです。
以降、土曜日、水曜日、金曜日で9時ごろに更新していこうかなと考えていますのでよろしくお願いします。