1-8 帰宅
太陽は、地平線からじっとこちらを覗いていた。業者に少し多めのチップを渡したサフィーは、ほっと肩を撫でおろす。
道にぽつぽつと家が数軒並んでいるだけのヴィーン村は、静寂そのものだった。なんとか、日が暮れる前に戻ってこれた。
もう日が暮れ始めていることもあり、村人は家の中で夕餉の支度をはじめているようで、辺りには腹の音が鳴りそうな匂いで溢れている。昼食を食べ損ねたサフィーにとっては、その時間はなかなか耐え難いものでもあった。
しかし、この香りを堪能している場合ではない。
サフィーたちは家々が並ぶ通りを過ぎる。その先にあるのはぶどう畑だ。葉はまだ若い黄緑で、その木々に宿る実はまだ小さい。そんなぶどうの木が並ぶ、葡萄畑を過ぎた先にサフィーたちの家はある。
落ち着いた赤茶色の屋根に、ひょいと生えた煙突。煉瓦と白い壁でできた決して大きくはない家だった。とはいえ小さいわけでもない。その姿が見えると、サフィーは心の底から安心できた。
一方、龍人はじっと家を見つめていた。彼にとっては見慣れない光景なのだろうと、サフィーは思う。しかし、そのまま立ち往生されていても困る。
サフィーが声をかけると、龍人はこちらを見つめてすぐにサフィーの後を大人しくついてきた。
一足先に家の中へと入ったアリシアがオイルランプに火を灯しはじめたため、部屋は明るかった。
装飾は少ない家だ。白い壁に、床は年季を帯びた艶やかな深い茶色。その茶色と同じ色の階段が2階へと伸びている。見慣れた玄関だ。
帰ってきたんだ。ほっと肩を撫でおろすとともに、日中の疲れがどっと押し寄せるのを感じる。
しかし、アリシアはもちろんサフィーもゆっくりとお茶を飲んで休む暇はない。
本来であれば宮殿に宿泊する予定だったため、夕餉の支度に今からすぐにでも取り掛かる必要がある。
(さすがにあの状況で、城に泊まらせてほしいなんて……言えないもの)
サフィーはちらりと龍人を盗み見る。何より、彼がいるのだ。余計言えるはずがない。
とはいえ、だ。
(まあ、こうなった以上仕方がないわね)
サフィーは、ため息をひとつつくと夜を過ごすための支度に取り掛かった。
サフィーは龍人の腕の傷を見て、改めて確認する。
「これより深い傷はないのよね?」
サフィーが確認すると、龍人は首を縦に振る。彼の腕にはいくつかの傷はあったものの、お湯につかって悪化しそうな深手のものは幸いしてないようだ。
それに、サフィーはほっと肩を撫でおろす。
さすがに土埃で汚れている彼を野放しにするほど、サフィーの心の器は広くない。
「湯汲はできるわよね。あそこが、浴室よ。着替えは置いておくから」
サフィーの言葉に龍人は頷き、指をさした扉の方へと迷わずに向かっていった。
湯汲を理解してくれたことに安堵しつつサフィーはとある部屋へと向かった。
2階へと上がる。そこには、いくつかの扉が並んでいたが、サフィーは迷わず1番奥の部屋へと向かった。
そして、歩みを止める。ここに入るのは、久しぶりだ。
扉を開ける。そこは、私室だった。机と椅子、それと衣装棚が1つ。爵位持ちの執務室にしては、ずいぶんと質素な部屋だ。
机には村の経営の書類やらがそのままにされており、少しほこりを被っている。諸々の作業に追われて、父の部屋を片付ける余裕がなかったのだ。
(いい加減、片付けなくちゃ)
もうこの部屋を父が使うことはないのだから。そう思うと、胸に空虚が一気に押し寄せてきた。
『行ってくるよ、サフィー』
あの日、父はそう言ってサフィーの頭をぽんと撫でて家を出た。大きな手だった。
もう、子供じゃないんだから。そう口にはするも、サフィーはその父の手が好きだったので、口元には笑顔が零れていた。
あの日、あのとき、父との最後の会話となることを知っていたら、サフィーは何を口にしたのだろうか。引き留めたのだろうか。
それでいて、もしも父が生きていたら、あの龍人を見てなんと言っただろうか。サフィーが行った無謀とも呼べる行動を笑い飛ばしてくれただろうか。
その答えを、得ることはもうできない。だからといって、この鬱屈を引きずることも、正しくはないような気がして。
重い空気を感じながら、サフィーは衣装棚の中から一度も父が袖を通すことがなかった真新しいシャツとズボンを取り出した。サフィーの父親はこの龍人より背丈は幾分か小さかったが、幅があったのでこの龍人も問題なく着られるだろう。少なくともあの麻製の服で過ごすよりかは、きっとこっちの服の方がましなのは間違いない。
サフィーはそれら一式とタオルを抱えて、浴室へと向かう。
あの衣装棚の中身も、書類も、整理せねばいけない。部屋も、時間も、無限ではないのだ。
そして、大きく息を吸って、吐く。
(考えても、お父さんは……帰ってこないわ。そうよ、そうよね――よし!)
サフィーは自分の頬をぴしゃりと叩く。そして、サフィーは駆け足で浴室の籠に服とタオルを置いて、今度は掃除用具を手に取った。
(客室の掃除をしないと、彼を泊める部屋がないわ)
やることは山積みだ。沈んでいる暇などない。
サフィーは自分にそう言い聞かせて、客室へと向かった。
客室の掃除を終えたとほぼ同時。がちゃり、と一階から浴室のドアの開く音が聞こえた。サフィーが廊下に出て吹き抜けの手すりから下を覗き込むと、案の定、そこには龍人の姿があった。
しかし、彼の姿を見てサフィーはぎょっとする。髪からは、ぽたりぽたりと水滴がしたたり落ちている。まったく髪の毛の水が拭き取れていないではないか。
慌てて、サフィーは身を乗り出して龍人に声をかける。
「ちょっと、そこから動いちゃだめよ!」
龍人はサフィーの言う通り大人しくその場に留まり、階段を勢いよく駆け降りるサフィーを見つめていた。
「ああ、もう、ちゃんと拭けてないじゃない」
一度、床を拭く必要があるが、まずは床を濡らす根源となっているこの龍人をどうにかしなくてはならない。
サフィーは龍人の手から大きなタオルを奪うと頭にえいっと被せ、水分を拭きとっていく。タオルは水気を吸い取って、ずっしりと重くなっていく。彼はどうも心地が悪いらしく、わずかに身じろぎうめき声を上げたが、最終的には諦めたのか大人しくなっていた。
彼の髪の毛から水が滴り落ちなくなった頃、サフィーは龍人の髪がただの薄紫というよりも、朝焼けの紫を吸い込んだような色をしていることを知った。
土埃で濁っていても薄紫だとは分かってはいたが、いざその濁りが流されてしまえばうんと透き通るような澄んだ淡い紫がそこにはあったのだ。
綺麗な花を見つけて目を輝かせた子供のような気分になり、サフィーの心は躍る。たまらなく、きれいだ。
しかし、その髪をじっと見つめていようものなら龍人に訝しげに見られるであろうことは、サフィーにも想像がついた。そのため、サフィーはひとつの扉を指す。
「もうすぐ夕餉ができると思うから、あの部屋で待っていて。私もすぐに湯汲を終わらせて行くから」
龍人の青年はサフィーの言葉にうなずきはしなかったものの、大人しく彼女が指さした扉へと向かっていった。その度に、じゃらりじゃらりと音が鳴る。重い、金属音だ。
(取れないのかしら。あの鎖……どうにかしなくちゃ)
日を改めて、あの手枷を外してもらうべく談判するべきだろうか。重そうな鎖の音を聞きながら、サフィーは浴室の扉を開いた。