5-7 狼煙
ぎょっとしてバルドリックの方を向き真っ先に視界に入ってきたのは、サフィーの背丈では絶対見えないはずのバルドリックの頭頂部だった。狼狽えるサフィーをよそに、バルドリックは続けた。
「本来、護衛としてあなたのことを守ることこそが、唯一の使命でした。それを果たすことが叶わず、すべては私の力不足、判断の甘さゆえの結果です。いかなる言葉を尽くそうとも償いきれるものではありません」
なぜ謝罪されているのか分からなかったサフィーだが、それを聞いて理解した。あのときの帝国に襲われたときのことを、謝罪されているのだ。周囲の目がこちらに向いていることに焦りながらも、サフィーは顔を上げるように声をかけたが、バルドリックは頑として上げない。
「バルドリック様、私は無事です。ちゃんと生きています。毒による後遺症もありません」
「それは、あの龍がいたからです。私だけだったら、対応しきれませんでした。護衛としては失格です」
そう言われると、サフィーは返す言葉もなかった。確かにあの件はルナスがいたから、死人がでなかっただけである。
(だからといって、あれはルナスだから対応できたことのような気がするわ)
複数人を体術だけで蹴散らし、ましてや、毒を吸い上げるなんて。龍でなければできないことであろう。そこで、ふっとあのときの記憶が脳をかすめたが、あれは熱に茹だった幻想だと言い聞かせ、サフィーは口を開いた。
「分かりました。あなたの誠意ある謝罪、受け取ります。ですが、それ以上自責しないでください。先ほども述べましたが、私は無事です。生きています。後遺症もありません。だから、顔を上げてください」
その言葉を聞いて、やっとゆっくりとバルドリックは顔を上げた。
「バルドリック様にお怪我はありませんでしたか」
「数か所、痛めましたが支障はありません」
「そう――ならいいんです、それで。それで十分です」
サフィーはそう言って、小さく笑った。その言葉を聞いてバルドリックはわずかに瞼を伏せた。
「貴女の慈悲深きご厚意に、心より感謝を。しかしながら、この身に課せられた責務を果たせなかったこと、決して忘れることはありません。己の失態は心に刻み、今回を含め責務を必ず果たさせていただきます」
「ありがとう、お願いしますね」
サフィーがそう伝えれば、バルドリックは少し柔らかい表情を浮かべた。
それからというもの、バルドリックとの会話は決して仲がいいとまでは言えずとも、不自然ではないほどの会話を詰めるようになった。1人で悶々としていた移動時間は、バルドリックが多少会話をしてくれるようになったおかげで、悩みはなくならずとも減った。そうなると、周囲の騎士にも影響が及ぶ。バルドリックは、やはり周囲からの尊敬が厚いのか、次第に声をかけてくれる騎士も増えた。サフィーもまた卑屈な性格ではない。真摯に、穏やかに、柔らかにちゃんと答える。それらが、実を結んだのかは定かではない。ただ、サフィーの周辺の護衛兵たちは、意思がまとまっていっていると、サフィーは感じた。
たった、2日ほどの時間。ルナスもその間顔を度々出していたが、時間が経過していくごとに自分に対しての兵士たちの警戒が薄れていっているのを肌で感じていたのだろう。不思議そうな反応をしていたが、特に追及するようなことはなかった。
移動最終日の夜には天幕の外でサフィーやルナスも含め炎を囲んで談笑をした。「騒がしい、これから戦地に向かうんだぞ」そう周囲から叱責されるぐらいに、サフィーたちの周辺は賑やかなものだったようだ。
不思議なもので、その夜サフィーは泥のように眠った。疲弊が蓄積していたのもあるだろうが、人々の笑い声に心から安堵できたのだ。サフィーの天幕の番はバルドリックや他の兵士たちが交代で夜通し行ってくれた。ルナスの天幕の番も、バルドリックの指揮のもと兵士たちが率先して行ってくれた。もはや彼らには説明などなくとも、ルナスと呼ばれた龍が自分たちと共に戦ってくれる大事で唯一の味方であるということが分かっていたためだろう。
そうして、夜は明けた。穏やかな時間というのは、あっけないとサフィーは思う。軍の行進に誘導されながら、サフィーは思った。だから、噛みしめる。昨日までの日々を。
「サフィーリア様、もうすぐで到着しますよ」
隣に立つ兵の言葉に、サフィーはゲイルの手綱を強く握った。
見えるは平地。限りない、平地。ハーベリス王国とインダロス帝国の国境周辺は岩肌がごつごつと露出しており、視界を遮るものは少ない。朝日が昇り始めたころということもあり、まだ周囲は暗いが、地平線の彼方から太陽が昇りはじめていた。まだ、帝国の軍の姿はない。
するとサフィーの隣に立ったルシアンが口を開いた。
「諸君、これよりインダロス帝国との戦が始まる。だが、恐れることはない。我らには心強き味方がついている。故に、開戦直後は動くな。時が来るまで後方で待機せよ。全軍、備えを怠るな!」
おおお、と兵士たちの声が答える。台地が、揺れるような錯覚。サフィーは目を細めた。そして大地を見据える。
見えた。目を凝らすと、朝日を背に動く何かが見える。人だ。人だ。とても大勢の。遠くから見ればなおのこと、その軍勢の多さをサフィーは理解した。
「サフィーリア嬢、大丈夫か」
「はい」
かろうじて返事はしたものの、拳には力が籠る。
ああ、あれは、勝てない。太陽に守護されるように進んでくる彼らのその姿に、サフィーはそう思ってしまった。
ハーベリス王国にはない、圧倒的な数という力。一体、いつになったら途切れるのだろうか。その行軍が、途方のないもののようにすら感じられた。あれが、世界屈指のインダロス帝国の軍隊。
体を強張らせる。体から、嫌な汗が噴き出しているのを感じた。爪が刺さるほど、強く、きつく、無意識に拳を握っていた。
「サフィー」
いつの間にか、横にいたルナスがサフィーの手の甲を優しく撫でた。それに、サフィーははっと我に返る。サフィーの顔色は青いを通り越して土気色になっていた。
「――ルナス」
声が震える。情けない。怖がってはいけないのに。
「ねえ、サフィー。これ持っていてくれませんか」
そう言うとルナスは髪を解き、サフィーに半分強引に手渡した。サフィーが手の中を見れば、金色の石が静かにじっと輝いている。出発前も、サフィーはルナスの髪を結い、癖のようにこのブローチを髪留めに通したのだ。
「本当に、脆いですね。その石は。少し欠けてしまいました」
その言葉に、サフィーがブローチを見やれば、たしかに端の部分が少し欠けていた。しかし、毎日結い上げていたはずのサフィーですら気づかなかった小さな欠けでもあった。
ふっと、サフィーは思い出す。月彩晶の物語。
「ルナス」
「ねえ、サフィー。私、嫌いですよ」
ルナスの発した唐突な一言に、サフィーは目を見張った。ルナスはただじっとインダロス帝国の軍隊を見据えていた。
「何度思い出しても、月彩晶の物語は嫌いです。大衆は悲劇的な叙事詩を好む、月彩晶の物語はまさしくその典型的な例だ」
一瞬、サフィーは自分のことかと狼狽えたがそういうことではなかったようだ。早とちりした自分を恥じながら、サフィーは大人しく彼の言葉に耳を傾ける。
「だとしたら、私も、あなたも、大衆の娯楽に成り果てるつもりはないでしょう」
ルナスはこちらを向いて、笑った。鋭利な白い牙が覗く。
それに、サフィーは幾度か目を瞬かせた後、ルナスにつられるようにふっとふきだした。
「ええ、そうね。そうよね。私たちが、成り果ててはいけないわ」
サフィーは、そう言うと土埃を上げる帝国の軍隊を見た。もうじきに、はじまる。




