5-1 崩れゆく音
インダロス帝国は、ハーベリス王国の西にある大きな国だ。
ハーベリス王国よりおよそ三倍の大きさを持つその領土は、複数の国を数百年かけて統合させたものであり、この大陸で吸収されていないのはハーベリス王国とその東にある龍の国アルテリオ王国だけだった。
また、インダロス帝国は世界屈指の強国で、その強さは世界に頒布する植民地の数がすべてを物語っていた。その植民地の多さを顧みれば、農耕を行える土地はいくらあっても足りない。ましてや、それが恵まれた土壌であればなおさらであった。
インダロス帝国の行ってきた戦争の大半は、帝国側の勝利という形で終わりを迎えてきた。
一度でも敗戦さえすれば、さすがのインダロス帝国も次の戦争の準備には多くの時間を要したであろうが、現行のインダロス帝国には敗北とは無縁であった。また、あくまでも時間を要すだけなのには変わりがなく、インダロス帝国との戦争はハーベリス王国にとって約束されていたものとも言えた。
そのインダロス帝国が進軍を開始するのは七日後であり、そんな短期間で、平穏に過ごしていたハーベリス王国の準備が整うはずもない。ハーベリス王国が置かれている状況と言えばまさに絶望的とも言えた。
ルシアン直々の召集に応じたサフィーは、ルナスと共に馬車に揺られていた。体は熱でうなされていたときよりもずっと軽いはずだが、心はその時以上に重かった。
ずんとまるで鉛が浮かんだような空気をサフィーは感じながらぼんやりと外を眺めていた。正確には、ぼんやりと外を眺めることしかできなかった。
やるべきだったことを考えようとしても、一切は無意味であるためだ。
何がだめだったのであろう。いや、もはやたった一人の人間にできる域などはとうに過ぎていたのだろうとサフィーは思う。
ルナスも当然ながら口を開く気はないようで、ただ車輪が転がる音だけが唯一の音だった。
家を出る直前に、ルナスから奇襲の犯人たちがインダロス帝国の人間であることを聞いた。
泥水の中を迷いなく泳ぐ魚のように、ハーベリス王国の人々の見えないところでインダロス帝国は動いていたのだ。
それが最初に可視化されたのが、件のサフィーが襲撃されたあの事件だった。自分の考えていたことが、ただの危惧ではなかったことを感じると同時に、それを察知していたにもかかわらずうまく立ち回れなかった自分を責め立てたくなってしまった。
窓から横目で見えた王都はどこか静かで、鮮やかな色が消え失せたように感じた。
宮殿内に入ると、サフィーとルナスは使用人に丁重に案内された。通されたのはどうやら執務室のようだった。
壁一面には小難しい本が一面に並んでおり、年季が入っているものも多い。軽く眺めれば大半が国の歴史について書かれているもののようだ。古びた本特有の黴臭さが少し気に障ったようで、ルナスは顔を少ししかめていた。
部屋の中央に置かれた机は年季の入ったブラウンのもので、傷やインク染みがついているあたり、ずいぶんと長い間使われているであろうことは容易に想像がついた。
黒の皮張りの重そうな椅子。そこにいたのは手紙の差出人であるルシアンだった。彼は以前目にしたときよりも明らかにやつれており、柔らかな目の下には深い隈が刻まれていた。
宣戦布告通達が来たのは数日前の出来事だったが、だとしても彼の心労は想像に難くない。そのルシアンの脇には、サフィーとルナスに冷ややかな視線を送るグレイモントもいる。
ルシアンは、頭を下げた二人を見て口を開く。
「すまないね。急ぎで呼び出してしまって」
「いいえ」
サフィーはゆるく首を横に振ったが、そのまま言葉はつっかえて出ないままでいた。何を口にすればいいか見当がつかなかったためだ。口を噤んだサフィーを見て、ルシアンは目を伏せた。
「まず最初に。襲撃の件で守れなかったこと、申し訳なかった」
あの件に関しては、不測の出来事だったとしか言いようがない。だから、サフィーはルシアンを責め立てる気など毛頭なかった。
しかし、どう返していいものか分からず、サフィーは黙り込むほかなかった。謝罪を突き返すのも違う気がしたし、かといって素直に受け取るのも違う気がした。するとルシアンは、次にルナスへと視線を移した。
「そして、ルナス。君には感謝を」
それにグレイモントはわずかに眉間を寄せ、ルナスは少し顔を上げる。
「君がいなければ、あの襲撃は成功を遂げ、我が国は計り知れぬ損失を被っていた。この国の民でないにもかかわらず、果敢にその脅威を阻み、星聖女を救い出してくれたことに感服する。そなたの勇気と献身に、心より深謝しよう」
ルナスはゆっくりと瞬きを返した。そして、少し考えるような素振りをしたあと、首を横に振る。
「いいえ、襲撃の阻止は失敗しています。現に、彼女は襲撃の被害を被りました。その時点で、阻止とは言い難い。そのようなお言葉をいただくには、私の行いは至らぬものです」
「そう、か」
毅然とした態度で応えたルナスに、ルシアンは目尻を緩めた。それは、どこか笑っているようにも見えたが、ほんの一瞬のことだった。
彼は、表情を引き締めると改めて姿勢を正し、口を開く。
「さて、本題に入ろうか」
そう言ったルシアンの表情はどこかほの暗い雰囲気があった。
サフィーは、大きく息を吸う。
覚悟はしていた。星聖女になった時点で。
「サフィーリア嬢、誠に遺憾ながら、君には戦の同行を命じることとなる」
「――はい」
分かっていたことだった。星聖女というのは平和の象徴である。そして、可視化された平和の象徴だ。それを同行させることで、改めて平和を護るという意思を起こし、兵士の士気を守るという意図があった。
しかし、サフィーは目を伏せる。
(とはいえ――今回ばかりは)
分がかなり悪い。それはおそらくこの場にいる誰もが思っていたことだった。
相手は世界屈指の軍事力を誇るインダロス帝国。一方、ハーベリス王国は常にインダロス帝国に隠れていたような国だったため、軍事力に関しては皆無に等しい。一番新しい戦争の記録と言えば、三百年以上前のもので、それも小さな国とのい競り合いで負けたのだ。
勝てる、という見込みは無に等しいとも言えた。




