4-6 駄々
サフィーはぼうっとそんなことを考えてしまう。熱のせいでうまく頭は回らなかったが、それでもサフィーは考えた。
すると、ルナスが口を開く。
「熱があるのだから、あまり考え事はしないほうがいいですよ」
そう言って、サフィーの口の中に今度はりんごを突っ込んだ。その頃になると、ルナスに向けて口を開くことの躊躇いや、恥ずかしさはなくなっていた。
サフィーの考えていることをルナスはすべてと知らないだろう。だが、それでもサフィーのことは分かっているのだ。
そう思うとくすぐったい。だが、不思議と嬉しくもあった。
(熱があるのだから、少しは変なこと聞いても許されるかしら)
サフィーはルナスの穏やかな金色をじっと見つめ、尋ねてみた。
「ねえ、ルナス、もしかしてずっと傍にいてくれたの?」
「はい」
案外すんなりとルナスは認めた。
「家に戻ってきて、湯汲はアリシアさんにお願いしました。とはいえ、彼女は他の家事もありますし、毒の対応だったら私の方ができます。ですから、私が看病すると名乗り出ました」
「そうだったのね」
幼少から体調を崩すことはしばしばあったサフィーだが、こうしてつきっきりで看病してもらうのは初めてだ。
「でも、ルナスも疲れたでしょう。自室戻ってもいいのよ」
そして「もうこんなにおしゃべりできるし」と付け加えた。現に、高熱の割にはずいぶん喋っていたような気がする。
(子供じゃあ、あるまいし)
サフィーは、幼少より人につきっきりで看病してもらうことに申し訳なさを覚えていた。そして、それは今も変わらない。
さらに言えば、ルナスもあの騒動の後では疲れているだろうと思ったのだ。
しかし、ルナスは動こうとはしなかった。代わりに、目を細める。
「私が自分の意思で好んでここにいるといったら」
その言葉に数度サフィーは瞳を瞬かせた。
するりと、ルナスの手がサフィーの方へと伸びる。そうして、優しくそっとサフィーの赤みがかった頬に触れた。
胸が、ざわつく。
ルナスの手は見た目が細くしなやかだが、触れてみればしっかりと大きく骨ばった男性のものだ。それ故か、サフィーに触れた指先は優しい。本当に触れるだけのものだ。
突き放さなければ、とは考えるものの、行動することはできなかった。それどころか、彼を拒絶する言葉すら思いつかない。ただ1つ、「自分はグレイモントの婚約者なのだから」という言い分を思いついたが、どうしてもそれを言う気にはならなかった。いや、言いたくはなかったのだ。
ルナスはずっと聡い。サフィーが漏らしたこともあるが、グレイモントとの関係が表面的なものであることは理解しきっている。だから、ルナスはグレイモントにあんな発言をけしかけたのかもしれないとサフィーは思った。さらに言えば、そこまで把握しているルナスが、今さら「婚約者だから」と言われて大人しく退出するとは思えない。
サフィーが口を噤んだのをしっかりと肯定と認識したルナスは、今度は手でサフィーの頬を覆った。どうやら、彼の体温は幾分か人間のものより低いようで、熱っぽいサフィーの頬にはルナスのその低い体温が心地よい。
サフィーは目を細める。
(ああ、温かいな)
不思議とそう思った。ルナスの体温はサフィーよりも低いのに。なぜかそう思った。
わずかに、視界が滲む。それをルナスに悟られないように、サフィーはもぞりと布団の中に潜り込んだ。
熱を出したとき、いつも心細かったことをサフィーは思い出す。
しかし、家事をこなすアリシアの服の裾を引っ張るわけにはいかず、父ともなればなおさらできなかった。甘えたら迷惑になってしまう。そのため、幼いころからサフィーはいつもじっと耐えて、その寂しい日々をやり過ごした。そんな幼い彼女にできたことといえば、早くこの病気がどこかに飛んでいきますように、甘えたいという己の弱さと共にこの熱が引いていきますように、そう星々に祈ることだけだった。
けれど、今は違う。ルナスがいる。
「ねえ、ルナス」
「なんですか」
「私が元気になったら、今度はカードゲームがしたいわ」
「いいですよ」
サフィーの少し鼻の通らない声にルナスの顔色が変わることはなかった。彼は気づいている、間違いなく。だが、気づかないふりをしている。
しかし、サフィーから言わせれば、それに救われた。慰めの言葉など、サフィーは求めていなかったのだ。
ルナスは、きっといつかいなくなる。彼はこの国の民ではないのだから。
故に、必然といずれ別れがくる。それは、サフィーもよく自身に言い聞かせている。分かっている。それでも、今は、今だけはこの手を離したくないとサフィーは本気で思っていた。
だから、だから、今だけは。
「――1人にしないで」
きっと、熱のせいだ。こんな子供じみたことを思うなんて。普段なら思っても決して口にはできない。きっと熱で頭が溶けておかしくなったのだ。
きゅっと、サフィーは布団の中で体を小さく丸める。すると、ルナスは小さくくすりと笑ったような気がした。
「しませんよ」
その声は、本当に穏やかなものだった。子供に寄り添う親鳥がさえずるような、そんな柔らかな陽だまりに似た声だった。
「――約束します。貴方の傍にいると」
サフィーの口から、震えた呼吸が零れた。
(ああ、どうしよう、どうしよう)
ぐっとこらえようとしても、蒼石の瞳から涙が溢れていく。その手は否応なしにルナスの手を濡らしたが、彼は何も言わなかった。
ルナスの言葉はただのサフィーへの慰めかもしれなかった。サフィーがこれ以上、泣かないようにという憐みからの嘘。
ただ、仮にルナスのその言葉が嘘だったとしても、サフィーは嬉しくて溜まらなかった。
しかし、それと同時にサフィーの心は痛かった。サフィーはその彼の優しい嘘に、嘘で返すことができなかった。嘘でも、傍にいてと言えたなら。
(でも、言いたくない。嘘でも言えない。違う、私は――)
この胸に募った想いを嘘になどしたくない。
せめて「あなたには、ほかに素敵な女性がいる」と言えれば良かったのだろうか。だが、それを実際に口にできるほどの強かさをサフィーは持っていなかった。もし、本当に口にしてしまったのなら、ルナスがどこかに行ってしまうような気がしたためだ。そうなれば、サフィーは悲壮に暮れるであろう。
(ルナスがアルテリオ王国に戻る、それは正しいことのはずなのに)
そこで、サフィーは気づいてしまった。サフィーの頬を包む手が離れていくことに傷つく心があることに、その傷に怯える心があることに。ああ、なんてことだろうと、サフィーは唇をかみしめた。きっと、気づいてはいけなかったのだ。
いっそのことこの涙と一緒に、彼への想いも流れてしまえばいいのに。サフィーはそう思った。だが、その想いが流れていくことは、もしかしたらずっと空虚なことなのかもしれない、とも思った。
故に、サフィーは祈る。せめて、ルナスがこの想いに気付かないようにと。サフィーが何よりも望むのは、ルナスが明日も生きていてくれることなのだ。それ以上、彼に望むことはない。
(だから、お願い、この想いに気付かないで)
そうは思うものの、無意識にサフィーはルナスの手を手繰り寄せた。
相変わらず、ルナスは何も言わない。その彼の無言に、甘えるようにサフィーはルナスの熱を脳に焼き付けた。
そうして、サフィーの意識は再び夢の中に誘われていく。やがて、視界の帳は落ちた。




